不機嫌な彼女
「何?」
向かい側に座った彼女の…紘子の機嫌は最悪だった。しっかりとリップが塗られた光沢のある唇は口角が下がっており、キッと睨みつける目の下の隈はいつもより厚めに塗られたファンデーションでも隠しきれていない。何よりも低く発せられたその声色が怒っていることを示していた。
そんな様子だというのに石川は思わず笑みが溢れる。
こんな時間でもきちんとメイクをしているということは、自分に会うためにわざわざ化粧直しをしてきたに違いない。そう思うと、紘子の不機嫌な態度も可愛く思ってしまったのだ。
「…何よ?」
「いや、来てくれて良かった」
化粧を指摘するとムキになって否定する姿しか想像出来ず、石川は素知らぬ顔で誤魔化した。
「…メッセージでも送ったけど、ごめん。誕生日に一緒に過ごせなくなった」
石川がそう言うと、一瞬緩みかけた紘子の顔がキュッと強張った。
「やっぱりそうなんだ」
「ホントごめんな。それでちょっとお願いがあるんだけど」
石川がTTSのタグを差し出して預かっていて欲しい旨を告げると、紘子は片眉を釣り上げて胡乱げな様子でタグを見ている。特にTTSの説明はしなかった。ただ「次に会うときまで預かっていて欲しい」とだけ告げた。
新米ジャーナリストである紘子の好奇心を煽る形だ。目の前の事に夢中になる傾向がある紘子には何も説明しない方が好奇心を刺激出来ると思った。それで怒りを忘れてくれたら万々歳だ。
「もう疲れた。帰る」
いつもはここまで酷く無いのだが今日は本当に虫の居所が悪いらしい。
それでも、引っ手繰るように石川の手からタグを抜き取って行った。
石川が指輪を渡しそびれた事に気付いたのは、完全に紘子の姿が見えなくなってからだ。
相当ご機嫌斜めだったが、それだけ誕生日デートを楽しみにしていたのだろう。
翌朝、石川は出張サボりてぇと揺らぐ気持ちを何とか押し込める。
仕事に集中しないといけないのは分かっている。長い移動時間をかけて石川は気持ちを切り替えた。今は彼女のことは考えないようにして、仕事に打ち込むしか無いだろう。
事前に何度もシミュレーションを繰り返していた事が功を奏したのか、イベントブースの設営は、想定内の些細な問題のみで石川の手に負えない事態は発生しなかった。
初めは熊本が来れないことに落胆していた現地スタッフ達も、石川が手際良く対応している様子をみて自然と報連相が整ってくる。石川の気さくな人柄も良かったのだろう。
夜に宿泊先のビジネスホテルに戻ると、上司の熊本に「問題ないっすよ〜」と軽く報告しつつも、「それよりも彼女の方がヤバいっす」と恨み言を垂れ流した。
『誕生日おめでとう。日曜日には帰るから行きたがってたレストランには2日遅れになるけど一緒に行こう』
『篤志とは行かない。美枝と合コンで行く』
日付が変わると直ぐに彼女へと送ったメッセージの返信に発狂しそうになった。
美枝というのは、高校時代の同級生で紘子の親友だ。同じ高校出身だから石川もよく知っている相手だ。それは良い。
しかし『合コン』とはどういうことだ。そう思いつつも紘子には優しいけれど石川には塩対応の美枝が考えそうな事だと納得もしてしまった。『アンタに紘子は勿体無い』と何度言われた事か…。
いつもの紘子ならそんな美枝を適当に流していたはずだ。なんだかんだ言って最後はいつも石川を選んでくれる紘子は自分にべた惚れだと思っていたのに、予想以上に彼女は怒っているようだ。
慌てて電話しても出てもらえず、メッセージは既読スルーだった。
こうして石川は出張二日目を寝不足で迎える事になってしまった。
イベント初日は金曜日で平日であることから会社から来ている人が多い。
その場で商談になる事はまず無い。多くはただブースを覗いて行くだけ。次に多いのは名刺交換をして『後日連絡させて頂きます』という本気なのか社交辞令なのか分からない言葉で離れていく。あとは既に取引があるところや顔見知りとの挨拶だ。元々、石川の担当では無いため、顔見知りは殆ど居ない。
ニコニコ人懐っこい笑顔を張り付けてやり過ごしてはいるものの、人が途絶えて間が出来ると直ぐに彼女の事が脳裏を過ぎりどんよりと落ち込んだ。
「石川さん、もしかして生理?」
「ははは…。そうかも」
現地のお姉さんスタッフが、男の自分にあるはずのない症状を口にしてからかって来たが、否定する元気も無くてから笑いを返す。正直笑えない冗談だが、心配させてしまっていることは理解出来た。
「もう少しで昼休憩だし、早目に入って長めに取ったら?」
イベントに昼休憩は無いので交代で取ることになっているが、仕事をしていないと彼女の事を考えるだけなのでその提案には首を横に振った。
よりによって何で代理に自分が選ばれてしまったのか、この場に居ない熊本に思わずブツブツと口の中で悪態をついてしまう。