大切にする意味(5)
「何を作ったんですか?」
オリキスの借家に着いて早々、汚れた食器と調理器具でめちゃくちゃになってる台所の流し台を見て指差した。器に付着している残骸が失敗を物語っている。
「君に頼っていたツケだよ」
「…………」
不器用さに呆れ返る声を受けてエリカは口を開いたが、言葉を飲み込んで口を閉ざす。
(「私が来なかったせい」って言うのは傲慢だ……)
彼の正式な恋人ではない。家族でもない。
「茶を淹れる。適当に座ってくれ」
握っていた手が離れ、心ごと温度も離されたように感じて寂しさを覚える。エリカは落ち込み、黙って椅子に座った。
「!ぅッ……、」
緊張がほどけ、忘れていた背中の痛みが甦り、表情を歪める。
事情を知らないオリキスは小さな呻き声に驚き、振り返ってエリカに近付くとテーブルに左手を着け、顔を覗き込むように屈んで窺った。
「何処か、調子が悪いのかい?」
「テーブルの端に、背中、ぶつけられちゃって……」
「!!、誰に?」
エリカはデノに押し倒されたこと、怖くなって逃げたことを話した。
「世話をかけてごめんなさい」
「……君が謝ることではないよ」
「でも、私最低だから、オリキスさんとまた話せるのが嬉しくて、こんな状況なのにホッとしてるんです……」
心の内側を素直に吐き出したエリカは暗い顔をして俯いた。
オリキスは、彼女が此処に来てもずっと悲しそうに落ち込んでいる原因は自分が冷たくあしらったせいで、デノがしたことは別だとわかる。
「…………」
返す言葉に詰まる。日が経ってまともに再会したとき、彼女が何事もなかったように笑って「酷いですよ」と文句を言い、友達と遊ぶの楽しかったです、なんて、嬉しそうに話してくれることを願っていたのに。
裏目に出てしまった。
オリキスは台所へ行き、夕方が来る前に作り置きしておいた茶をカップに淹れてテーブルの上に置く。
「……私、人から恋愛感情を向けられること、気にしてなかったんです。自然に諦めて貰えるのを待ってればいいと思ってました」
「彼はよそ者に君を盗られて、我慢できなかったのだろう。僕ではなく同じ島民であれば、諦めがついていたかもしれないね」
エリカは顔を上げ、左斜め前に置いてある椅子へ座るオリキスに向かって首を左右に振り、目と目を合わす。
「よそ者なんて言い方、好きじゃありません。オリキスさんは私にとっては希望の存在で、優しくて、頼りになる人です」
「……」
「……」
言葉を受け取った側の表情に変化はない。
機嫌とりにも聞こえる余計なことを言ってしまったと、エリカは悲痛に感じる。反応の薄さに段々目を合わせのもツラくなってきた。
これ以上は此処に居ても、空回りするだけ。
一人になって泣けばいい。
エリカは繕った笑みを浮かべる。
「話を聞いてくれて有難うございました。お茶、淹れてくれたのにごめんなさい。帰りますね」
デノを煽ったせいでこんなに目に遭った。背中が痛むのも自業自得だ、同情の余地はない。エリカは立ち上がった。
「…………オリキスさん……」
涙がテーブルの上にぽとぽと落ちる。
繕い切れず俯き、瞼を閉じた。
「お願い。私のこと、嫌わないで……」
体の痛みより、心のほうがずっと痛い。
オリキスは眼鏡を外してテーブルの上に置くと立ち上がり、エリカの左側へ移動。彼女の背中に、そっと右の手のひらを当てる。
「痛いです」
*
エリカは鎮痛剤を出されて飲んだあと、用意してくれた服に着替えてベッドの上に横たわった。オリキスの匂いに包まれ、目を細める。
嫌いではないとも、好きとも言われなかった。何を思われているのか想像は難しいが、「帰らなくていい」というたった一言に含まれた優しさだけで救われた気持ちになった。
「湿布薬を持ってきた。うつ伏せになってくれ」
薄いカーテンから差し込む月明かりが、寝室の照明代わり。
オリキスは薄掛けの布団をエリカの腰の辺りまでかけると、ぶつけられた部分を見るために、上着を捲って貰った。
(薄紫色になっている。出発の日を遅らせよう)
患部に湿布を貼る。
「ゔ、冷たい」
エリカは肩をぞわっと震わせた。
「僕はソファで眠るつもりでいるけど、君はどうして欲しい?」
穏やかな声は、希望を叶えると言う。
見上げたら、彼は小さな微笑みを降らしてくれた。
エリカは上着を直して体を横向きにし、顔の前で摘むようにシーツを握る。
「……此処に居てください」
「いいよ」
オリキスは靴を脱いで布団を捲り、なかに入って向かい合わせになる。
「泊まるように勧めた僕が言うのも何だけど、こんなに近くに居て怖くないか?」
「反対に守られてる気がします」
「……」
「……」
いつになく静かで温かい雰囲気を、互いに感じ取る。
オリキスのほうから、ゆっくり顔を近付けた。エリカは少し目を丸めただけで、吸い込まれるように、徐々に目を細めていく。
だが、寄せられた唇は重なる手前で止まり、額へと優しく口付けた。
エリカは、いまのは恋人にするものではない気がした。
オリキスの気持ち。
「唇に受けることを期待したのかい?」
彼はまたいつものようにそんな風に揶揄って、小さな笑みを浮かべてくれる。
「してません。唇の確率が高かったから、反射的に」
「……」
「……」
優しい目で見つめられて、言葉が途切れた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
オリキスは、エリカの後頭部に左の手のひらを当てて抱き寄せ、そこから肩に腕を回して、より近くへと上半身を引き寄せる。
いつ振りだろう?……エリカは思った。
気にしてなかったが、抱き締められることは無くなっていた。手を握ることはあっても。
この温もりが好きという幼い心を言い訳に甘えて、大切にされて嬉しく感じる自分の我が儘ぶりに、ほとほと呆れてしまう。少量の罪悪感からエリカは涙を浮かべて顔を埋め、瞼を伏せた。
(…………流されてもいいと思ってしまった)
自暴自棄で、それでもいいかと過りはした。
しかし、エリカのいまの心情を考えて彼はしなかったのだ。
狡いことは、二人とも自覚していた。
鎮痛剤に含まれる眠気成分が効いてきて、エリカは寝息を立てて眠る。