王女が見た夢
私の名前はエリシア・アウレリア。
光の聖女と讃えられる姉、リセーヌの影として、私は生きてきた。
私たちはこの国の王女だ。姉が第一王女、そして私が第二王女。
けれど、その立場以上に私と姉を隔てているのは、生まれ持った〝力〟だった。
姉のリセーヌには、祝福された光の力があった。触れるだけで傷を癒せる姉を、民は〝聖女〟と呼んで讃えた。
その隣で、私は『気味の悪い王女』と噂されていた。
私の力は、他人の痛み――それも心の奥底にある〝痛みの記憶〟を自分の夢に引き受けるというものだった。
一見すれば、それはとても役に立つ力に見えるかもしれない。
けれど実際は違った。
私は夜ごと引き受けた苦しみを夢に見る。
焼け落ちた屋敷、拷問の記憶、死にゆく者の後悔、裏切られた怒り……それらを全部、私の眠りに刻み込む。
私もリセーヌのように、ただ痛みを取ってあげることができたらよかったのに。
私は、祝福を受けていない出来損ないなのだ。
自分を犠牲にしなければ、誰かを救うことはできない。
朝には寝汗で髪が濡れ、息も絶え絶えになって目覚める。
私が夢を喰らうたび、周囲は私を恐れた。
『エリシア様って、人と会った翌日は寝汗がすごいのよ』
『知ってるわ。一体何をしているのかしらね』
『悪夢を呼ぶ王女なのよ……』
『呪いだわ。聖女リセーヌ様のそばにいると、彼女の力が穢れるのでは……』
『目を合わせないで。心を覗かれるわよ』
そんな噂はやがて確信に変わり、そして蔑みへと形を変えた。
姉であるリセーヌも、最初は私を心配していたはずだったけど……民に讃えられるほどに、私を遠ざけるようになった。
「ごめんね、エリシア。あなたが私のそばにいると、みんなが怯えるの。もう少し……距離を置いてくれないかしら?」
「……わかったわ、お姉様」
それでも、私は構わなかった。
姉が民を癒す〝聖女〟として輝くなら、それでいい。
私はその影で、誰かの痛みを引き取って、生きていく。
そう、思っていたのに。
「――エリシア。おまえはもう、何もしなくていい。いずれ私がおまえに合う結婚相手を見つけてやるまで……静かに生きろ」
国王である父は、そう言った。
それは私を気遣っての言葉だったのかもしれない。けれど私には、結婚するしか必要価値がないと言われたのと同じだった。
姉も、父も、侍女たちも――。私の存在が疎ましいのかもしれない。邪魔なのかもしれない。
末の王女である私はいつか、国のために有益な相手と結婚することになるのだろう。それが私に残された、国の役に立つ方法。
昔は憧れの相手がいたような気がするけれど……初恋なんて、もう忘れてしまった。
*
私はその日、王都の外れにある兵士の療養所を訪れていた。
と言っても、王女としての身分は伏せている。
父には、もう何もしなくていいと言われたけれど、兵士には、心に傷を負った者が多い。戦場で傷を負うのは身体にだけではないことを、私は誰よりもよく知っている。
だから時々こうしてこの場を訪れ、救いを求めている人がいたら手を差し伸べている。
それが王女として私がこの国のためにできる、唯一のことだから。
そのときだった。
「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
治癒師の叫ぶような大きな声に振り向くと、男がぐったりとした兵士を支えてやってきたところだった。
「俺は平気だ。彼を頼む」
どうやら怪我をした者を連れてきたらしい。
(彼は――)
兵士を連れてきた男――。
それは、戦場で名を馳せた英雄騎士、ライゼル・ヴァルドだった。
銀色に輝く髪、太陽のような金色の瞳。鋼の意志と不敗の剣技で知られる彼は、ドラゴンから王国を救った英雄だった。
どんなに大勢の騎士を派遣しても誰も倒せなかったドラゴンを、彼はたった一人で倒した。
誰も成し遂げられなかったことを、彼はやり遂げたのだ。
けれどその日私が見た彼は、伝え聞いていた姿とは違っていた。
全身の筋肉は戦士そのものだけれど、目は虚ろで、誰も寄せ付けないオーラを放っていた。
まるで壊れた兵士のように、ただそこにいた。
「ライゼル様は、痛むところはございませんか?」
「……ない」
「しかし……」
「俺が痛いのは、心だけだ」
「心……、ですか」
「俺を治せる者など、この国にはいない」
「……」
治癒師たちは皆、彼をどうすることもできず、手を引いていた。
「ライゼル様にはもう、人の言葉は届かない……戦場に心を置いてきたんだ」
「眠ることすらできないらしい。夜ごと唸り、怯え……いずれ我を失ってしまうだろうな」
「しっ……! 聞かれるぞ」
「聞かれたとしても、もうあの人には咎める気力もないんだよ」
そんな話し声が、私の耳に届く。
数年前に彼が登城した際、私も会っている。
そのときの彼は、まさに〝英雄騎士〟そのものだった。
凛々しく誇り高く、そして笑顔には穏やかな優しさが宿っていた。
気さくで、誰に対しても言葉を選ぶ、あたたかい人だった。
けれど今の彼はまるで別人――そう思ってしまうほど、彼は変わっていた。
私は、ふらりと彼の前に立った。誰かが止めようとする声も、気にせずに。
「……君は?」
不思議そうに私を見つめるライゼル様に頭を下げ、そっと彼の手に触れる。その瞬間、鋭い痛みが胸に走った。
……焼け焦げた皮膚の感触。爆風で吹き飛ばされた兵士の断末魔。仲間の最後の叫び。
守ると誓ったはずの命が消え、誰も救えなかったという罪悪感が残る。
振るった剣が憎しみ一色になり、守るためではなく、ただ殺すだけのためにあった恐怖。
視界が、黒く染まっていく。
自分が自分ではなくなっていく感覚と、それでも逃げることなど許されない責任感に、喉が痛くなるほど無我夢中で叫びながら敵に向かっていく――。
眠ってもいないのに、これほどの痛みが流れてきたのは初めてだった。
「っ……は、ぁ……っ、うう……っ……!」
私はその場に崩れ、息を荒らげ、涙を流した。
夢じゃない。これは確かに、彼の〝痛み〟だ――。
*
『――熱い……熱い、やめてくれ……!!』
焼け焦げた肉の匂いが鼻を突いた。
黒煙が渦を巻き、炎が空を裂く。
『た、助けて――!!』
どこかで、誰かが叫んでいる。もう何人目だろう。
地面には、半ば炭と化した、仲間の姿。
彼らはもう、ぴくりとも動かない。
『動ける者は……っ、まだ、息のある者は――!』
駆け寄った誰かも、次の瞬間には爆風により吹き飛ばされる。
屈強な兵士の身体が、まるで紙切れのようにふわりと宙を舞い、地面に叩きつけられた後、動かなくなった。
耳の奥が、キンキンと痛む。
周囲の声が、まるで水の中にいるように歪んでいく。
けれど、聞こえた――別の声。
『守るって、言ったのに――』
声の主は、泣いていた。決して俺に言った言葉ではなかっただろう。しかし、その言葉は確実に俺の胸を突き刺した。
そしてまた彼も、数秒後にはドラゴンの大きなしっぽによって吹き飛ばされた。
『くそ……俺は……っ、俺は……!!』
握っていた剣が、ずっしりと重く、どす黒い何かをまとっていた。
自分の何倍もある巨体に、鼓膜が破けるほどの咆哮。恐怖という感情は振り切れ、ただ怒りとなって奴に向けられた。
〝グォォオオオオオ――!!〟
振るうたびに、肉が裂け、骨が砕け、血が噴き出す。
これは、本当に国を守るための剣だったのだろうか?
――違う。憎しみで真っ黒に染まった、ただ殺すための剣になっていた。
視界が揺れた。
息もできないほど苦しいのに、痛みなどとっくに忘れている。
『英雄、ライゼル・ヴァルド様の凱旋です――!』
何も知らずに沸く歓声が、耳に痛い。
『もう……嫌だ。もうやめてくれ……こんなの、俺じゃない……!!』
俺は英雄などではない――。
だが、君だけは――俺の痛みに寄り添い、わかってくれた――。
*
「――は……っ!」
今のは……英雄、ライゼル様の夢。
私はどれほどの時間眠っていたのだろう。
苦しみに意識が途切れ、私は深く、深く沈んでいた。
気がつけば、朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
私はベッドに寝かされており、額には濡れた布が載せられていた。
空気は静かで、鳥のさえずりが聞こえる。
〝コンコンコン――〟
そのとき、扉をノックする音が耳に響いた。
「起きていたか」
その声に目を向けると、ライゼル様が部屋に入ってきたところだった。
心なしか、彼の瞳には昨日のような虚ろな影はない。
「昨日は突然倒れたから驚いたが……もう平気か?」
「……はい」
「そうか。ならよかった」
身体を起こした私に、ライゼル様が歩み寄ってくる。
そして顔色を窺うように覗き込まれると、安心するように小さく息をついた。
「……しかし、不思議だ」
「え?」
「俺は昨夜、なんの夢も見なかった」
独り言のように呟かれた言葉に、私は視線を彼に向ける。
「穏やかに眠ったのは、数年ぶりだ」
「…………」
たったそれだけの言葉が、胸にじんと沁みた。
私はこの方の夜を守れたのだ。それがどんな意味を持つのかは、彼の表情を見ればよくわかる。
そう思えた瞬間、心の奥で何かが静かに灯った気がした。
「ありがとう」
「え……っ」
「俺が眠れたのは、君のおかげだろう?」
「どう、して……」
私は身分を明かしていない。ずっと表に出ることもなかったから、顔は知られていないはず。
そもそも私の力のことを知っている人物は限られている。
だから私が何をしたのか、きっと彼にはわからないはずなのに。
「いや、ただの勘、というやつだ」
「勘?」
「君には人の心の痛みを取り除く力があるのか?」
「……そうです」
詳細を伝える必要はない。だから私はそれだけ答えた。
「すごいな」
「私はただ……あなたが少しでも楽になればと、手を伸ばしただけです」
「触れるだけで痛みを取り除いたと?」
「はい」
「それは、本当に素晴らしい力だ」
「…………」
この力をそんなふうに感謝してもらえたのはいつぶりだろうか。
「君のおかげで、俺はこうして朝を迎えることができた。俺はライゼル・ヴァルド。君は?」
「……エリシアです。エリシア・アウレ――」
一瞬ためらい、私は姓を呑み込んだ。王女だと知られたくなかったわけではない。ただ、今はただの〝エリシア〟として、この人の前にいたかった。
「エリシアか。……不思議な力だ。痛みを喰らい、眠りを守る者」
彼は私の名を、何度かゆっくりと口の中で転がすように繰り返し、そして小さく頷いた。
「また……君の力を借りてもいいだろうか?」
「……ええ、もしあなたがそれを望むなら」
その瞬間、彼の目の奥に、微かな光が灯った気がした。
この方は、これまでどんなに辛い夜を過ごしてきたのだろうか。たった一晩引き受けただけで、想像を絶する彼の痛みを思い知った。
眠れぬ夜の中、ほんのわずかでも灯る光があるなら。
私はそのために、いくらでも夢に沈もう。
それが国を救った英雄、ライゼル様のために私ができる、唯一の役目なのだから。
*
再びライゼル様に会ったのは、それから数日後のことだった。
療養所に足を運ぶと、以前よりも空気が穏やかに感じられた。ざわついていた兵士たちの様子もどこか落ち着いていて、それがむしろ、私には不思議に思えた。
奥の部屋へ向かうと、彼は一人で椅子に腰かけていた。
その背中が静かに、しかし力強くそこにあった。
「……ライゼル、様」
私が声をかけると、彼は振り返り、ほんの少し目を見開いた。
「エリシア!」
「覚えていてくださったのですね」
「もちろんだ、忘れられるわけがない。君が来るのをいつも待っていた」
その言葉に、胸の奥がきゅうっと鳴った。
「すぐに来られず、申し訳ありません」
「いや、君の都合もあるだろう」
本当は毎日でも来たかった。けれど私も一応は王女。私のことを心配している人なんていないけど、それでも侍女たちの目を盗んで出かけるのは簡単ではない。
「今日も……俺の痛みを取り除いてくれるだろうか?」
「もちろんです。英雄ライゼル・ヴァルド様」
彼は元々辺境伯家の嫡男として生まれたけれど、国を救った英雄として、今では公爵家に並ぶほどの名誉を得た。
かつては縁談話が絶えず彼の元に押し寄せていたようだけど、心を失ってから、その話はぱたりとなくなったらしい。
姉のリセーヌにも一度、彼との婚約話が舞い込んでいたはずだ。
私は彼の前でお辞儀をしてから、そっと彼の手に触れた。
重厚な剣を振るってきた彼の手は、私の何倍も厚みがある。
この手が、人々を……この国を、守ったのだ。
「……エリシア」
ライゼル様がぽつり、と私の名を口にした。
その瞬間――。
「……っ」
再び、あの感覚が胸を貫いた。
息が詰まるほどの痛み。焼けた匂い。誰を恨めばいいのかもわからない、やり場のない悲しみ。
そして、孤独の中で涙を流しながら剣を振るう、英雄の姿――。
「……っはぁ、……っ!」
「エリシア……!?」
「大丈夫です」
倒れそうになったところをライゼル様に支えられ、なんとか持ちこたえた。
「その力を使うのは、容易ではないのか?」
「……いいえ」
そういうわけではない。この力自体は、簡単に使うことができる。
問題は、別にあるのだから。
「申し訳ありません、もう大丈夫です。今夜もライゼル様の眠りが守られますように」
震える身体を堪え、にこりと笑みを浮かべる。
そんな私に、彼はひどく驚いた表情を見せた。
「……なぜ、泣いている?」
「え……っ」
彼の言葉で、私の頬を一筋の涙がこぼれ落ちていることに気づく。
「これは……、申し訳ありません……!」
ライゼル様が、不思議そうな、困惑したような顔で私を見ている。
私も苦しんでいるのだと知ったら、きっと彼は自分を責める。
彼は私を犠牲にして自分の痛みを取り除こうとする人ではないから。
「エリシア――」
「私はこれで失礼します」
彼が私に手を伸ばしたけれど、私はその手をすり抜けて踵を返した。
彼の痛みは取り除きたい。
けれど、彼に会えば私が涙を流した理由を問われる。
彼の痛みは大きすぎて、一度ですべてを取り除くことはできなかったけれど……。
どうかこれで、少しでも悪夢を見る日が減るといい。
そう祈りながら、私はまっすぐ帰路に着いた。
*
それからしばらくの間、私があの療養所を訪れることはなかった。
ライゼル様がどうしているか、眠れているか、とても気になったけれど、その疑問はおよそひと月後に解決されることになる。
「――リセーヌと英雄騎士、ライゼル・ヴァルドの結婚が決まった」
家族を集めた夕食の席で、父の言葉が私の耳を貫いた。
「おめでとう、リセーヌ。しかし、前に一度断っていただろう? どういう風の吹き回しだ?」
「以前のライゼル様は抜け殻のように心を失っていたのですが……療養期間を経て、今ではすっかり以前の〝英雄騎士様〟に戻られたのよ」
兄の問いに、リセーヌが微笑みながら答える。
「そうか、それはよかったな!」
「本当におめでとう、リセーヌ!」
家族のあたたかい声が辺りに響いた。
私はまるで孤独な箱の中に閉じ込められているかのように、どこか遠くその声を聞いていた。
「エリシアも喜んでくれるかしら?」
姉の問いに、ハッとして顔を上げる。
その目は、何かを探るように私に向けられていた。
「……はい、おめでとう、ございます……お姉様」
「ありがとう、エリシア」
なんとか絞り出した言葉は、頼りなく震えていた。
でも……ライゼル様が再び光を見つけてくれたのなら――それだけで、胸がいっぱいになる。
あの日の手が、ようやく温もりを取り戻した気がして……涙がこぼれそうだった。
――その日の夜。
私は夢を見た。
まだ少女だった頃の私が、銀髪の若い騎士を前に、ドキドキと胸を高鳴らせている夢。
隣には姉がいて、二人でその騎士を「かっこいいね」と言いながら、淡い恋心を抱かせていた。
「俺がこの国の平和をお守りします、姫」
銀髪の騎士は、そう言って私の手を取り、その甲に唇を落とす仕草を見せた。
その視線とあたたかい手の温もりに、私は恋をした。
ああ……そうだ。私の初恋相手は、ライゼル様だった。
その後、彼はドラゴン討伐の戦いに出た。
数年に及んだその戦いの間に、私は『気味の悪い王女』となり、リセーヌは『光の聖女』となった。
すべてがあの頃と、大きく変わってしまった。
それでもドラゴンから国を救ったライゼル様の痛みを取り除けたのなら……
彼が光の聖女と結婚して、幸せになってくれるのなら……
私の存在に、少しは意味があったと思いたい。
『エリシア!!』
一筋の光を見つけたとき。
姉の怒声が私の名を叫んだ。
『あなた、私の夫と夜をともにしたわね!?』
『そんなこと……していないわ……』
『嘘! 私の夫に色目を使うなんて……! 許せない! あんたなんて国外追放よ!!』
『そんな、私はただ……、ライゼル様の痛みを取り除きたくて――!』
光の聖女の名に相応しい、リセーヌの美しい顔が嫉妬で歪んでいる。
私は……私はただ……、彼の痛みを取り除くために触れただけ……。
苦しい、悲しい、誰か、助けて――。
「う……っ、はぁ……っ!」
ハッとして目を覚ますと、私は自分のベッドの上で大量の汗をかいていた。
「今のは……私自身の、痛み?」
いいえ、あれはただの夢よ。私の想像でしかないわ……。
ふるふると身体が震えている。
夢を見たのに、私は自分自身の痛みを取り除くことはできないのだろうか。
いっそ、すべて忘れられる力があったらよかったのに。
*
翌日、ライゼル様が登城してきた。
姉、リセーヌと正式に婚約を結ぶために。
私は玉座の間の隅に立ち、王族としての礼装に身を包みながら、静かにその姿を見つめていた。
堂々たる歩み、凛とした背筋、その一挙手一投足に、揺るぎない強さと誠実さが滲んでいる。その姿は、まぎれもなく――私の初恋、〝英雄騎士ライゼル様〟だった。
でも、それはもう遠い昔のこと。
幼い日々のきらめきで、今の私とは切り離された夢のように思える。
だから、その想いは心の奥にそっとしまったのだ。誰にも見せず、忘れたふりをして。そうするしかなかった。
「英雄ライゼル・ヴァルド殿。リセーヌ王女との縁談について、受諾の意を確認させていただく」
重々しい侍従長の声が高く響く。荘厳な玉座の間に、しんとした緊張が張りつめた。
王の前へ、ライゼル様が一歩、静かに進み出た。その横に立つのは、姉。いつもの毅然とした、誇り高き第一王女だが、その頬には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
そのとき――彼と、目が合った。
「一つ、訂正を申し上げたいことがございます」
その声に、場がざわめいた。
侍従長が眉をひそめ、父が静かに目を細める中、ライゼル様は更に一歩、前に出た。
「私は王家からの婚姻の打診を受けた際、〝王女との縁談〟としか聞いておりませんでした。確かに第一王女殿下との婚姻は、我がヴァルド家にとっても有益と理解しております」
一瞬だけ、姉が驚いたように瞬きをした。
けれど、次の瞬間にはその表情が消え、静かに彼の言葉を受け止める面持ちへと変わっていた。
「しかしながら……私がこの身を賭けて婚姻を望む相手は、第二王女のエリシア殿下です」
――え?
心臓が大きく跳ねて、息が止まった。
何かの間違いではないかとさえ思った。でも、彼の眼差しはまっすぐに、私だけを見ていた。
「エリシア様は、身分を隠しながら私を救ってくださいました。夜の悪夢にも、過去の傷にも、臆することなく寄り添ってくださった。俺を――この、壊れかけた人間を救ってくださったのです」
胸が張り裂けそうになる。
だって彼は、私を見ている。王女ではなく、〝エリシア〟を。
「エリシア、君は俺の痛みを引き受けてくれていたんだね」
「どうして……」
「君が来なくなってから、名前とその力を手掛かりに、随分探したよ」
彼の視線があまりにも優しくて、あまりにも嬉しそうで。
「俺はもう、他の誰かと結婚することなどできない。君こそが、生涯を捧げたいと思う相手だ」
まっすぐな求婚に、私はその場で立ち尽くすことしかできなかった。真摯な声に、涙がこぼれそうになるのを堪えるのに必死だ。
でも、そのとき。
私の前にすっと歩み寄ってきたのは、姉だった。
「エリシア」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。びくりと身体が揺れ、見上げると――姉が私を見つめていた。
つり上がったその瞳は、どこか寂しげで……それでも透き通るようなあたたかさを湛えていた。
そして次の瞬間、ふと慈しむように微笑んだ表情には、深い愛情と少しの惜別が滲んでいた。
「……お姉様?」
「私……覚えているのよ。あなたがまだ幼かった頃、『将来、ライゼル様と結婚するの!』って、目を輝かせていたこと」
「え……っ」
幼い日の記憶が、胸の奥からふっと浮かび上がってくる。
誰にも言わずにいたはずの想い。忘れたはずの想い。
けれど、姉はちゃんと覚えていたらしい。
「私もね……ライゼル様のことを尊敬していたわ。でも……私は彼の痛みを引き受けることはできなかった」
「……」
静かに告げられるその声には、悔しさも嫉妬もなかった。
ただ一筋の、澄み切った想いが宿っている。
「私は一度、彼を見捨ててしまった。でも、あなたは違ったのね」
見捨てたというのは、心を失ったライゼル様との結婚話を、一度は断ったことを言っているのだろう。
「あなたしかいないのよ、エリシア。彼の闇に踏み込んで、その奥から光を見つけられる人は。あなたしか、いない」
「お姉、さま……」
堰を切ったように、涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
姉の手がそっと伸びて、私の手を優しく握りしめた。
「エリシア。あなたはどうしたい? このまま私に遠慮して、お父様が決めた相手と結婚する?」
姉の問いに、私はその目をまっすぐに見つめた。
姉は、光の聖女。聖女はこの国で一番輝いていて、優遇されるべき存在。
でも――。
「私は……私は、ライゼル様と結婚したいです」
はっきりと力強く告げた言葉に、皆が一瞬息を呑むのがわかった。
けれど私はもう迷わない。遠慮しない。
これからの人生を、自分の意志で決める。
「……そう。行きなさい、エリシア。これは、あなたの初恋の結末よ」
姉の頼もしい言葉に父を見ると、肯定するように優しく頷いてくれた。
二人に背中を押されて、私は静かに前へと歩き出す。
視線の先に立つのは、遠い夢の中で何度も願った人――私の、初恋の人。
けれど今はもう、夢ではない。現実の未来をともに歩むと誓ってくれた人。
本物の、私の未来。
姉の言葉を受け止めて、私はライゼル様と向かい合った。
すると今度は、彼が私の手をそっと取った。あの日のように。
「もう離さない。これからは俺が……君の痛みも、すべてを受け止める番だ」
その言葉に、胸の奥で何かがとろけるように解けた気がした。
彼の手から伝わってくる熱が、私の胸に広がっていく。
それは、彼がずっと私を想い、探してくれていた痛み――
会えなかった日々の、切ない恋の残響だった。
「心から……君が好きだ、エリシア」
「ライゼル様……」
彼の目に、私が映っている。
心から私だけを見て、私の名前を呼んでくれている。
彼はこんなにも私を想ってくれていたんだ。探してくれていたんだ。
もう二度と会えないかもしれないと考え、気持ちを伝えなかった後悔が、痛いほど伝わってくる。
ライゼル様の声が、視線が、ぬくもりが――あまりに優しすぎて、また涙があふれた。
でもこれは、悲しみではなく、救われた幸福の涙。
あの日のように、私の手の甲に唇を落とすライゼル様の姿は、あの頃よりもずっと大きくて、頼もしくて、そして美しく見えた。
「……私も、お慕いしておりました。幼い頃より、ずっと」
涙で滲む世界の中で、私は微笑んだ。
――ああ、これは夢じゃない。子供の頃に願った夢が、今ようやく叶うのだ。
これからは、彼と二人で新しい〝夢〟を見続けていく。
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