闇を結ぶ、光の訪れ
アーディンが用意してくれた小舟は、最大六人まで乗れる物だった。一人は座って眠り、二人は横たわるか仰向けで雑魚寝できる。
「バルーガ。予定通り、君がオールを漕いでくれ」
「わかった」
エリカとオリキスは、後方で立つバルーガに背中を預けて座る。
舟の造りと素材は渡航用に使っている物と同じで頑丈。ちょっとやそっとでは沈まない。と言っても、海竜の攻撃を喰らえばたった一撃で破壊されてしまうだろう。策は、考えてはある。
バルーガは背丈より長いオールを両手で握り、「出発するぞ」と、座っている二人に声をかけてから動かした。
舟の先端は満月がある方向に顔を向け、追いかけるようにゆっくり進んでいく。
入り江を出ても波はない。
魚は寝静まっているのか気配はなし。
息を殺しているかのような、無口で大人しい海。
帆はなく風は吹いていないのに、一回漕いだだけで舟が後ろから押し出され、すうー……と長い距離進んでいくのも不気味だ。
ばしゃん、……ぱしゃっ。……ばしゃん、……ぱしゃっ。オールが水を掻いて弾く音のみ聴こえる。
オリキスは左手に装備してある魔法騎士専用の手袋を脱いで素手にするとその場で落とし、リュックを開けて『聖痕の手袋』を取り出した。
(札が放つ威力に、どれだけ耐えれるのか)
聖痕の手袋を嵌めて自分のほうに手のひらを向け、指を動かしてみる。
「私がしましょうか?」
右側に座っているエリカが声をかけてきた。
光芒の札を作ってるとき、この娘には水霊が嫌う明かりを灯すための道具だと説明した。
(光輝陰隠の属性を持つアルデバランの娘が使えば、十二糸でもない僕は犠牲を負わずに済む)
オリキスは小さな笑みを浮かべた。
「生半可な覚悟で来たわけではないのを覚えててほしいんだ。バルーガにもね」
悪いことがその身に降りかかるのを察したエリカは納得行かず、機嫌を悪くした。
「オリキスさん。意地っ張りや見栄より大事な物はあります」
「……。そうだね」
「!」
「では、いざとなったら、君が僕を助けてくれ」
「!?」
「あげるよ、一つしかない命」
オリキスは右手でエリカの左手を掴み、服の上から自分の心臓に触れさせる。
彼女は苦痛混じりの目で彼を見た。
「卑怯です」
「役に立ちたいんだ。いいだろう?」
数秒間、二人は無言で見つめ合った。
エリカは言う。
「嫌です。戻って別の方法を探しませんか?」
掴まれていた手は優しく、心音からも離れた。
「七年。僕はもう十分、時間と労力を費やした。待てない」
「…………」
「!!」バルーガは辺りの異変に気付き、漕ぐのをやめた。初めは目を凝らさないとわからなかった白い靄の塊たちが段々濃さを増し、人間の形になって表れる。
「水霊だ!!」
数は、五十体以上。まだ増えていく。
オリキスはさっと立ち上がり、バルーガと場所を交替して懐から光芒の札を取り出すと頭上に掲げた。
「『我、光の洗礼。闇を彷徨う虚ろな者を鎮める者也』」
札を軸に、夜明けに顔を出した陽のような暖かい光が放たれた。光輝に弱い水霊たちは悲鳴をあげて怯み、後退する。
「ッ……!」その最中、オリキスは指先に火傷を感じて表情を微かに引き攣らせた。
エリカは舟の上を這って彼に近付き、両脚を庇うように正面から抱き締めて、強く目を閉じて無事を祈る。
光は少しずつ収まり、効果は徐々に消えていくが、光輝の匂いが残っている者を水霊は一晩覚え、匂いが消える翌日の夜まで近寄らない。それまでは襲わず、姿を透かして様子を伺うことにする。
「もういいよ、エリカ殿」
安心させてくれる優しい声が降ってきた。彼女は瞼を開いて顔を上げ、脚から離れて退がる。
「ぁ」。エリカは目を丸くし、オリキスが下ろした左手を、右手で指差しながら小さな声を発した。
「すまない。手伝ってくれたのに」
役目を果たした聖痕の手袋と札は、土壁がぼろっと崩れたように壊れ、消えて無くなった。
エリカは右手を下ろし、何事もなかった顔をしてるオリキスを見て表情を緩める。
「……あーあ、心配して損しちゃった」
左手は無事。
何よりも、命という大事な物が失くならずに終わって良かった。
「エリカ。気を抜くのは陸に上がってからにしろ」
幼馴染みと王が仲睦まじくしているあいだに、水面が僅かに揺れて舟が小波に乗ったのをバルーガは体で感じていた。
真下を確認し、微かに手が震える。なるべく音を立てないようにオールを置いて剣の柄を握り、鞘から抜いた。
悠々と泳ぐ、巨大な影。
大蛇のような頭が付いた長い首は、人間を丸呑みするのも容易い太さ。
水を掻くのは、先端に鋭い爪を生やしてる鰭。
葉っぱが五枚付いてるような団扇の形をした尾鰭も見えた。
浮上しつつある凶暴な輪郭にオリキスは警戒心を高め、不安から座り込んでいるエリカに構うことなくリュックに近付き、魔法騎士専用の手袋を拾い上げて左手に嵌め直した。
「本命がお出ましだな」
小舟の行く手を阻もうと水面から勢いよく顔を出したのは、紺色の鱗肌に、深緑色の苔を生やした頭。黒目に金色の瞳。嘴のような鼻に三つの鼻腔。
オリキスは顔を見上げ(バルーガが言っていたのはあれか)と、両方の口端から食み出ている二本の牙に注目する。下に向かって生えてるが、体を挟まれなければ、貫かれることはなさそうだ。下顎からは一回り小さい二本の牙の尖端が上を向いているのも、特に気にかけなくても良さげに見える。
「バルーガ」
「はい」
うっかり敬語で返してしまった一級騎士に、冷えた視線を送る。
「現時点で最も注意すべき部分、僕は背鰭だと思う」
君の意見は?と、目で語りかける。
「……け、……毛のように細くて軟らかく見えるけどよ、あれって鋼鉄だよな?」
「掠ったが最後、傷は深く、血だらけになるだろう」
「おい。そこまで言わなくても」
バルーガは冷や汗を掻きながら、幼馴染みの様子をちらっと伺った。