星の下の決意
扉を開けた瞬間、静寂が俺を包んだ。
店内は思っていたよりも広く、薄暗かった。奥には思念投影装置が数台並んでいる。
「…」
「いらっしゃい」
声がして、俺は振り返った。
カウンターの奥から、一人の男が現れた。40代くらいだろうか。
柔和な顔立ちで、穏やかな笑みを浮かべている。
「体験授業に来た子かな?」
「いえ…その、違くて…」
「そうか。じゃあ、なんでここに?」
男は不思議そうに尋ねてきた。
「…わかりません」
本当にわからなかった。なぜここに来たのか。扉を開けたのか。
男は小さく笑って言った。
「そうか…まぁ、ここに来たのも何かの縁だ。体験して見るかい?思念投影装置。」
男は椅子を示した。
まさかここが思念投影装置を体験できるところだとは。
心臓が高鳴った。俺はもちろんその提案を承諾した。
装置はマッサージチェアのようにフワフワで、ヘルメットがコードでつながっている。
そして、上にはディスプレイが付いていた。
俺はその男から、ヘルメットを着けて、映像を思い浮かべるとその映像がそのままディスプレイに映るのだと、説明を受けた。
ヘルメットを被り、センサーが頭に触れる。冷たい感触。
「目を閉じて。何か、思い浮かべてみて」
男の声が遠くから聞こえる。俺はそっと目を閉じた。
何を思い浮かべればいい?
猫。そうだ、猫でいい。簡単な形から。
頭の中で、猫を描こうとした。だが、何も見えない。
輪郭を描こうとするが、線がぼやける。色をつけようとするが、滲んでいく。
「…っ」
ディスプレイをのぞき込むも、そこにはぐちゃぐちゃの線があるだけだった。
「大丈夫。誰でもすぐには扱えないさ、落ち着いて。」
男は優しく言った。だがその優しさが、余計に俺を焦らせた。
そのあとも何度も試した。何度も、何度も。
でも、結果は同じだった。
ぐちゃぐちゃの線。意味のない色の塊。何も、形にならない。
息が荒くなる。手が震える。
「…どうして、作れないんだ」
俺の声は、震えていた。
男はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「君は、何が作りたいの?」
「…え?」
「猫じゃないでしょ。君が本当に作りたいもの。簡単なものからと考えるのもわかるけど、気持ちの入っていないものだと想像しにくいと思う。君は、本当は何が作りたいんだい?」
男の目が、俺を見つめていた。
まるですべてを見透かすような目。優しいが、鋭い。
俺は言葉に詰まった。
そうだ。猫なんてどうでもいい。
俺が作りたいのは、物語だ。
神を超える物語。結局はそこに行きつくのだ。
「…物語、です」
「そうか」
男は頷いて、立ち上がった。
「じゃあ、一つ見せようか。思念投影で作られた物語を。何かヒントになるかもしれないしね」
男はリモコンを取り出し、店内の照明を落とした。
ディスプレイの一つがゆっくりと起動し、静かな音楽とともに映像が始まった。
それは、まるで夢の中の風景だった。
最初に映ったのは、広大な空。
雲がゆっくりと流れ、そこに浮かぶ都市が現れる。
色彩は淡く、それでいて深く、どこか懐かしい。
都市は有機的にうねり、空間が呼吸しているようだった。
その都市の周りを、クジラのような、けれどどこか違う幻想的な生き物が、
空を飛びながら回っていた。
その生き物は言葉を持たず、ただ、目で語る。
その目に宿る感情が、画面越しに胸を打った。
映像は進む。
その生き物はやがて都市を離れ、雲の中へ消えていく。残された都市は、ゆっくりと崩れ始める。
それは破壊ではなく、終わりだった。
静かな、穏やかな終わり。
俺は息を呑んだ。圧巻だった。完璧だった。
幻想的で、静かで、なのに胸の奥を乱暴に揺さぶってくる。
ぐちゃぐちゃな線しか描けなかった俺の脳内とは、あまりにも遠く、違いすぎる。
すぐに消えてしまいそうな儚さも、こちらの心を揺らす力強さも、内包するこの映像。
あまりにも完璧すぎるこの映像。これは…
「…神が、作ったものだ」
俺の口から、言葉が漏れた。
そうだ。これは神が作ったものだ。
前世で、俺が作ったと思っていたもの。でも、本当は神が作ったもの。
この映像も、そうなんだと。この映像が、神が作ったものだと、俺は確信した。
汗が頬を伝う。
それに比べて俺はどうだ?
何もない。何も作れない。ぐちゃぐちゃの線しか描けない、凡人。
「…っ」
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
悔しさ。絶望。怒り。
でも、それだけじゃない。
憧れだ。
この映像を見て、俺は震えた。
美しいと思った。素晴らしいと思った。
神が作ったものだとしても、それでも…
「…俺は、これを超えたい」
声が、震えていた。
「俺には何もない。才能もない。技術もない。でも…でも、それでも」
大粒の涙が零れ落ちる。
「俺は、これを超えるような物語を作りたい」
男はしばらく黙っていた。
そして、言った。
「これを作ったのは、最近現れた新人だ。来年、”創映戦”のショート部門に出る予定らしい」
「…創映戦?」
「日本一のアニメ大会。思念投影で作られた作品を競う場だ」
俺の心臓が、跳ねた。
「そこに…俺も、出られますか」
男は微笑んだ。
「もちろん。誰でも出られる。ただし…」
男は俺が作った映像を見つめた。言葉にはしないものの言いたいことはわかる。
君、まだ猫も作れないんだよ?と。
…そうだ。俺には何もない。
「…でも」
俺は拳を握った。
「それでも、俺は諦めない。諦めたくない。」
男はしばらく俺を見つめていた。そして、静かに笑った。
「そうか。じゃあ、明日もおいで。手伝ってあげるよ」
「…本当ですか?」
「ああ。僕は久世語朗。君は?」
「久遠鏡火です」
「鏡火か。いい名前だ」
久世は俺の肩を軽く叩いた。
「さあ、今日はもう遅い。帰りな。」
俺は頷いて、立ち上がった。
店を出た。夜の冷たい空気が、俺を包んだ。
空は、星の輝きは、町の光に遮られながらも、なお煌々と輝いていた。
「…必ず、超えてやる」
俺は小さく呟いた。




