限界社畜は癒されたいだけなのに
耳慣れた最寄り駅のアナウンスに真優は白い膜につつまれていた意識をはっと浮上させた。
窓から差し込む朝日が心地よくて、また下がりそうになる重い瞼をこじ開けながら、ふらふらと立ち上がり、抱えていたリュックを背負う。中身は財布とノートパソコンに家の鍵とスマホ。あとは着替えた服も。
それほど重量はないはずのそれが、錘のように肩にめり込むのは、体が疲れ切っている証拠だろう。
それもそのはず、真優が帰宅するためにこの電車に乗ったのは実に4日ぶり。
真優が勤める会社から最寄りの駅まで徒歩で8分。そこから電車に揺られること8駅分、およそ20分。さらに駅から徒歩10分かけてようやく自宅アパートへとたどり着く。
この片道おおよそ40分の道のりを近いと感じるか、遠いと感じるかどうかは人それぞれだとは思うが、担当するプロジェクトを納期通りに完了させるためには、途方もなく遠い距離だった。
でも、そのプロジェクトもようやく終わりが見えてきた。おかげで今日は真優にとって20日ぶりの休日だ。
そろそろ労基から監査が入ってくれてもいいじゃないかと思うほどの労働環境だが、それでも代休という制度は存在するし、ごくまれに落ち着いているときは定時で帰れる。残業代だってきちんと出るから、お給料は同年代に比べたらもらっているほうだ。だから、まだましなほう。そう思って折り合いをつけていくしかない。
ため息を一つついて開いたドアから出ると、新緑の香りが混ざる暖かい風が誰もいないホームを通り過ぎて行った。空からは朝特有の柔らかい日差しが降り注ぎ、街を照らしている。
まさに爽やかで、すがすがしい朝。徹夜明けにはまぶしすぎるその光景に真優は思わず目を細め、下を向いたまま歩き出した。
早朝の道は人も、車も少なく静かだ。聞こえてくるのは軽やかな鳥の鳴き声と、犬を連れた人同士の明るい挨拶ぐらい。朝にふさわしいその音すらも、今の真優には重い。
この数か月、納期内に必ずプロジェクトを終えろという上からのプレッシャーと、無茶と分かっているスケジュールを押し付けざるを得ないメンバーからの不満に、まさに板挟みにされた日々だった。
そこをうまく調整するのが自分の仕事だとわかってはいるものの、気の弱い真優は自分の負荷を増やすことでその軋轢を和らげる方法しか思いつかなかった。
その結果、終電帰宅に休日出勤は当たり前。納期直前は家に帰ることすらままならず、業務負荷に比例するように増え続けるのはストレスだけで、反比例するように食欲と睡眠時間は減っていった。
そうしてようやく解放された今日、残ったのはボロボロになった自分だけ。
ここ数年はずっとこんな感じで、充実したプライベートなんて夢のまた夢だ。
――なんのために働いてるんだろう。
最近、たまにそんな考えがふと頭をよぎる。
真優は背中にのしかかるリュックの肩紐をぎゅっと握りしめ、逃げ込むように商店街のアーケードをくぐると、少し荒くなった息をほっと吐き出した。
無理に動かしたせいでさらに鈍くなった足を何とか前に進めながらふらふらとまだ薄暗い商店街の中を歩いていく。あともう少しでアーケードの端にたどり着くというところで、視界の端で何かがきらりと光ったような気がして真優は足を止めた。
顔をあげてみると、格子のような横引きのシャッターが引かれていた店のガラス戸にアーケードの向こうから差し込んだ朝日が反射している。
その光に引き寄せられるように近づき、格子状になったシャッターの隙間から中を覗いてみた。そこには毛足の短い緑色のカーペットが敷かれ、丸いローテーブルがいくつか置かれている。中央にあるのは木をかたどったモニュメントだろうか。周囲をベンチで囲まれたそのモニュメントにも壁際にも丸い階段状のステップがついている。
――なんのお店だろ?
もちろん中はまだ暗く、誰もいない。それでもなぜかぬくもりを感じるその店内の様子に、真優は肩の力がほっと抜けたのを感じた。同時に視界がぐらりと揺れる。
自分の体がガシャリとシャッターにぶつかる音を聞きながら『まずい』と思いはしたものの、もう真優には疲労にかさ増しされた重力に逆らう気力も体力も残っていなかった。
◇◇◇◇
陽だまりのようなぬくもりに、干したての布団のような香り。そして、雲のようにフカフカで、柔らかな手触り。真優はその極上の”癒し”に顔を突っ込み、思いっきり息を吸い込んだ。
「あぁぁぁ……最っ高……!」
今週もほとんど終電帰宅だった。わが社の営業成績ナンバーワン、若手ホープの同期がまたまた特大の無茶ぶり、いや、大型優良案件を取ってきたおかげで。
それこそ一晩中、会社の電気が消えることがないくらいに社内はとても活気づいている。
以前の真優なら、どれだけ胃を痛めても、食事がままならなくなっても、快眠とは程遠い睡眠時間しか確保できなくても、わが身を粉にして働き、消えることのないストレスを積み重ねていただろう。
でも、今は違う。この一吸いで、そのすべてが吹っ飛んでいく。
たとえ吸っている相手に、グイっと顔を押しやられようとも、その少ししっとりとしたぷにぷにの感触だって真優にとってはご褒美だ。
「テンくんは今日ももふもふで最高にかわいいねぇ」
デレデレと緩んだ真優の顔を容赦なく押してくる柔らかなお手手に頬ずりをしようとしたらひらりとかわされ、白地にシルバーと黒が美しい縞模様を織り成す豪奢な尻尾をひと振りしてテンは真優のもとから去って行ってしまった。
「あぁ、行っちゃった……。でも、歩く姿もかわいいなぁ」
寝ていても座っていても歩いていても、何をしていてもどんな時でも、なんてかわいいのだろうか。
猫という生き物は。
去っていくテンの後姿を惜しみつつも堪能し、その姿が見えなくなるまで見送ると、真優は転がっていた体を起こした。
すると、薄灰と黒の縞模様をまとった猫が優雅な足取りで真優のそばに寄り、ぐりっと頭を真優の右膝に擦り付けてきた。
彼女の名前はミヤ。長毛であるテンに比べると、短くて少し硬い毛を頭から背にかけて撫でてやると、ミヤは気持ちよさそうに顔を上げる。それから「にゃあ」と可愛らしい声で一鳴き。
それが『もっと』の意味であることを真優はもう知っている。
「おねだり上手さんだなぁ」
アゴをこしょこしょとくすぐってやれば、ミヤは「そうでしょ」と言わんばかりに得意げにもう一鳴き。その可愛さにたまらず真優の鼻の下が伸びていく。
すると今度は左膝を目がけて、別の猫が頭をすり付けて来るではないか。
――あぁ、ここは紛れもなく天国だ。
真優は心からそう思う。
両手の花たちを存分に撫で回していると、後ろから声をかけられた。
「今日もモテモテだね」
「あっ、明日満さん、こんにちは」
「こんにちは、真優くん。いつもありがとね」
「いえ、こちらこそありがとうございます! 俺は『Fluffy』のおかげで生きていられるので!」
キリッとのたまった真優に、整った顔で困ったように微笑んだ明日満は、都内に何件もカフェを所有する実業家で、ここ、猫カフェ『Fluffy』のオーナーでもある。
そんな明日満が真優の発言になんとも言えない顔をしたのは、それが比喩でも何でもないことを知っているからだった。
『Fluffy』に通うようになってから、真優の生活は少しだけ変わった。
今でも仕事が激務であることには変わりない。終電帰宅も、泊まり込み残業も、休日出勤も当たり前。
それでも、以前なら一日ベッドの上にいるだけで終わっていた休日には必ず店を訪れるようになったし、極まれに早く帰れる日があれば、平日でも店に顔を出している。
生活の中心が仕事から『Fluffy』へ変わったのだ。
それだけでも気の持ちようが全然違う。
どんなに理不尽な要求も、何度やっても再現しないバグも、これが終われば『Fluffy』に行けると思えば耐えられたし、がんばれた。
もう、ここを知らなかった日々を真優は思い出せない。
それもこれも、あの日、”彼”が真優を拾ってくれたおかげだ。
その端整な顔立ちを思い出していると、ちょうどその人の声が聞こえた。
「店のおかげじゃなくて、オレのおかげでしょ」
20連勤明けのあの日、真優は疲労に負け、早朝の商店街で倒れこんだ。
次に意識が浮上したときに感じたのはこれまでに味わったことのない頭の重さ。
仰向けに寝転がっていることはわかったが、頭が重くて重くて起こすことができない。瞼の裏は暗く、目を開くこともできなかった。
それなのになぜか顔に温かくて柔らかなものがふれる感触がする。それから、干したての布団のような優しい香りも。
――俺、死んだかな。
真優は今まで感じたことのない重み、感触、香りに本気でそう思った。
そして、もしそうであれば、真ん前で倒れてしまった店の人にとても申し訳ない、とも。
なんの店かもわからないし、今日のさっきまであることすら知らなかったが、あの店はすごく素敵な場所に見えた。それなのに自分のせいでいわくを付けてしまうのは非常に申し訳ないことだと思ったのだ。
あの店のあった商店街は通勤のために毎日のように通る。
でも、残念ながら店がやってる時間に通れたことはほとんどない。
住み始める前には商店街の近くならば買い物に不便はないと思ったはずなのに、もっぱら駅の近くのコンビニを利用するだけの毎日で、商店街のどの店にも行ったことがないし、どんな店があるのかも知らないのだ。
もったいないことをした、と心底思う。後悔先に立たずとはこういうこと。
思い返してみれば何もない人生だった。
父親は会社員、母親はパート、弟が一人のごく一般的な家庭に育ち、小中高は家の近くにある公立高校へ通った。特に将来の夢もなく、唯一得意だと思えた情報系の学科がある中堅大学に進学して、中堅のIT企業に就職。
ちらほらと同期や友人の結婚話を聞く年齢になったが、自分にはその予定はもちろん、しばらく恋人もいない。
大学時代につき合っていた恋人は、就職後にあっさりと振られてしまった。
残業と休日出勤が当たり前の職場環境のせいもあったが、『まーくんは私がいなくても生きていけるよね』と言われ、否定できなかった。
それ以降は仕事しかしていない。
別に真優は仕事が嫌いなわけじゃない。選んで就いた職種だ。プロジェクトをやり遂げた時は達成感もある。ある意味、失えば生きてはいけない。
でも、それで何か満たされたかというと、何もない。
目の前の業務に忙殺され、楽しみも、喜びも、安らぎも、悲しみさえも感じることなく過ぎていくだけの日々だった。
もっと、やりたいことがたくさんあったはずだ。もっと、欲しいものもたくさんあったはずだ。もっと、できることがあったはずだ。
もっと、もっと、もっと、
――生きたかった。
そう思った瞬間、頭がふわりと軽くなった。真っ暗だった瞼には光を感じる。
真優が恐る恐る目を開くと、ぼやけた視界にひらりと白い雲が揺れた。
もしかしてこれが天国なのだろうか。
そう思いかけたが、ピントが合い始めた視線の先には木目調の天井がある。
その天井も、真優が今寝ているベッドも、見覚えのある場所ではない。でも、知らない世界ではない。どうやら、無事生きているようだ。
そのことに、真優はひどく安堵した。
「起きた?」
夢うつつのまま天井を眺めていたら、唐突にかけられた声に一気に現実へと引き戻され、真優はがばりと勢いよく飛び起きた。
そこには上半身裸の若い男がいた。緩く外に跳ねた長めの髪には銀色のメッシュが施されており、さらされている胸も腹も、程よく筋肉がついている。
その下にはグレーのスウェットパンツをはいていて、パッと見ただけでも今時の若者といったいでたちだ。
そしてあからさまにイケメンだった。凛々しい眉と目尻がシャープに吊り上がった大きな瞳が気の強さを窺わせる。
おそらくこの部屋の住人だということに気がついた真優は何か言わねばと乾いた口を開いた途端、唇に張り付いた何かがその中へと入り込み、舌をもつれさせた。
「うえっぷ、な、なにこれ?!……毛?!」
口を拭った手にはベッタリと白い毛が張り付いている。しかも結構長くて、取れない。
「あーさっき顔に乗ってたから」
「えっ、顔?? な、なにが……?」
「オ、……猫が」
「お、ねこ?」
なぜか一瞬どもった男の言葉に真優は頭の上にはてなを浮かべながらあたりを見回した。
どうやら、先程まで真優の顔面には猫が乗っていたらしい。
でも、近くにそれらしき生き物は見当たらない。
猫は知らない人には懐かないというから隠れてしまったのだろうか。顔には乗るのに。
キョロキョロと部屋の中を探してみるが、やはりいない。
これまで真優は特段、猫という生き物に関わったことはなかった。昔一度、道端でうずくまっていた汚れた猫を家に連れ帰ったことがあったが、すぐにいなくなってしまった。
だから、あの温もりと柔らかさ、そして優しい香りは特別なもののように思えた。
できるならばもう一度、と思うくらいに。
それは猫が出てきてくれなければ実現できない。
少し残念に思いながらも視線を男に戻すと、気がつけば先ほどよりもずいぶんと真優の近くへ来ていた。
「顔色は多少ましになったな」
男はそのままベッドへ腰をかけると、唐突に真優の頬へ手を伸ばしてくるもんだから、真優は思わず体を固まらせた。
近くで見る男の顔は、やはり端正という言葉がよく似合う。瞳はうっすらと緑ががかっていて、もしかしたら外国の血が入っているのかもしれない。
口を開けたままポケラと見惚れていると、男はふっと息を漏らすように笑った。
「顔、洗ってきなよ、毛だらけになってる」
「えっあ、はい、すいません、あの、ご迷惑をおかけして…」
「別にいいよ。まぁさすがに店の前で倒れてたのはびっくりしたけど」
男は店の二階に住んでおり、シャッターに何かがぶつかった音に気がついて、ちょうど店の入口の真上にある窓から見下ろすと、そこに倒れていた真優を見つけたという。
当然、救急車を呼ぼうとしたが、一瞬目を覚ました真優がそれを全力で拒否。その後また倒れ込んだ真優は眠っているだけのようだったから、とりあえず部屋に上げて、ベッドに寝かせてくれたらしい。
それを聞いて、真優は愕然とした。
迷惑をかけたどころの話じゃない。通報されてもおかしくないレベル。
それなのに、眠りこけた見知らぬ男を部屋に上げ、挙句の果てにベッドを譲り渡すなんて、警戒心がなさすぎるのではないだろうかと心配になる。
「あんた近所の人でしょ? 何回か見かけたことあるし」
なるほど、この男は真優の顔を知っているらしい。それでも、見たことがある程度の人間を自分のベッドに寝かすのはいかがなものかとは思うが。
「だって、見るたびに青い顔してフラフラ歩いててさ。大丈夫かなぁって思ってたんだよ。だから、やっぱりねって」
真優自身も休めていない自覚はあったが、知らない人に心配をされるほどだったとは。
「すいません……」
いい大人が体調の管理もできず、人様に迷惑をかけるなんて。真優はがっくりと肩を落とした。
「だから別にいいって。で、体調は?」
「あっ、えっと……悪くは、ない、と思います」
良くもないけど――。
相変わらず肩こりはひどいし、頭も体は重い。どれほど寝ていたのかはわからないが、そう簡単に回復できるほど、真優の疲労は甘くない。
それでも、どこか気持ちは晴れやかだ。
今まで感じたことのなかった『生』への渇望。
それは、真優の生き方を変えるきっかけとなるには十分だった。
あとは、一歩踏み出すその先さえあれば。
「そう、なら店に寄っていってよ」
ちょうど真優も行きたいと思ってたし、断る理由もないから素直に「ぜひ」とうなずく。すると男は、大きな瞳を三日月形に細め、伸びをしながら立ち上がった。
「よし! じゃーまずは、顔洗ってからだな」
そうして、男に連れられるまま、真優は『天国』に足を踏み入れたのである。
「お疲れ様、天満くん」
「今日も顔色よくねーぞ、真優」
そう言って天満が真優の顎をくいっと持ち上げると、店の中がざわりと波打った。
「そ、そうかな……」
相変わらずきみはイケメンで……なんて口には出せないから、視線を合わせられないまま心のなかでひとりごちる。
倒れた真優を拾ってくれたこの男、天満は『Fluffy』のオーナーである明日満の弟であり、店長でもある。
真優は通い始めた後に知ったことではあるが、『Fluffy』は口コミサイトでの評価がとても高く、なかなかの人気店なのだそうだ。
”猫カフェ”としての評判が良いのはもちろんだが、オーナーである兄の明日満と、店長である弟の天満がかなりのイケメンだという理由もあるらしい。
『Fluffy』の店員である佐藤さん曰く、女性客の八割くらいは、この兄弟目当てなんだとか。
そのせいで店では受付時に「店内は猫のみ撮影可。店員および関係者の撮影はお断りしております」なんて説明されるし、注意書きも貼ってある。
それでもやはり隠し撮りをされることはあるそうで、イケメンは大変だなぁと思いつつも、真優には撮る方の心理も撮られる方の心理も全くピンとこなかった。
もちろん、真優はこの二人が目当てではない。猫との触れ合いを何よりも楽しみに来ている。
そんな態度が逆に気に入られたのか、以前倒れたことを知っているからか、店に来るたび二人はこうして声をかけてくれるのだ。
でも、一つだけ困ったことがある。
それは天満の距離が無闇矢鱈に近いこと。
こうして、顔に触れるなんてまだ序の口で、客が少ないときには、真優の足を枕にしてごろりと寝転がったり、座っている真優を後ろから抱え込むようにのしかかってきたりする。
真優以外の客にはおおむね塩対応なのにもかかわらず、なぜか天満は真優のそばに寄りたがる。
それより何より解せないのが、天満がこうして寄ってくると、猫たちが真優のそばからいなくなってしまうのだ。
『Fluffy』は利用時間の制限はないが、あまり長時間いては店の回転率が下がってしまう。だから、真優は長くとも三時間までというマイルールのもと通っているのだが、最近はその時間の半分は天満がそばにいるような気がする。
真優はここへ猫との触れ合いを求めてきているわけで、決してイケメンとの触れ合いは求めてない。
きみは猫なのか?! と言いたくなるが、なんせ真優にとって天満は命の恩人。それでなくとも気弱な真優が人に強くものを言えるはずもなく、現状されるがまま。
困っていることを、明日満や佐藤に目で訴えてみたこともあるが、微笑まれて終わった。
今日はそこそこお客さんが多いから、さすがに密着するようなことはないが、当たり前のように隣に座ってくる。
すると、やはりそれまで真優に撫でられていた猫たちは、するりと身を翻していなくなってしまった。
「……天満くん、お仕事はいいの?」
「だいじょーぶ、もう終わった」
なにが大丈夫で、なにが終わったのかはわからないが、オーナーである明日満がなにも言わず、自らドリンクを運んでいるのだから、ただの客である真優が言えることはなにもない。
天満は自由気ままで、自分のやりたいことしかしない。まだ知り合ってから日は浅いのに、そんな気質であることはすぐに察しが付いた。
人に気を使いすぎて胃を痛める真優とはまさに正反対。羨ましいと思うと同時に、こうはなれないとも思う。
それが、未だに真優の目の下からクマが消えない理由だろう。
気が付けば隣に座っていた天満は頭を真優の肩にもたれかけさせ、寝息を立て始めてしまった。そのせいでまた他の客から視線を感じる。
――なんでお前みたいなさえないやつがイケメンを肩に乗せてんだ、とか思われてそう……。
とは言っても、真優が望んだ状況ではないわけで。
それでも、不思議と嫌なわけではなくて。
よくわからないそわそわとした気持ちのまま、結局、真優はその日も『Fluffy』での滞在時間のおおよそ半分をイケメンとの触れ合いで終えた。
◇◇◇◇
街灯の明かりが照らす夜道をとぼとぼと一人歩きながら、真優がポケットから取り出したスマホには、23:34という文字が浮かび上がる。一般的には夜中といわれる時間帯だ。
先月まではもう少し早く帰れていたし、土日のどちらかは三時間たっぷり『Fluffy』にいられた。でも、今月に入ってからは、例の大型案件が佳境に入ったこともあり、平日はもちろん、土日もどちらかは出勤になり、もう一日は疲れ果てて動けないまま終わる。そのせいで、『Fluffy』には全く行けていない。
明日こそは、と思うが、正直今歩いているのもやっとだ。駅からアパートまで、10分の道のりが途方もなく遠く感じる。
しんと静まった商店街に響くのは真優の足音だけで。街灯の明かりが照らすのは降ろされたシャッターばかりで、閉ざされた空間に真優だけがぽつんと取り残されてしまったかのように感じる。
そんな孤独感から目をそらすように、真優は視線を下げたまま歩いた。
「真優」
商店街の終着地点が見え始めたころ、最近会うことができていない人が真優を呼ぶ声が聞こえた気がした。
思わずキョロキョロと左右を見回すが、誰もいない。
ついに幻聴まで聞こえ始めるなんて。どうやら『Fluffy』に行けていないことで、”癒し”が本格的に足らなくなっているようだ。
ため息を吐きながら、さらに視線を下げる。
「おーい、まーひーろっ!」
幻聴が今度は真上から降ってくる。反射的に真優は顔を上にあげた。
「やっと気づいた!」
見上げた先にある部屋に電気は付いておらず、見えたのはぼんやりと暗闇に浮かぶ二つの三日月。優しくこちらを見つめるその瞳に、何かが胸の奥からこみあげてくる。今にも零れ落ちてきそうな涙をこらえるためぐっと腹に力を込めてみたが、疲れ切った体はそれを支えきれず、真優はへなへなとその場に座り込んでしまった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?! すぐそっち行くから!」
数秒のうちに真優の前までやってきた天満は、右足にはサンダルをひっかけ、左足にはスニーカーを履いていた。きっと慌てて出てきてくれたのだろう。
それを見た真優は笑いが込み上がってくるのと同時に、さらに体の力が抜けた。
「ふふっ、あははっ」
「えっ、なに?!」
泣き笑う真優に戸惑う天満が余計におかしくて。そして、嬉しくて。結局止まらなくなってしまった涙を真優は指で拭った。
「ありがとう、天満くん」
「どういたしまして??」
訳が分からないと、困惑気味の天満に心のなかでもう一度礼を言う。
――俺を見つけてくれて、ありがとう。
結局、真優はその後も足腰に力が入らず、このままでは帰れないということで、天満の自宅にお邪魔させてもらうことになった。
足腰に力が入らないのだからもちろん立てない。だから、天満に抱き上げてもらって、自宅へと運ばれた。
真優は細くはあるが、身長は日本人男性の平均より少し高いくらいだし、決して軽くはないはずだ。それなのに天満は軽々と真優を抱え上げてしまった。
アラサーとも呼べる年代になって他人に抱き上げてもらうなんて、なんとも情けない。でも、それと同時にどこかくすぐったくて。しばらく人肌なんて感じていなかったし、こうして甘えることなんてもっとなかったせいだとは思うが。なぜか真優は近くにある端正な顔を見ることができなかった。
そんな真優の気も知らず、天満は明かりもつけないまま真優を自宅へと運んで行く。
「電気、つけなくて大丈夫……?」
「オレは夜目が利くから」
そういえば先ほど見上げた先の部屋も電気はついていなかった。
「もう寝るところだったんじゃない?」
「いや? 真優が通らないかなと思って外見てた」
「えっ」
「最近店に来ないから心配してた」
心臓がどくんと大きく脈打つ。どうして、とは聞けず。顔に集まり始めた熱をごまかすように真優は天満の肩に顔をうずめた。
真優が天満の自宅へ入るのは店の前で倒れて以来二度目だ。
前回と同じように――以前連れてきてもらった時の記憶はないのだが――真優は天満のベッドへと下ろされた。
「ひどい顔色だぞ。そんなに忙しかった?」
部屋の電気はついていない。かろうじて商店街の街灯の明かりが窓に映っているが、部屋の中を照らせるほどではなく、ほとんど真っ暗だ。それなのに真優の顔色を言い当てた天満は、本当に夜目が利くのだろう。
「うん、、、納期前だからね。いつものことだよ」
なるべく心配かけまいとへらりと笑って見せたが、そんな真優の態度が天満は気に食わなかったようで、凛々しい眉をぎゅっと眉間に寄せた。
「また倒れるぞ」
「……気を付けるよ」
「すでに今、立てなくなってんじゃん」
「……うん、迷惑かけてごめんね」
「そういうことじゃなくて、あぁもう、とにかく今日は寝ろ! そんで明日起きたら店に来い!」
「でも、お風呂入ってないし…」
「そういうのも全部明日!」
天満は柔らかいシルバーのメッシュが入った髪をぐしゃぐしゃとかき回すと、真優をベッドへと倒し、なぜかその隣に寝転がった。
このベッドは天満のものだから使って当然なのかもしれないが、相変わらず距離感がバグっている。そうは思っても、真優はもう抗う気力もないし、何より久々に感じた人肌の温度がたまらなく気持ちが良い。気づく隙すら与えられないまま、真優は深い眠りへと落ちていった。
その日、真優は久しぶりに夢を見た。残念ながらほとんど忘れてしまったが、とてもよい夢だったと思う。
温かくて柔らかなものに包まれ、心から安らげる。そんな、幸せな夢だった。
目を覚ますと、その視線の先にはいつかも見た木目調の天井。ふわりと揺れる雲は今日は見られなかった。今思い出せばあれはテンのしっぽだったんだろう。なぜかあの日、テンは真優の顔に乗っかっていたようだし。
今日は顔には乗ってくれなかったが、真優に寄り添うように真横でごろりと寝転がっている。昨晩、この部屋に来た時には見当たらなかったが、真優が寝ているうちにベッドに入ってきたのだろう。
『Fluffy』にいる猫たちは、ペットショップで売れ残ってしまった猫や、繁殖用として劣悪な環境で飼育されていたところを保護された猫たちだと聞いている。
でも、テンだけは他の猫たちとは違ってもともと明日満の飼い猫らしい。だから、店を閉めた後は店舗の奥にある別の部屋で過ごす他の猫たちとは別に、テンだけは天満とともに二階自宅へと帰る。
なぜ明日満の家ではないのか、とは思ったが、そこはいろいろ事情があるそうだ。
目覚めたらそこに猫がいる幸せを噛みしめながら、真優は仰向けに寝ていた体を横向きへ慎重に動かした。もちろん、テンの寝顔を見るためだ。
テンを起こさないよう体の向きを変えることに成功した真優はじいっとその姿を見つめた。
テンは長毛の大型種で、猫としてはかなり大きい。ごろんと寝転がると、人間の子どもくらいの存在感がある。美しく整えられた流れるような毛並みは日の光を反射し、さらに艶めいて見え、ため息が出るほどきれいだ。その毛並みもさることながら、表側は黒とシルバーの縞模様なのに対し、裏側は真っ白な毛で覆われたふさふさのしっぽがあまりにも魅力的で、『Fluffy』にいる猫のなかでテンが真優の最推しといっても過言ではない。
もちろんどの猫も素晴らしくかわいくて、魅力的だ。猫という生き物は本当に非の打ちどころがない。
いつか自分も一緒に暮らせたら、とは思っているが、今、真優が住んでいるアパートはペット禁止だし、そもそも家にいる時間が短すぎて、きっと寂しい思いをさせてしまう。そう思うと現状真優が猫と暮らすのは難しいわけで。
こうして朝起きたら同じベッドに寝ていたということも、もう二度とないかもしれない。
だから、ぴくぴく揺れる耳の飾り毛を、しっとりとしたピンク色のお鼻を、真っ白な毛で覆われた丸い胸を、ぷっくりと膨らんだかわいらしい肉球を、ふわふわのおなかを、そのすべてを目に焼き付けるように凝視する。本当なら触れたいが、それで起こしてしまうのは忍びない。
でも、触れずとも真優の視線は十分にもうるさかったようだ。
「あっ、テンくん……!」
テンはむずがるように体を伸ばしたと思ったら、急にごろりと寝返りを打ち、そのままベッドの下に落ちてしまった。
真優もあわてて起き上がり、ベッドの下をのぞき込む。
しかし、そこにテンはいなかった。
「いってーー」
ベッドの下にいたのは天満だけで。しかもなぜか全裸の。
ベッドの下には隠れるようなスペースはないし、辺りを目で探してみてもテンは見当たらない。
真優は頭の上にたくさんのはてなを浮かべながら、そういえば、前に来た時もそうだったことを思い出した。
あの時も、直前まで真優の顔に乗っていたはずのテンは部屋の中に見当たらなかった。
猫は隠れるのが得意だし、身のこなしも早いから、見つけられなかっただけかもしれないが、今は確実にベッドから落ちていくテンを真優は見た。
それなのに、いたのは天満だけ。
――まるでテンと天満が入れ替わったような……。
考えた直後にそのあまりの突飛さに乾いた笑いが漏れる。ないない、そう言うように頭を振り、天満の方に再度視線を戻す。
まだ寝ぼけているようで、天満は大きなあくびをしながらベッドへとよじ登ってきた。
「まだ七時じゃん。もうちょっと寝よ」
「天満くん…服は……?」
二度寝には賛成だ。
でも、昨夜真優とベッドに入ったときにはちゃんと服を着ていたはずの天満は、なぜか今全裸なのだ。いわゆる裸族なのか。
「あー? あぁ」
一人納得した様子の天満だったが、次の瞬間それは起こった。
「えっ……?」
今度は一瞬のうちに天満が消えた。
そして、ベッドの上にはごろりと寝転がるテンの姿が。
「えっ? は? えぇ??!」
混乱のあまり大きくなった真優の声をうるさそうにテンが身を丸める。どうやら起きる気はないらしい。
「て、天満くんが…テンくんに……、いや、テンくんが、天満くんに……えっ?!」
自分でも何を言っているかわからない。
そして、丸くなってすぴすぴと眠るアンモニャイトがなんとかわいいことか。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「ど、どういうこと~~~??!!」
その答えを教えてくれたのは、九時ごろ部屋へとやってきた明日満だった。
ちなみにそれまでの間テンはずっと起きず、真優は部屋の中を考えをめぐらすようにぐるぐると徘徊するしかなかった。
「あっ、明日満さんっ! テンくんが天満くんになって、天満くんがテンくんになって……!」
混乱を極めていた真優は部屋に明日満が入ってくるなり掴みかかる勢いで明日満に詰め寄った。
「えっと……?」
明日満の困ったような反応に真優はハッとする。
もし、明日満が知らなかったら、いや、知っていても国家機密レベルの重大な秘密だったら、いや、そもそもやっぱり真優の幻覚だったら。いろんな想像をして顔を青くしたり白くしたりする真優に明日満は殊更優しく声をかけた。
「真優くん、あっちでコーヒー飲もうか」
天満の自宅は広めのワンルームで、商店街に面した窓際にベッドが置かれ、奥にはカウンターキッチンがある。そこに背の高い椅子が二脚あるだけで、他にはテーブルもソファーも置かれていない、とてもシンプルな部屋だ。トイレと風呂は一階の店舗に下りる階段の前にあるらしい。
カウンター用の背の高い椅子に腰を掛けると、明日満の足の長さがさらに強調される。別に悔しくはないが、真優はなんとなく足をそろえて明日満が入れてくれたコーヒーをすすった。
「えっと……、とりあえず、天満とテンのこと、だよね?」
「は、はい……」
さっき起こったことをかいつまんで話すと、明日満は眉間に拳を当て、大きくため息を吐いた。
「何から話していいか……まぁ真優くんが見た通り、テンは天満なんだよね」
見た通りではあるのだが、意味は全く分からない。というか、そんなにあっさりばらしてもいいものなんだろうか。
「天満自体がばらしてるしね。そもそも、この部屋に入れたって時点で知られてもいいって思ってたってことだ」
天満はこれまでこの部屋に明日満以外を入れたことはなかったという。でも、真優がこの部屋に入ったのは二回とも体調が原因で、いわば人助けのための偶然の産物だ。
「いやいや、そもそもどうでもいい人間だったら天満は声かけないよ、絶対に」
確かに、天満は店の客に対しても驚くほど塩対応だ。常連さんにはそれなりに接客しているが、明らかに天満を目当てにして来ている女性客には絶対に近づかないし、呼ばれても無視。それで怒り出した客は「うちはホストクラブじゃねーんだよ」と追い出してしまう。
そんなことしたら、口コミにひどい悪評を書かれてしまうのではと思うが、天満の言い分の方が正しいと、逆に書き込んだ客の方が炎上するらしい。
「猫だからね。好きな人にしか心は開かないんだよ」
ふふふっと色気たっぷりに笑う明日満は嘘を言っているようには見えない。でも、「猫だから」と言われても、はいそうですか、ともならない。
「明日満さんも猫になれるんですか……?」
「いや、なれないよ。天満はいわゆる先祖返りだからね」
明日満はまるでおとぎ話の読み聞かせをするように語り出した。
むかしむかし、あるところに”狛祢”という名の一族がいました。
狛祢家はある神様に仕える一族で、人々にその神様の教えを説くことを生業としていました。
そんな狛祢家にある日、一匹の猫がやってきました。
緑色の瞳をしたその猫はやせ細り、ひどい怪我をしていました。
狛祢家が仕える神様は、すべての生き物は尊いものだと説いていました。
だから、狛祢の人々は今にも死んでしまいそうなその猫を懸命に看病し、助けてほしいと神に祈りました。
その甲斐もあって猫は奇跡的に回復し、狛祢家の一員として迎えられたのです。
狛祢家の人々は神が救ってくれた猫だととても大切にしました。
ところが、人間と猫の生きる時間には大きな差があります。
猫と共にいられる時間が残り少ないことを知った狛祢家の人々はとても悲しみました。
そして神様に願ったのです。もっと共に生きたいと。
狛祢家の人々がこれまで神様に願ったのは、他の人々の幸せばかりでした。
だからそれが狛祢家の人々が自分たちのために願った初めての願い事だったのです。
神様の力は人々の想いの力です。これまで狛祢家の人々が神様を想い、仕えてくれたことを知っていました。
だから神様は狛祢家の人々の願いをかなえてあげることにしました。
でも、そのためには狛祢家の人々の想いだけでは足りません。
そこで、神様は猫にこう問いかけました。
「おまえも狛祢の者たちと共に生きたいか?」
猫は小さく、でもはっきりとうなずきました。
想いの力はこれで十分です。
ところが、さすがの神様も生き物の寿命を変えることはできませんでした。
神様は猫と狛祢家の人々が共に長く生きられるよう、猫と人に生まれ変わらせることにしたのです。
そうして、猫は狛祢の子として新たな生を受けました。
猫と同じ緑色の瞳をもって生まれたその子は、狛祢家の人々と共に幸せに暮らしましたとさ。
「だから狛祢の家では緑色の瞳を持つ子供を”猫の生まれ変わり”だととても大切にしているんだ。その中でもたまに天満みたいに本当に猫の姿になれる子もいてね。天満の前はひいひいおじいさんだったかな?」
猫好きにはたまらなく感動的なお話だ。真優も大いに感情移入してしまった。
でも、現実は物語のように優しくない。
「今は猫になるのを自分でコントロールできるようになったみたいだけど、子どもの頃はそうはいかなくてね。気が昂ったり、体調を崩したりすると猫になってしまうから、学校にもあまり通えなかったし、我慢もかなりしたと思う」
猫に姿が変わる、ということは人間社会で生きていくうえでとてつもなく大きなハンディキャップだ。
人間というものは自分とは違うものを遠ざけたがるし、理解の及ばないことは受け入れられないことのほうが多い。
話したとしてもそもそも信じてもらえる可能性は低いし、実際に猫に変わるところを見たら怖がられてしまうかもしれない。
自分という存在を人に拒否されるかもしれないということがどれほどの恐怖か、想像しかできない真優でも身がすくむ。
「真優くんは、怖いと思った?」
「えっ、驚きはしましたけど……怖くはないです。テンくん、かわいいし……」
「人間のときは?」
急に背後からずしりと頭に重みを感じたと思ったら、真優の頭の上に天満が頭を乗せていた。そこで真優ははっとひらめいた。
「そっか。天満くんが俺に乗っかるのは猫だからなんだね!」
いつもいつも乗ってくるのはなぜなのかと真優は思っていた。そんな天満に対して「猫なのか?!」 と思っていた真優は間違っていなかったのだ。
そう得意げに話すと、明日満と天満は少し顔を固まらせた後、そろって吹き出した。
「えっ、えっなんで笑うの?!」
どこにおもしろいところがあったのか真優は本気でわからない。でも、二人は涙を浮かべるほど笑っている。二人がひとしきり笑い終えた頃には、もう十時を回りそうになっていた。
『Fluffy』の開店は十一時。そろそろ開店準備をしないと、と明日満は慌てて一階へと降りていった。
天満は相変わらずのマイペースでコーヒーを飲んでいる。
「天満くんは行かなくていいの?」
「これ飲んだら真優と一緒に行く」
「俺は一回家に帰るよ。着替えたいし」
「オレの服貸すし」
「サイズ合わないよ。シャワーも浴びてないし」
「うちで浴びればいい。下は今はいてるやつでいいよな」
はい、と渡されたのはタオルとTシャツと新品であろう下着。天満は真優を帰らせるつもりは全くないらしい。浴室まで手を引かれ、連れてこられてしまった。
「さすがにそこまで甘えるのは……」
「一緒に入る?」
「はい?!」
「ははっ、じょーだん。待ってるから」
手をひらりとふって浴室を出て行った天満の後姿を見送った後、覗いた鏡の中には真っ赤にゆで上がった顔の真優が映っていた。
「それで、なんで俺はまだここにいるのでしょうか」
天満の家で風呂に入ってから借りた服を着て店に顔を出し、久々に猫たちと存分に戯れた後、帰ろうとするとなぜか天満に部屋で待ってて、と言われた。
しかも、他のお客さんたちの目の前で。その衝撃に店の中が揺れた。
戸惑う真優に部屋の鍵を渡すと、天満はそのまま店のバックヤードに入って行ってしまった。
昨日から真優は天満のペースにのまれてばかりだ。
それが嫌だとは思っていないが、どうして、とは思っている。
そんな想いをぶつけてみると、天満はふっと笑った。
「まだ答えを聞いてなかったから」
「なんの?」
「人間のオレをどう思ってるか」
そういえば今朝、明日満と話している最中に割り込んできた天満がそんなようなことを言っていた気がする。
テンがかわいい、と言ったことに対してということなのだろう。
猫のテンはかわいい。それはとてつもなくかわいい。じゃあ人間の天満は、と聞かれれば、
「イケメン」
凛々しい眉に大きな猫目。緑がかった瞳はとてもきれいだし、鼻筋もしゅっと通っている。十人中十人がイケメンだと答えるだろう、まぎれもなくイケメン。
それなのに、真優の答えに天満は顔をしかめた。どうやら不正解だったようだ。外見の話ではないらしい。
「えーっと、命の恩人、かな」
『Fluffy』の前で倒れた日、真優は本当に限界だった。心も体もボロボロで、何のために生きているのかわからなくなってしまっていた。
そんな真優の心は『Fluffy』に通うようになってからゆっくりと回復していった。
それでも、積み重なる疲労がどうしてもまた心を弱らせて、昨日は独りぼっちで立ち尽くしてしまいそうになっていた。そんな真優を天満はまた見つけてくれた。
拾って、抱え上げて、一緒にいてくれた。それがどれほど心を癒やしてくれたか。
「天満くんには本当に感謝してる。大げさじゃなく、今俺が生きてるのは天満くんのおかげ」
天満の手を両手で包み込むようにぎゅっと握る。驚いたらしい天満はもともと大きな瞳をさらに見開いていた。
「ありがとう、天満くん」
「それ、昨日も聞いたな」
「うん、天満くんにはずっとありがとうって思ってる」
「……オレもずっと、真優にありがとうって言いたかった」
「えっ?」
「昔、猫の姿で真優に拾ってもらったことがあるんだ」
真優が過去に猫とかかわったことのあるのはたったの一度きりだ。
あれはまだ小学生のころ。前の晩に降った雨でできた水たまりを避けながら歩いていると、道路のわきに生えた草の陰にうずくまっている子猫を見つけたのだ。
子猫は水たまりにでも落ちてしまったのか、小さな体は毛の色も分からないほど泥だらけで。慌てて抱え上げ、家に連れ帰った。
あいにく母親はパートで家におらず、どうしたらいいのかわからないなりに真優は温かく濡らしたタオルで子猫の汚れをとってやった。きれいになった子猫が何色だったかまでは覚えていない。寒いのかずっと震えていたから、一緒になって布団に入り、温めてあげたことは覚えている。でも、いつのまにか寝てしまった真優が目を覚ましたときには、子猫はいなくなってしまっていた。
まるで夢のように消えてしまった子猫。まさかそれが天満だったなんて。
「あの時は本当は人間だってことがばれたらいけないと思って、動けるようになったらすぐに逃げちゃったんだけど。でも、優しく体を拭いてもらったのとか、一緒にベッドに入った時のにおいとか、温かさとかはずっと忘れられなかった。ずっと真優に会いたいと思ってたんだ」
大人になって、この商店街に住み始めた天満が真優に気付いたのは本当に偶然だったのだという。
「すぐにわかった。猫はね、結構記憶力がいいんだ」
他の人にはすごく塩対応なのに、真優には戸惑ってしまうほど距離が近くて。なぜだろうとずっと思っていた。倒れたところを拾ってくれた以前から真優を知っていたような口ぶりも、実際に知っていたからだったのだ。
「真優のほうが先に俺を拾ってくれた。真優は俺の命の恩人なんだ」
「そっか……。じゃあ俺たち同じだね」
天満は真優の命の恩人で、真優は天満の命の恩人。ほら、同じだ、と真優が笑うと、天満は泣きそうな顔で笑った。
「同じだけど同じじゃない。俺は『命の恩人』だけじゃ足りないから」
真優の頬をなでた天満の長い指が、熱を孕んだ緑色の瞳が語るその言葉の意味に気付き、思わず息をのむ。
「真優がオレのことそういうふうに見てないのはわかってる。でもさ、もうテンがいないと真優は生きていけないでしょ?」
例えば、自分からそばに寄ってきたのに「撫でてもいいよ?」と言わんばかりの猫特有の高飛車な雰囲気。それが真優はとても好きだ。
でも、同じ振る舞いをされて許せてしまう人間は、天満しかいない気がする。
そう思ってしまった時点で、天満の言う通りなのだ。
「俺は癒されたかっただけなんだけどなぁ」
「いくらでも癒してやるよ」
ほら、と抱きしめられたその腕の中はあまりにも居心地がよかった。
それから、天満に言いくるめられるようにいつのまにかお付き合いが始まって、気が付いたら天満の部屋で一緒に住むようになって、一緒にいる時間を増やすために真優が転職するのはそう遠くない未来のお話。




