意図せぬクレーマー
「申し訳ありませんが、送り先不明のためキャンセルとなります」
石川はその言葉に驚愕した。
手元に戻された指輪のケースを握り締めながら、体が怒りで震える。
奥にある機械に乗せてちょっと操作しただけで、無理でした、キャンセルです、なんてそんな道理はない。
定時退社で帰ってきた彼女がオンからオフに切り替え終わった頃を見越して明後日の二十時に指定した。
数分のズレがあるらしいがそれは問題じゃない。三時間毎に代金が加算されるので、配送料としてはなかなかの金額を請求されたが、それも背に腹は代えられない。
しかし、内容物の検査も含めて五分も経たないうちにキャンセルだと言われるのは納得出来ない。
たった数分で基本料の500円を請求されるのだから割に合わない。
指輪に続いて基本料金を差し引いた差額が手元に戻された。こんな時のための前払いなのだろう。腹立ちながらもそんな事を考えてしまう。
石川は根本的に楽天家で脳天気な男ではあったが、急な出張を任される程度には有能な男でもある。
彼は自分とそう年が変わらないであろう女性店員に、キャンセルが納得出来ないと説明し始めた。
しかし、店員はキャンセルを取り消すことは無かった。
今度は切々と心情を訴える。自分は藁にもすがる思いでTTSに来たのだ。何も500円の基本料が惜しいわけではない。
これではクレーマーだとふと我に返ったのは、フロアマネージャーと名札に書かれている宮城という年上らしき女性店員がカウンターに来た時だった。
「お客様のお話はごもっともだと思います」
「いや、こちらも言い過ぎました」
宮城は丁寧に深く頭を下げる。自分の言動を振り返って石川も頭を下げた。流石に長時間に渡り何とかして欲しいと訴えたのはモンスターだと思われても仕方がない。
「タグが国内に無かったり破損してしまった場合はキャンセルになってしまうのです。そこで、ご提案なのですが…」
そう言って宮城が差し出してきたのは、小さな楕円形の平べったい板…タグと呼ばれるものだった。
商品を配送する為の情報を埋め込むチップは抜かれているが、素材は通常のものと変わりなく、指定時間になると音と色で知らせるアラーム機能は動作するそうだ。
商品は配送されないが、このタグを先方に渡してタグが国外に持ち出されたり破損したりせずに指定日時以降に店舗へ持って来たら、全額を返金してくれるそうだ。
「店舗に足を運んで頂く事になりますので、お足代もご用意させて頂きます」
「国外に持ち出しておいて持ってくる事も出来るじゃないか」
「お客様の良心にお任せします」
自身が海外に持ち出せば、返金額より渡航費の方が高くなるだろうから意味はないが、例えば適当な住所でエアメールにしてみれば宛先不明で戻ってきたりするんじゃなかろうか。まぁ戻ってこない可能性もあるが。
石川が提案の穴を突ついてみたが、宮城は臆することなく即答する。店側が提案出来る精一杯の妥協点だと思った。
というか、逆の立場だと果たして自分にここまで出来ただろうか。そう考えると、自分の思い通りにならなくて店員に絡んでしまった事が恥ずかしい。
「それじゃあ、試してみます。………長々とすみませんでした」
石川はまだどこか納得が行かないという思いをねじ伏せて頭を下げた。それから、折角なので提案を受け入れて、機能が制限されたタグを受け取り席を立った。
「お客様のご来店を心よりお待ちしております」
宮城が入り口まで見送りに来て、穏やかにそう言って頭を下げたことに石川はギョッとした。その顔を見れば嫌味でも嘘でも無い事は理解る。
正直自分はキャンセル料の500円しか払っていないし、良いお客様では無かったはずなのに、『心より』と言えることが凄いと思った。
宮城の隣で一緒に見送りに来ていた最初に対応してくれた店員の表情からも、尊敬できる上司であることが見て取れた。
格好いいな。うちの嘘くさい愛想笑いで出張を押し付ける上司とは大違いだ。
思わずそんな八つ当たりめいた事を考えてしまった。
さて、ダミーとはいえタグを受け取ったからには、これを出張前に彼女に渡さなければいけない。
TTSに来ておきながらなんだが、やっぱり指輪は直接渡すべきだと思った。だから、タグと一緒に今日渡してしまおう。
一度、家に帰って出張の荷造りを終えると彼女の家に向かう。
一人暮らしの自分と違って実家暮らしの彼女の家はファミリー向けのマンションだ。
インターホンを鳴らしたところ案の定、彼女の母親に、仕事でまだ帰っていない、と言われた。
何度も来たことがあるので、上がって待つか聞かれたが、指輪を渡そうとしていることを彼女よりも彼女の家族に先に伝えるのはまずい気がして、二十四時間営業をしている近くのファミレスで待っていることにした。
彼女の母親はお喋りが大好物なので言われるまま家に上がらせてもらうと、絶対用件を聞き出そうとすることは安易に想像できた。
彼女には『何時になってもいいから待ってる』とファミレスの名前と共に連絡を入れておく。
出張の事を考えるとなるべく早い方が助かるのだが自分の都合を振りかざす事は出来ない。
手持ち無沙汰なのでイベントの資料を取り出して読み込む。会場の見取り図を見ながらブース設営のシミュレーションを頭の中で繰り返す。足りないものや忘れ物が無いか一つ一つ確認していく。
そうやって時間を潰して十一時が過ぎた頃、ようやく彼女が石川の前に姿を見せた。
2022.06.22 キャンセル理由の説明を追記