ハクチーの過去と、朝倉の怒り
「冗談じゃないよ! なんで、あたしがそんなことしなきゃならないんだ!」
怒鳴りつける山野に、朝倉は縮み上がりながらも頭を下げる。
「いや、お怒りはごもっともです。ですが、そこを何とか……」
「何とかじゃないよ! そんなの、あんたが自分で行けばいいだろ! なんであたしが行かなきゃならないんだ!」
「お気持ちはわかります。しかし、そこを……」
「いい加減にしな! こっちは忙しいんだよ!」
怒鳴られ、さすがの朝倉もたじたじになっている。
そんな朝倉を見上げつつ、山野はフゥと溜息を吐いた。
「ったく、あんたは女の水着も買えないのかい。情けない奴だね」
「いや、それはちょっと……人には、得手不得手がありますから……」
朝倉は苦りきった顔で、申し訳なさそうに体を縮こませていた。
昨日、ハクチーと一緒にテレビを観ていた時だった。彼女は、海中を潜るダイバーの姿に興味を示していた。
朝倉は、念のため聞いてみた。
(ハクチーは、あれをやってみたいか? 海の中を泳いでみたいか?)
(うん泳いでみたい)
即答だった。ならば、まずは海で泳ぐことから……そう思ったのだが、泳ぐためには水着が必要だ。でなければ、彼女は裸で泳ぎかねない。そうなれば捕まってしまう。
しかし、水着を買うとなると、ひとつの問題がある。朝倉は、女性用水着など買ったことがない。ましてや、ハクチーと一緒に買いに行くとなると……下手をすれば、パパ活中のスケベオヤジに見られかねない。
そこで思いついたのが山野である。彼女なら、面倒見もいい。頼めば、ハクチーを連れて行ってくれるのではないかと思ったのだ。
しかし、山野の返事は想定外のものだった。
「はあ!? 水着!? こっちは忙しいんだ! ンなもん自分で買いな!」
というわけで今、朝倉は山野に頭を下げまくっていた。ハクチーが初めて口にした「やってみたいこと」である。ここは、何としても叶えてやりたい。
「あの、俺にできることなら何でもします。ですから……」
「だったら、こうしよう。今からハクチーちゃんのところに行って、あたしとあんた、どっちと水着を買いに行きたいか聞こうじゃないか。それでハクチーちゃんがあたしを指名したら、その時は仕方ない。あたしが一緒に買いに行こう。けど、あんたを指名したら、あんたが一緒に買いに行く。それでいいだろ?」
「へっ? ちょっと待ってくださいよ!?」
「いいから来な! ハクチーちゃんは、家にいるんだろ!」
そう言うと、山野は朝倉の腕をつかみ強引に引きずっていく。その力は、思ったより強い。朝倉は呆気に取られながら、なすがままになっていた。
そして今、朝倉とハクチーは並んで近くの商店街を歩いている。そう、ハクチーが選んだのは朝倉であった。
ふたりは並んで歩き、あちこちの店を見回っていた。が、ハクチーの足が止まる。
次の瞬間、いきなり駆け出した。朝倉が止める暇もない。
かと思うと、ひとりの少女の前で立ち止まった。化粧が濃く髪は金髪で、いわゆるギャル風の女の子である。年齢は、ハクチーと同じくらいだろうか。
その少女を睨み、ハクチーは吠える──
「お前なぜ約束やぶった! なぜ来なかった!」
恐ろしい剣幕だ。言われた少女は、キョトンしている。
朝倉はすぐさま動いた。ふたりの間に割って入り、まずはハクチーを宥める。
「おい、ここではやめろ」
そう言うと、次に少女の方を睨みつけた。
「君、ちょっと来てくれないかな。話を聞きたいんだ」
言うと同時に、乱暴な仕草で腕をつかんだ。力任せに引っ張っていく。突然の事態に、少女は抵抗すらできない。朝倉のなすがままになっていた。
人気のない路地裏に少女を連れ込むと、乱暴にドンと突き飛ばす。その頃になって、ようやく少女の頭も働きだした。
「な、何なのあんたら! け、警察呼ぶよ!」
喚きながら、スマホを取り出し操作しようとした。だが、朝倉がその手をつかんだ。
冷たい目で見つめ、口を開く。
「なあ、君が小さい時、近所に同じ歳くらいのホームレスがいなかったか?」
「えっ?」
途端に、少女の表情が変わった。目線があちこち動き、挙動もおかしくなっている。
そんな少女に、朝倉はたたみかけていく。
「いたんだな? そうなんだな?」
「いや、それは、その……知らない」
目線をあちこち泳がせながら、少女は答えた。だが、嘘をついているのは明らかだ。
朝倉は、なおも詰め寄る。
「知らないわけないだろ。いたのか、いなかったのか、どっちかはっきりしろ」
「いたよ! いた!」
ヤケになったのか、少女は怒りをあらわにして怒鳴りつけた。すると、朝倉はハクチーの方を向く。
「ハクチー、お前はこの子と約束をしていた。そうなんだな?」
「うん約束した! 遊ぶ約束した! けどこいつ約束やぶった!」
地団駄を踏みながら、ハクチーは吠えた。よほど悔しかったらしい。
「そ、それは、その……こっちにも事情があったんだよ!」
負けじと怒鳴り返した少女。そんなふたりの間に、朝倉が割って入る。
「ハクチーは、前に言ってたんだよ。臭いとか、汚いとか言われて石投げられたってな。君らも、同じことを言ってたんじゃないのか?」
「知らないよ! だいたい、こいつ頭おかしいし! まともに話もできないし! マジでこいつの言うこと信じてんの!?」
口汚くののしる少女。その言葉を聞いた瞬間、朝倉の中にある何かが弾けた。
次の瞬間、朝倉は己の顔に触れた。
ベリベリという音を立て、顔が剥がれていく。そう、朝倉は己のマスクを剥ぎ取った。火傷でただれた皮膚と醜く歪んだ素顔を、少女の前に晒したのだ。
一瞬遅れて、少女はその場にへたり込む。朝倉の素顔は、下手な凶器を出されるより恐ろしい。これまで見たこともない異形の素顔を目のあたりにし、少女は恐怖のあまり立っていられなくなったのだ。
しかし、朝倉はその程度で終わらせるはずもない。
「俺の顔を見ろ。地獄の業火に焼かれてな、こんな顔になっちまったんだよ。君の綺麗な顔も、こうしてやろうか?」
言いながら、朝倉は顔を近づけていく。少女は、ヒッと叫んで目を逸らした。
「君は、ハクチーのことを臭いとか汚いとか言ってたんだな。それだけじゃない。ハクチーと遊ぶ約束をしてからかった。こいつの気持ちをもてあそんだ。違うか?」
低い声で尋ねたが、少女は答えない。いや、答えられない。
苛立った朝倉は、さらに顔を近づけていく。少女は目を逸らしているが、構わず語り続けた。
「聞こえなかったのか? なあ、君らも言ってたんだろ。ハクチーのことを汚いとか臭いとかウザいとか言ってたんじゃねえのか?」
「言ったよ! 言った! でも、それはあたしだけじゃない! みんなが言ってたんだ! なんであたしだけが言われなきゃならないんだよ!」
少女は大声で叫びだした。いわゆる逆ギレの状態だろうか。
だが、その態度は朝倉の怒りの炎に油を注いだだけだった。
「そうか。わかった。みんなが言ってたなら、平等にみんなを殺してやる。まずは、お前からだ」
言ったかと思うと、朝倉はサイレンサー付き拳銃を取り出したのだ。直後、銃口を少女の頭に当てる──
これは脅しではなかった。朝倉は、本気で殺す気だった。外見は綺麗に着飾りながら、ハクチーのような弱者をバカにし、さらには純粋な気持ちをもて遊ぶ……その存在も、やっていることも、たまらなく不快だった。
目の前から、今すぐ消し去りたいくらいに──
「死ぬ前に教えてやる。俺の顔は化け物なみだがな、お前の腐った心も相当に汚く臭いぜ」
言った時だった。突然、ハクチーが朝倉の腕をつかむ──
「朝倉だめ!」
泣きそうな顔で、朝倉に怒鳴ったのだ。さらに、少女の方を向く。
「お前もういい! いなくなれ!」
少女に吠えると、ハクチーは朝倉を睨みつける。
「朝倉おかしい! あいつは嫌な奴! でも悪い奴じゃない! 朝倉言ってたろ! 殺すのは悪いヤクザだけだって! あいつは悪いヤクザじゃない! それとも悪いヤクザなのか!?」
吠え続けるハクチーに、朝倉は何も言えなかった。彼女の言葉が、殴られたような衝撃を与えたのだ。
その時、少女は立ち上がる。恐怖ゆえか、泣きながら逃げていった。だが、もはや追う気にもなれなかった。
やがて、虚ろな表情で顔のマスクを付け直した。すると、ハクチーが手を伸ばす。
「朝倉ここ変」
言いながら、ズレを修正してくれた。
「そ、そうか、ありがとよ」
「いえいえ、どういたしまして」