山野の過去
突然、ドアを叩く音がした。直後に、聞き覚えのある声。
「朝倉さん! いるんだろ!」
誰かと思えば山野である。何をしに来たのだろうか。朝倉は、仕方なくドアを開けた。
「どうかしましたか?」
「水着は買ったのかい?」
言われた朝倉は、キョトンとなった。この女は、何を言っているのだろうか。
「へっ? 水着?」
「あんた言ってたろうが! ハクチーちゃんを海に連れて行きたいから水着買うって!」
そこで、ようやく思い出した。一昨日、朝倉はハクチーの水着を買うため山野に付き添いを頼もうと思ったのだ。やはり女性用の水着売り場に行くなど照れくさい。ならば、山野に頼もうと思ったのだ。
ところが、けんもほろろに断られ、仕方なく朝倉がハクチーと共に買いに行くことになったのだ。
しかし、そこでハクチーの過去の傷に触れてしまった──
「すみません、外で話しましょうか」
言った後、朝倉はハクチーの方を向いた。
「ちょっと、山野さんと大事な話がある。テレビ観ながら待っててくれ」
「うんわかった」
テレビを観たまま、ハクチーは答える。しかし、この時間に放送されているのはワイドショーばかりである。
いずれ、ハクチーにもスマホを……いや、スマホはやめておこう。なら、家にDVDプレイヤーでも買ってやるか……そんなことを思いつつ、朝倉は家を出た。
少し離れた草むらの中で、朝倉は正直に打ち明ける。
「すみません。買えませんでした」
「はあ!?」
大きな声で聞き返す山野を、朝倉は小声で制した。
「ちょっと静かにしてください。ハクチーが出てきますから」
そこから、少しの間を置き説明を始める。
「あの日、ハクチーと一緒に商店街を歩いてました。そしたら、ハクチーがいきなり走り出したんです。それから……」
朝倉は、ハクチーと少女との間に起きた出来事を話した。無論、拳銃のことは言わない。
「その女の子が逃げて行ったの見たら、なんか水着どころじゃなくなって……そのまま、ふたりで帰りましたよ。ハクチーみたいな善人をいたぶって、何が楽しいんでしょうね」
その言葉には、昨日聞いたホームレスのことも入っている。
ハクチーとホームレスたちが一緒に暮らしていたのは、何歳の時の話かは不明だ。しかし、十代の頃であるのは間違いないだろう。そんな年頃のいたいけな少女の無垢な思いを、ホームレスたちは利用したのだ。
しかも、ハクチーは強い。その当時でも、いざとなれば全員を殺してしまえただろう。にもかかわらず、彼女は何もせず「おにぎりをくれるから」という理由でホームレスたちの求めに応じたのだ。
弱者が弱者から搾取する、その構図がたまらなく不快だった。この話も山野にぶちまけたかったが、さすがにそれはできなかった。
一方、聞いた山野は空を向きフゥと溜息を吐いた。
「あんたも、ずいぶん甘ちゃんだね。ま、それが若さなのかも知れないけどさ」
言った後、彼女は鋭い表情で朝倉を見つめる。
「あんたにだから言うけど、あたしゃ二十年前は刑事だった。自分で言うのもなんだけど、まあ優秀な方ではあったと思う。それがさ、ちょっとしたヘマが原因で全てがパー。今じゃ、ここの住人だよ」
朝倉は愕然となった。まさか、この肝っ玉母さんにそんな過去があろうとは。
あまりの意外さに意表を突かれ、とんでもない質問が飛び出していた。
「あのう、差し支えなかったら何があったか教えていただけないですか?」
言った途端、山野にジロリと睨まれた。朝倉は、慌てて目を逸らす。当然だ。あまりにも失礼すぎる。
「すみません。言いたくないですよね」
「まあ、そのうち気が向いたら聞かせてやるよ。大事なのは、ここからさ。あたしは刑務所に行くことになったんだよ。初めは刑事だってこと隠してたけど、ある日いきなりバレちまった」
そこで、山野の顔が歪む。
「そこからは、ひどいもんだったよ。当時は雑居房にいたんだけど、無視されたり夜中に蹴られたり、もう散々だった。仕方ないから、独居房に移してもらったよ」
そこで、朝倉は思わず口を挟む。
「あのう、山野さんが、おとなしくイジメられてるようには思えないんですが……」
言った途端、またしても睨まれた。朝倉は、慌てて目を逸らす。
だが実際の話、山野は華奢でひ弱なタイプではない。さほど背は高くないが、体つきはがっちりしており背筋もピンと伸びていた。若い頃は、柔道か何かをみっちりやっていたのではないか……そう思わせる体つきだ。
かつて朝倉は、役柄に応じて体つきを変えた。筋肉と脂肪をつけ厳ついタイプの役を演じたり、逆にガリガリの殺人犯を演じたりした。そのため、トレーニングの知識はある。また、プロのアスリートたちも間近で見てきた。
山野は、間違いなくスポーツをやっていた体つきだ。気も強い。イジメられるタイプには見えなかった。
一方、山野はクスリと笑う。
「まあ、やり返すのは簡単だ。ただね、刑務所の中で人を殴ったりしたら大変なんだよ。万一、傷害事件になったら、さらに刑が延長される。そしたら、仮釈放もパーさ」
そう、映画やドラマでは刑務所で喧嘩をするシーンがよく描かれている。が、実際にはほとんど起きない。
通常、刑務所では真面目な態度で刑に服していれば、刑期満了前に釈放される。これが仮釈放という制度だ。
ところが、刑務所の中で傷害事件を起こしてしまうと……仮釈放はもらえなくなる。その上、さらに傷害事件の分が加算されるのだ。
仮に懲役五年の受刑者がいたとしよう。順当にいけば、四年の後に仮釈放で出所できる。ところが、この受刑者が中で喧嘩をして相手に怪我を負わせたら、傷害事件が成立する。この場合、五年の刑をまるまる務めた上で、さらに数年の刑が加算されるのだ。
かつて朝倉は、殺人犯を演じるため様々な本を読み、サイトを閲覧したことがある。その過程で、事件送致なる言葉を知ったのだ。
「そんなの、どう考えても損だろう。だから、あたしはやり返さず独居房に逃げることを選んだのさ。これでも、まだマシな方なんだよ。独居房に行けない奴も大勢いたからね」
しみじみと語る山野に対し、朝倉は何も言えなかった。
刑務所のような場所は、単純な喧嘩の強弱で優劣が決まるものではないのだ。しかも、下手に手を出せば刑が延長される……。
そんな恐ろしい場所で、彼女は生き抜いてきたのだ。山野が夢の島地区のようなところで顔役になっている理由が、何となくわかった気がした。
思わず虚空を見つめる朝倉の前で、山野はさらに話を続ける。
「刑務所はね、人間の本性が出る。イジメなんて日常茶飯事だったし、イジメたことを武勇伝みたいに語る奴もいた。悲しいけど、それが人間の本質なんだよ」
「そうですか。悲しい話ですね……」
言いながら、朝倉は己のことを思った。
「あんたが、普通の人間じゃないことはわかってる。嘘つきなのも、ね。ただ、あんたはハクチーちゃんに手を出してるわけじゃない。それは、見ててわかるよ。それに、あんたはハクチーちゃんに対しては常に誠実であろうとしてる。そこだけは評価できる。だから、あたしはあんたらに力を貸してやるのさ」
「俺は……ハクチーにいろいろ教えてやりたいんです。あいつは、周りの連中にさんざん利用されてきました。あいつね、前に千円やるから引ったくりやれ……みたいなこと言われて、実際に引ったくりやったらしいんです。そしたら、おもちゃの金を渡されたとか」
「なんだいそりゃあ。ひどい話だね……」
「本当に、ひどい話なんですよ。その金もってコンビニ行ってたら、たぶん警察呼ばれてましたよ。ただ不幸中の幸いとして、ハクチーはその金持って駄菓子屋に行ったんです。そしたら、親切なおばあさんが、これはおもちゃだから使えないって教えてくれたそうなんです」
そう、これもハクチーから聞いた話だった。
聞けば聞くほど、腹が立ってくる。結局、渡る世間は鬼どころではない。何もかもむしり取ろうとするハイエナだらけなのだ。
山野はというと、口元を歪めつつ語り出す。
「嫌な話だけどさ、そういう奴はいくらでもいる。特にね、ああいう人間は悪党にとっちゃ、いいカモなのさ。だから、あんたがついてなきゃならないんだよ。わかるかい?」
「はい、わかります。これからは、俺があいつを守ります」