黄泉の岸/希望の岸
水面には、もやがかかっている。
ただ、白くかすんだ世界だけが広がっていた。
――このまま、死の世界へ。
黄泉の国へ、この舟で運ばれてしまうのではないか。
サヤはその思いを振り払うように、
ボートをゆっくりと、なるべく音を立てないように漕いだ。
向かいに座るミクは、小さなリュックを胸に抱え、顔をうずめている。
泣いているのだろうか、それとも眠っているのだろうか。
(……まあ、私が女性とはいえ、見ず知らずの大人に話しかけるのは警戒するよね。
……やっぱり、大人の私から声をかけるべきだよね。うん)
ふいに、ぐぅ……とお腹が鳴る音が、静寂を破った。
「あ。あのさ。お、おなかすいたね~」
「うん」
リュックの陰から、ミクがそっと顔を上げた。
つぶらな瞳がこちらを見て、小さくうなずく。
(この子を、死なせるわけにはいかない!)
サヤは心の中で、ギュッと拳を握る。
ポケットを探り、ブロック状のバランス栄養食品を取り出した。
袋を開けて、ミクに差し出す。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
ミクは両手で丁寧に受け取った。
「私はサヤといいます」
「私はミク」
ふたりは並んで、それを少しずつ食べた。
かすかに、もやが晴れてきているようにも思える。
やがて、岸にボートが着いた。
静かに、でも確かに、船底が川辺に擦れる音が響く。
「さあ」
サヤは先にボートを降り、ミクに手を差し伸べる。
ミクはその手を取り、小さくジャンプして土手に上がった。
ふと足元を見ると、そこに落ちていたのは――金属バット。
野球少年の忘れ物か。あるいは……すでに、襲われてしまった少年のものか。
サヤはそれを拾い、慎重にあたりを見回しながら、ゆっくりと土手を登っていく。
そのとき――
「あ、ああああああ……」
「!」
サヤは凍りついた。
いた。
動いた死体と同じ。
そこにいた。死んだはずの、いや、生きていたはずの、誰かが。
――さっきまでは、人間だったものたち。
サヤの横で、リュックを背負ったミクが震えている。
ここはまだ電信柱の残る住宅街のはずだが、
土手の下に並ぶ家々には、ほとんど灯りが見えない。
街灯もぽつりぽつりとしか残っていない。
(絶対に。この子だけでも助けなきゃ!)
どうする? どうすれば――?
そのとき。
「!?」
車のエンジン音――!
サヤが見上げると、橋の向こうからトラックが走ってくるのが見えた。
デコトラ。荷台には、ど派手な竜の絵が描かれている。
「お願い! 気づいて!!」
サヤは大きく手を振った。
トラックが橋を渡り、こちらに向かってくる!
死体たちも、エンジン音に反応した。
一斉に、こちらを向き始める。
サヤはミクの手を強く握り、死体の間をすり抜けるように走った。
(この子だけでも!絶対に、助けなきゃ……!)
その思いが、サヤの中で一層強くなる。
握るミクの手にも、自然と力が入った。
ミクが不安そうな顔でサヤを見上げる。
けれどその表情には、どこか信じるような、頼るような光もあった。
トラックが突進し、死体たちを弾き飛ばして停車する。
運転席には男。助手席には、女性が二人。
おそらく家族なのだろう。
「リョウくん!」「お父さん!」と、助手席の女性たちが叫ぶ。
「後ろに乗れ!」
運転手の男が素早く降り、
荷台カーゴの観音扉のロックを外して開いた。
「ここに乗れ!」
サヤは振り返る。
ミクを乗せる――その一心で、死体の顔面をバットでなぎ払った。
「ミクちゃん、早く!」
ミクの瞳に、サヤの姿が映る。
その瞳が、ほんの一瞬だけ、強く揺れた。
――ミクが、その背中をぎゅっと掴んだ。
「サヤちゃん! 早く!」
ミクが必死に叫ぶ。
「よいしょっ! 暗いし、ちょいと揺れるけど、勘弁してくれよな!」
運転手がふたりを荷台に乗せると、扉を閉め、
レバーがガチャンと音を立ててロックされる。
「行くぞ!」
トラックのエンジンがうなりを上げ、再び動き出した。
「どこに行くの?」
ミクがぽつりとつぶやく。
サヤは答えずに、そっとその頭を撫でた。
トラックの振動のなか、ふたりは荷台の暗がりで肩を寄せ合い、
静かに、かすかな安堵の息をついた。
川を渡った。
いま――希望の岸にいる。




