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「見えないもの」

作者: TRIGGER
掲載日:2026/01/19

この物語は、町で見かける一人の老人の姿から生まれました。

誰も知らない優しさや、小さな行動が、静かに人の心に届く瞬間を描きたくて書きました。

読む方には、ゆっくりと、視線を止めるような気持ちで読んでほしいと思います。

 この町に越してきて、最初に覚えたのは、誰も近寄らない老人の存在だった。朝すれ違っても挨拶(あいさつ)は返らず、視線だけで子供を泣かせてしまうらしい。実際に見た彼の顔は、確かに(けわ)しく、感情がどこにあるのか分からなかった。近所の人は皆、関わらないほうがいいと言ったし、私も特別な理由がなければ、その忠告に従うつもりだった。ただ、同じ道を使っている以上、完全に無視することもできず、私は彼を「そういう人」だと決めつけたまま、日々を過ごしていた。


 引っ越してからしばらくして、私はその老人と同じ時間帯に家を出るようになった。駅へ向かう細い道で、必ず向こうから歩いてくる。私は一度、軽く会釈をした。返事はなかった。むしろ、こちらを一瞥しただけで、そのまま通り過ぎていった。その視線に悪意があったのかどうかは分からない。ただ、胸の奥に小さな棘のようなものが残った。次の日も、その次の日も、結果は同じだった。挨拶(あいさつ)をやめた頃には、私も町の人たちと同じように、彼を避ける側に回っていた。


 ある午後、商店街の角で、私はその老人と小さな子供がすれ違う場面を目にした。老人は立ち止まり、何か言おうとしたようだった。次の瞬間、子供が大きな声で泣き出した。母親が慌てて子供を抱き寄せ、老人を睨む。彼は何も言わず、ゆっくりと手を下ろし、(きびす)を返した。その手の動きが、途中で行き場を失ったように見えたのは、気のせいだったかもしれない。

 その出来事のあと、私はあの老人と関わらないことに決めた。町の空気に逆らう理由もないし、わざわざ誤解されに行くほど、私は善人でもなかった。見なかったことにすればいい。ただそれだけの話だったはずだ。それでも、朝の道で彼の姿を探してしまう自分がいた。すれ違わなかった日は、なぜか少し落ち着かなかった。理由を考えないようにしながら、私は彼の存在を、意識から追い出しきれずにいた。


 その日も、いつもと同じ道を歩いていた。工事中の足場が外されていて、視界が少し開けていた。ふと横を見ると、あの老人の家の窓が、珍しくカーテンを引かれていなかった。中で、彼は椅子に座っていた。手にしているのは、古い写真だった。町で見かける(けわ)しい表情とは違い、その顔は驚くほど穏やかだった。誰かに向けるように、静かに微笑んでいた。その光景を見た瞬間、私は自分が今まで何を見てきたのか、分からなくなった。

 それからしばらくして、私は駅前の掲示板に貼られた古い写真展のポスターを目にした。町の昔の風景を集めたものらしく、色あせた白黒写真が並んでいる。その中の一枚に、どこか見覚えのある横顔があった気がして、足を止めた。けれど確信が持てず、私はそのまま視線を外した。急いでいたし、気に留めるほどのことでもない。そう思って、その場を離れた。


 それから数日後、朝の道で老人の姿を見かけなくなった。最初は、たまたま時間がずれただけだと思った。同じ道を通っても、あの視線に出会わない。商店街を歩いても、あの(けわ)しい顔を探してしまう自分がいた。噂は、いつの間にか広がっていたらしい。「急にいなくなった」「身寄りがなかったそうだ」そんな言葉だけが断片的に耳に入る。私はそのどれもを、深く確かめようとはしなかった。ただ、もう二度とすれ違わないのだという事実だけが、静かに胸に残っていた。


 老人のことを思い出した数日後、私は駅前の小さな展示スペースに立ち寄った。以前見かけた、あの写真展だった。特別な理由があったわけじゃない。ただ、時間が少し空いていただけだ。壁に並ぶ白黒写真は、どれもこの町の昔の風景で、今より人が多く、表情もどこか柔らかかった。その中の一枚で、私は足を止めた。以前、見覚えがある気がした写真だった。そこに写っていたのは、若い頃のあの老人だった。今よりずっと穏やかな顔で、誰かの隣に立っていた。

 写真の横には、小さな説明文が添えられていた。「町中の鴛鴦(おしどり)夫婦にインタビュー」。そういう企画らしかった。並んだ写真の多くは、肩を寄せ合う老夫婦や、少し照れた表情の二人だった。その中で、あの写真だけが目に留まった。若い頃の老人が、隣の人物を気遣うように、ほんの少し身体を傾けている。写っていたのは、穏やかに笑う女性だった。私はそこで初めて、彼が誰に向けて、あの優しい表情をしていたのかを知った。

 写真展を出てからしばらくして、商店街で立ち話をしている人たちの声が耳に入った。老人の話だった。「奥さんの葬儀で、しばらく町を離れていただけらしい」。誰かがそう言い、別の誰かが、そうだったのか、と短く返した。それだけの会話だった。大げさな驚きも、反省もなかった。ただ、私の中で、あの日見た優しい表情と、写真の中の女性が、静かにつながった。


 その日の午後、商店街でまた子供の泣き声が上がった。老人が立ち止まり、口を開きかけただけだった。周囲の視線が集まる前に、私は思わず声をかけた。「大丈夫ですよ」。それだけだった。母親は一瞬戸惑い、それから子供を抱き直した。場は、思っていたよりも静かに収まった。

 老人は私の方を見て、ほんの少し顔を綻ばせた。慣れない様子で、短い言葉を紡ぐ。その声は、どこかやさしかった。


「ありがとう。」

この作品で描きたかったのは、人が本当に大切にしているものは、必ずしも目に見える形ではない、ということです。

老人も、町も、語り手も、誰も完全ではありません。

それでも、誰かの小さな優しさは、ふとした瞬間に伝わるのだと感じてもらえれば嬉しいです。

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