幻灯
重たい空気で目を覚ました。なんとなく息苦しくて、悪夢の続きを疑った。肺にずしりと重い何かがのしかかっているようで、それが自分の呼吸なのか、部屋の空気なのかがわからなくなり、やがて耐えきれない違和感にやっと身体を起こす。
暗い部屋。ぼんやりとした白い靄が視界全体の輪郭を曖昧にしている。夢の中にいるようで、しかし傍の妻の寝顔が妙にリアルだった。ーー呼吸が浅い?妻に声をかけようとしたところで、喉の奥がきゅっと縮んだ。
「ーーー…」
声が出ない。乾いた喉に痛みが走る。なんだ?
妻の動かない顔に触れようとして、ふと、サイドテーブルの時計に目が行った。文字盤は深夜2時半を指している。
彼は息苦しさを振り払うように頭を振った。白い靄は晴れなかったが、重たい身体をなんとか引き摺りながら布団から抜けると今度は耳鳴りが彼を襲う。いつもなら聞こえる筈の近所の車のエンジン音や野良猫の鳴き声といった音がまったく聞こえてこない。
水が欲しい。喉も唇も、指先さえもひりついて、キッチンを目指してドアを開けた。瞬間、飛び込んできた光景に目を見開く。
ドアを開けた先、見える筈の廊下の向こうが不自然に歪んでいた。階下の方から白い煙が迫ってきている。肌が焼けそうなほどの熱気を一気に吸い込み、膝をついた。一瞬意識が遠のく。ーー火事だ!
宗一郎は思い出したように室内へ戻ると、眠ったままの妻の名を呼んで揺り起こした。
「菜美花!」
小さく呻いて身を捩る妻は、少ししてうっすらと目を開ける。だが彼女の覚醒を待ちきれず、宗一郎は急いで妻の身体を持ち上げた。両腕に命の重さがのしかかる。
「宗一郎さん?どうしたの?」
「火事だ。下が燃えている。このまま庭に出るからしっかり掴まって!」
宗一郎はドアに体当たりする勢いで寝室を飛び出し、熱気が迫る階段とは反対方向に走った。菜美花は腹を庇うように宗一郎に身体を寄せる。首に回した手は小さく震えていた。
二階の奥の窓からは細やかな庭とカーポートが見えている。窓から足を伸ばせば衝撃は抑えられる筈だ。ーーそう、思う他にない。
玄関側は既に煙が充満し、もうここから脱出する他にない。
宗一郎は息を呑んだ。
「宗一郎さん、わたし一人で降りられるわ。だから…」
不安げに言う菜美花に、宗一郎は宥めるように微笑んで頷いた。飛び出しそうな心臓を抑え込む。
「大丈夫だ。心配しないで」
決心して窓の桟に足をかける。冷たさが素足を通してより心臓を痛めつけた。
まず妻を窓枠に座らせ、自身は窓枠に腰掛けて足場を探る。カーポートの上は昨晩の雪で白く覆われていた。ゆっくり身体を滑らせると、溶けた水が足裏のひび割れに染み込んでくる。身体が震え、弾みで足が滑った。心臓が跳ねる。
窓に近い部分の雪を手早く下へ落とし、下から支えつつ妻をカーポートの上に降ろした。続いて芝生への降下を試みる。気付けば、無事に地上へ降りていた。
ドカン!
二人が降り立つのを待っていたかのように爆発が起きる。いくつかの窓ガラスが散り散りになって頭の上から降ってきた。宗一郎は再び菜美花を腕に抱えて火から離れる。
どこまで離れればいい。緊張ですっかり息が切れて、頭が上手く回らない。
そういえば通報ーーいや、スマホは置いてきてしまった。
「そ、宗一郎さん!あれ!」
菜美花が震える指先で家の方を指差した。踊るように燃え盛る炎の中に何を見つけたのか。宗一郎は目を凝らした。
ーーそんな馬鹿な。
炎の中で、何かが動いた気がした。それは人の形をしているように見える。ゆらゆらと揺れ、まるで苦しんでいるようなーー。
「石上さーん!」
不意に遠くから声を掛けられ、振り返った。近所に住む金物屋の店主で、宗一郎や菜美花とも交流がある人だ。寒い中サンダルで走り、息を切らせていた。
「今っ、通報、したから、救急に!今、消防車来るから!」
途切れ途切れに怪我はないか、具合は悪くないかと訊く店主に菜美花が礼を言いながら対応する。もう一度炎の中に目を戻した時には、もう何も見えなかった。
後から追いかけてきた金物屋の奥さんが、菜美花と宗一郎に履き物を貸してくれた。
やがてサイレンを鳴らしながら消防車が到着し、あっという間に消火活動が始まる。周囲にはわらわらと野次馬が集まり始め、スマホ片手に撮影会を始めている。
彼も菜美花も大きな怪我はしていなかったが、少し顔色の悪い菜美花は念の為病院へ運んでもらい、金物屋の奥さんに付き添ってもらうことになった。残った宗一郎に誰かが肩を揺すって励ましの言葉を掛けてくれたが、なにも頭に入らない。黒い煙を吐き出す我が家をぼうっと眺めているしかなかった。
消火は明け方近くに終わった。骨組みだけが黒く焼け焦げて残っている。防火服姿の男たちはまだ忙しそうに動き回っていたが、野次馬はまばらになってきていた。
「出ました」
不意に聞こえた声が、霞がかった宗一郎の意識を晴らす。上官らしき男の元に走ってきた消防士が言っていた言葉が、はっきり脳内に響いた。
「一階、廊下に一体。ご遺体です」
その言葉の意味を必死に探るが、頭が痺れたみたいでうまく働かない。
やがて消防士の一人が宗一郎のそばにやってきて言った。
「これに見覚えはありますか?」
見せられたのは黒焦げになった腕時計。かろうじて文字盤が判別できる。裏側には見覚えのある名前が刻印されていた。
消防士の目を見返して、わずかに頷く。
「ーー弟のものです」
宗一郎は、それだけ言って目を伏せた。
それは宗一郎の父親が二人の息子に贈った揃いの腕時計。
言葉が出なかった。
目の前が真っ暗になってその場に座り込む。
ーーかくして、石上家の火災事故は一名の死者を出して幕を下ろした。原因はガス漏れによるものという結論が出され、暫し全国ニュースで取り上げられることとなった。
発見された遺体は、遺留品から石上宗一郎の弟、潤一郎のものであると報道された。しめやかに執り行われた葬儀には多くの友人が参列し、線香の煙越しに潤一郎の写真は微笑んでいる。
宗一郎は、そんな様子をまだぼんやりと眺めていた。
火事からはもう何時間も経っているのに、未だ悪夢から醒めない気分だ。
ふと、蝋燭の火が宗一郎の目を焼き付ける。
ーー自分はあの日、彼を見殺しにしたのだろうか。




