出張は突然に
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「石川、明日からのイベント、俺の代わりに行ってくれ」
上司の熊本から突如言われた出張に、石川篤志は酷く動揺した。
以前クリスマスイブに定時退社同盟を結んだ事が切っ掛けで仲が縮まったが、それが裏目に出たかもしれない。
「勘弁して下さいよ〜。イベントって九州で三日間あるやつですよね?明後日彼女の誕生日なんですって。レストラン予約してるんっすよ?」
「それはご愁傷様。でも、別件でトラブルがあって俺もイベントの方へ行けなくなってさ。代わりに行けるのお前だけなんだって。な?」
石川には確かにマーケティングやら準備資料の作成をした記憶は有るが、代わりが自分しか居ないっていうのはいくらなんでも買い被りが過ぎるだろう、と同僚を見回すが他の案件にがっつり参加している先輩やら今年入社の新人やらで熊本が言うとおり自分でも自分を指名する、と思ってしまった。
そんな石川に、他にいないだろ?、と言わんばかりにいい年したおっさんが愛想笑いを浮かべている。
「プレゼント当日に渡さないと彼女絶対拗ねるっす。本当に他に居ないんですか?」
「当日か……。あ、TTSを使ってみたらどうだ?うちの息子は喜んだぞ」
「あー。サンタさんがショッピングストアでプレゼント買った話っすね。もう何度も聞きましたよ。耳タコっす」
それでも何とか回避できないかと悪足掻きをする石川の懇願は、実はこちらも追い詰められている熊本には聞き届けられなかった。
結局そのまま押し切られて、石川は急遽出張することが決まってしまったのだ。
イベントは金、土の二日間。明日は木曜日だが、前準備が必要なためイベントの前日から行かなくてはならない。月曜日は土曜日の代休で休んで良いそうだ。
とはいえ、彼女の誕生日は金曜日だ。月曜日が休みになっても意味はない。
石川が彼女と付き合い初めたのは高三からで、随分と長い。気の強い彼女は少しつれなくて、責任感が強いからいつも何かを抱えているところがある。だけど、実は甘えん坊でたまに石川の存在を思い出してぺったりくっついてくるところが猫みたいでたまらなく可愛かった。
なんでも全力投球の彼女は目の前のことに捕らわれがちで、人から頼られるのが好きだ。そんな性格で、使命感を持ってジャーナリストという職業に就いた彼女はデートに遅刻したりドタキャンしたりする事は日常茶飯事だった。
それでも会った時は申し訳無さそうに謝って、甘えたそうにしているのを見ると、石川は怒ることなんて出来なかった。彼女より少ないが石川も遅刻やキャンセルしてしまうこともあり、それを彼女も可愛く口を尖らせながらも許してくれている。
そんなふうに普段果たせないデートの約束が多いからこそ、誕生日やクリスマスなどのイベントは例え予め日をずらすことがあったとしても、二人ともキャンセルにならないように努めていた。それが高校からそれぞれ別の大学、就職と進んでも別れなかった秘訣だと、石川は思っている。
そして、こんな距離感は、彼女以外と築けるものでは無いと確信していた。
石川にとって今年の彼女の誕生日は特別だった。彼女にプロポーズをしようと指輪を用意しているのだ。
内側に彼女と自分のイニシャルを刻んだ指輪は偶然にも今日の昼休みに受け取りに行って今手元にあった。
前倒しで今夜会えないか、と連絡を取ってみたけれど誕生日に定時退社を目指すためにいま猛烈に仕事をしているらしく「今日はムリ」と素っ気無い返事しか来なかった。
今日会うのはムリで、誕生日当日に会うのもムリ。後日は………もう一度連絡しても仕事に殺気立っている彼女に返信してもらうのはムリだと思った。
そうなると―――。
「TTSか…」
明日の準備もあるからとほとんど定時で退社させてもらう。
外に出ると、少し前に夏至を過ぎたばかりのこの季節の空はまだ明るかった。
熊本が教えてくれたTTSの場所は、駅とは反対方向にはなるが徒歩圏内だ。
テレビのコマーシャルでは、最近アイドルから女優に転身した香川陽菜が友人からの手紙に涙するエピソードが流れており、熊本から聞かされたクリスマスエピソードも加われば、なんともファンタジーでハートフルなサービスだ。TTSを使ってみてもいいのでは無いかと思えた。
一度、駅に向かいかけた足を反対の方へと向けて歩きだす。
歩いていくとそのうち日本でも有名な大学の近くを通った。都内の私大だからか石川が行っていた地方の大学よりもキャンパスが随分と垢抜けて見える。
石川は自分もわずか数年前まで大学生だったにも関わらず、学生は気楽そうでいいなぁ、と漠然と思った。
大学は大学でそれなりに忙しかったことを知っているはずなのに、気楽そうと思ってしまったのは、歳をとった証拠かだろうか。そう考えて、初夏の陽気にも関わらずブルリと身震いしてしまった。
気持ちが老けたらシャレになんねぇ。キャンパスの活気を受け取って自分もまだ若いと姿勢を正す。
キャンパスから離れても意識して背筋を伸ばす。ただの見栄だが、これがバカにならない。
今の自分は格好良く見えているんじゃないだろうか。そんなことを考えて口元がにへらと緩んだ。
当然、社内で石川は気楽そうでいいなぁ、と思われていることなんて思いもしない。根本的に楽天家で幸せな男である。