02:新しい鳥籠
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冷たく澄んだ空気が、仰向けになっている顔の表面に触れてくる。だが、それは今日に始まったものではない。眠っていた本人が知らないだけ。
(……甘い、……匂い……)
エリカは摘みたての花の香りに導かれて、ゆっくり瞼を開けた。寝惚け眼の状態から抜けようと、掛け布団からごそごそと右手を出して目を擦る。
「おはようございます」
「!」
声をかけられたエリカは一瞬びくっと慄き、声がした方向から離れようと、急いで後退した。
「……あなた、誰……?」
挨拶されるまで、真横に人が居ることに気付けなかった。
大きなベッドの横に立って気配を消していたのは、少年のような顔立ちの青年。見た目が童顔なだけで、実年齢はエリカより上だ。
彼は、黄色の小花たちを丸っこい花瓶に生けてサイドテーブルの上を飾ると、改めてエリカのほうへ前身を向けた。
榛色の短髪、宝石の翠玉を嵌め込んだような目。
名前は知らないが、エリカはこの顔に見覚えがある気がした。
青年は口元に小さな笑みを浮かべ、優しい声で訊ねる。
「此処は何処か、わかりますか?」
「アイネス?」
「不正解です」
「だけど私、彼処に居て……殺されかけて……」
エリカは沈むように、ゆっくり記憶を辿った。
両親がアンシュタット一族を一度壊滅させたのが原因でカロルの怒りを買っていたことを、直接告げられたのは覚えている。ミヤに見捨てられたことも。
気持ちが塞ぐ悪い記憶ばかり、脳裏に蘇ってくる。
「ククリの影響で、記憶が曖昧なのでしょう」
「……何?ククリって」
「想いが結び合った二糸が受ける、世界の呪いの一つです。
片方の一糸は、相手の存在を記憶から抹消され、二度と巡り会うことも思い出すことも叶いません。最悪、どちらかが身を消滅させてしまう危険性も併せ、締め括りからククリと言われています」
「……。何かが欠けている感じは、全然ありません」
「あなたはそうでも、証拠として指に楔模様が刻まれています。ご確認ください」
片手の薬指を見ると、不気味な黒い楔模様が、指輪のように刻印されてある。
「私の名前はエン。国王に仕えている従者です」
「……私は……。…………」
手痛い目に遭ってきた彼女は、迂闊に名前を明かしていいのか戸惑った。世界の呪いを受けてるのがバレてる時点で既に不利なのに、教えたら、さらに状況が悪くなってしまう。
「エリカ様、ですよね?」
「!」
「ロアナの建国パーティーで、あなたの姿を拝見しました」
「…………此処は?」
「シュノーブの首都クォン•タユ。あなたがいらっしゃる部屋は、王城の客室です」
「なぜ、シュノーブに?」
「あなたがクリストュル様と契約した、アルデバランの娘だからでしょう」
(クリストュル……?)
「サラ様を呼んできますね」
エンが退室してドアを閉めたあと、エリカは室内をじっくり見渡した。
主な出入り口は、たった一つ。
窓から脱出するのは可能か調べるため、掛け布団を剥ぎ、ベッドの上で四つん這いになって床を見下ろす。
(あった)
彼女はベッドの端に一度座ってから床に着地し、室内履きに足を通した。ワンピース風の寝装着のまま窓辺に近付き、カーテンを開けて外の景色を見る。
雪が積もった城壁。そのずっと奥には険しそうな雪山がそびえ立つ。眼下では、ぼた雪を降らす薄暗い空の下、巡回している騎士たちの姿があった。
(下を歩いてる人の声が聴こえてこない。此処が高所だから?)
飛び降りるのは絶対に無理だとわかる高さ。窓は開閉できるか目視で探したが、
(………………無い)
逃げるのが困難そうな部屋だと理解した矢先、
「!」
サラが突然ドアを開けて、部屋に入ってきた。振り返ったエリカに向ける視線は冷たい。
「久し振りだな」
「?会った記憶……」
「ロアナのパーティー会場。テラスで会った男、覚えてるか?」
エリカは深く考え込んで記憶を辿ってみた。
「!あのときの。十二糸を嫌っていた……」
「再会を喜ぶつもりはない。覚醒したのか教えろ」
「何の話?」
サラは足早にエリカに近付くと胸ぐらを掴んで引き寄せ、至近距離から睨み付ける。
「オレの兄貴は危険を顧みずに、島の外へわざわざおまえを連れ出した。糸を切るためのチカラは解放できたか訊いてる」
「ッ、意味わからない」
「はあ?」
エリカは右手で、サラの手を掴み返した。
「私は両親の行方を探すために旅立ったの。覚醒なんて知らない」
「翼竜は娘であるおまえに世界のチカラを封じ込めたって記録を残したんだぞ?冗談も大概にしろよ」
胸ぐらを掴む手に、強い力が加わる。
体を僅かに持ち上げられたエリカは爪先立ちになり、苦しさから表情を歪めた。
「あなたは、……ッ、糸を切って、何がしたいの?」
サラは不敵な笑みを浮かべる。
「おまえの言う『幸せ』ってやつが欲しいだけさ。オレとリラの糸を切れば、家に帰してやるよ」
「ぅッ……」
「だが、その前に、兄貴に謁見して貰う」
(お兄……、さん?)
「つっても、寝装着姿で会わせるわけにはいかねぇ。着替えるのが嫌なら手伝ってやろうか?」
「!!」
冗談を真に受けたエリカは女として危機感を覚え、声を振り絞る。
「嫌ッ……、変態!!」
「な、」
人生初。変態呼ばわりされたサラはギョッとした表情になり、胸ぐらからパッと手を離して後ろに二歩退がった。
エリカはゲホゲホと咳き込み、隙を狙って逃げようと走り出す。
「おい!!待ちやがれ!!」
サラは咄嗟に、彼女の左手首を掴んだ。
「きゃぁあああ!!」
「!?」客室へ戻る途中だったエンは悲鳴を聞き付け、走ってエリカのもとへ駆け付けた。
「!良い所に来た、エン。手を貸せ。この女……、」
誰が問題を起こしたか一目瞭然。
エンはズボンのポケットに手を入れ、閉じてある扇子を振り翳すと、問答無用とばかりにサラの頭を強めにしばく。その拍子に、エリカの手首を掴んでいた手が離れた。
何事かと思ってあとから駆け付けたほかの騎士たちは客室の出入り口を塞ぐように集まり、何だ何だと室内の様子を見物。
エンはエリカの隣りに立ち、寄り添う。
「お怪我はございませんか?」
「……ッ……はい」
叩かれた部分を片手で押さえてるサラは大きな声で、
「心配する相手を間違えてんじゃねぇよ!!」
と、怒鳴った。
エンは見下すような目でサラの顔を見る。
「エリカ様がいつ、サラ様のお客様になりましたか?」
「兄貴のってんだろ。くそ!!」
エンは胡散臭く、にこっと笑う。
「物分かりが早くて助かります。
エリカ様」
「!」彼女は、びくっと肩を跳ねらせる。
「我がシュノーブの主クリストュル様が、あなたをお待ちになってます。目覚めて間もないところ申し訳ございませんが、どうか話を聞いてください」
「…………」
エリカは、悔しそうに睨み付けてくるサラの顔を見た。
(じゃあ、この人が……。例の弟……)