会えてよかった
「石川、交代だ」
ここに居ない人の声が聞こえた。石川は、口の中の悪態を喉に詰まらせたようにびくりと肩を震わせ噎せながら、声の方を振り返る。
「早退していいぞ」
「…く…ま……本、さん?」
幻覚、幻聴の類いかと目を擦ってみるが、今、到着しました、と言わんばかりの熊本の姿がそこにあった。
幻じゃないという実感と共に言われた内容が遅れてようやく脳に伝達された。
「早退、いいんっすか?」
「おう」
「ありがとうございますっ」
さっきまでの悪態は一瞬で吹き飛んだ。
トラブル対応が終わったあとでわざわざ九州まで駆け付けてくれたのだと思うと、ただただ頼りになる上司にしか見えない。なんなら後光が差しているような気がする。勢いで拝みそうになりながら帰り支度を始めた。
「熊本さんって格好良かったんですね」
「煽てても何も出ねぇぞ」
しっしと虫を払うような手振りをする熊本に石川は頭を下げ、イベント会場を後にした。
まだ昼前とはいえ、今から東京へ帰れば彼女の定時は超えている。
連絡を取ろうとするが、メッセージはファミレスで待ち合わせしたあの時以降既読スルーが続いている。
移動の合間に何度か電話をしてみても出てもらえなかった。
なんとなく彼女のオフィスがある駅に来てしまったが、もしかしたらもう帰った後の可能性もある。合コンへ行くとしたら直接行くだろうから家に連絡しても無駄だろう。
そうなると取れる手段は二つ。
仕事関係を装って彼女のオフィスに電話して取り次いでもらうか、紘子の親友の美枝に連絡して反応から既に一緒に居るかを判断するか、だ。
前者は紘子に怒られるやつで、後者は確実に美枝に絡まれるやつになるけど、背に腹は代えられない。
どちらにしようかとスマホ片手に悩みながら改札へ向かっていると、丁度改札を通った彼女と目が合った。
「篤志?なんで?」
合コン仕様なのか、髪を巻いて初夏らしい爽やかな付け爪までしている紘子が、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを見ていた。
「会えてよかった!」
逃げられないようにパスケースを持った手首を捕まえて、ホームへ向かう人の流れから連れ出す。
出張が決まってから運が悪いと何度思ったかわからないが、ここに来てようやく運気が上昇してきたらしい。
「合コンなんかに行かせない」
「あっ、…うん」
彼女はまだ目を白黒させながら、いつになく素直にうなずいた。
「…家でいいか?」
「ちょっと手離して」
想像していたよりも遥かに大人しくしている彼女に拍子抜けしながら、石川は一人暮らしの自分の家に誘った。
ここからなら紘子の実家の方が近いが家族がいるので、話をする場所としては適さない。
しかし、それまで大人しかった紘子は急に石川に掴まれていた手首を振り解いた。石川は少なからずショックを受けてさっきまで彼女を掴んでいた手が宙を漂う。
「じゃなくて、美枝に連絡するから。『行けなくなった』って」
石川の傷付いた様子に彼女は呆れたように肩を竦めた。
「後、行き先だけど予約していたレストランで」
「でも、キャンセルしたけど……待つ?」
今日は金曜日の夜だ。ただでさえ人気のお店なのに明日が休日なので一体どれだけ待たされる事か。
「すぐに予約し直したの。美枝と二人で行くつもりで。合コンなんて嘘よ」
「だけど、その格好…」
「せっかくの誕生日に落ち込むの勿体ないでしょう?着飾ればテンション上がると思って」
そんな話をしながらも紘子はスマホを取り出して素早くメッセージを打ち込んだ。そのメッセージの受け手である美枝から『やっぱりアンタキライ』っていうメッセージが速攻石川に届いて思わず吹いてしまった。
「なんだかんだ言っても美枝は篤志の事、認めているんだよ」
「紘子を困らせたく無いだけだろ?」
「やっぱりそう思う?」
突然吹き出した石川に紘子はスマホの画面を覗き込んで、美枝を庇った。けれど、それは紘子自身もそう思っていないことは見え見えで指摘すると、悪戯がバレた子供のように笑う。
「そういえば預けたタグは?」
「………」
石川がふとTTSのタグの事を思い出して聞いてみると、紘子の反応が可怪しい。
レストランへ向かう道中なんとか聞き出してみれば、電子レンジにかけて変形させてしまったという事が分かった。
突拍子もない行動に唖然とした。
経緯を要約すると、特に石川はタグの説明をしなかったが、紘子の兄の孝太朗は昔、TTSに酷く腹を立てた事があったらしく愚痴をたっぷりと聞かされていた紘子はすっかりTTS嫌いになったらしい。
その兄から持って帰ったタグがTTSのものだと指摘され、思わず折ってしまおうと力を込めたがタグは頑丈で素手でもペンチでもビクともしなかった。
そうなるとなんとか壊してしまおうとムキになってしまって、ニッパーで切ろうとしたりライターで炙ったり色々試した結果、最後は電子レンジで加熱するに至ったらしい。
話を聞いて紘子のブラコンぶりと気性の激しさに思わず苦笑いしてしまう。
かなりの敵意を持ってしてタグが破壊されたからキャンセルになったのか、と石川は深く理解した。
真相を知ってしまえば完全にこちらが悪いのに、クレーマーになってしまってTTSの店員さん達には申し訳ない思いでいっぱいだ。
近いうちに変形したタグを持ってTTSに謝罪しに行こう、そう思う石川だった。