00:プロローグ
ある者は神聖と崇め、ある者は災厄の運び人として畏れている水鳥の姿を床に描いた石造りの広間。中央に立っている彼女は、らしくない悪意に満ちた不敵な笑みを浮かべ、卑しくも艶のある声音を発する。
「貴様の力量、見せて貰った。悪くない」
正面を向いて忌々しそうに視線を送ってくる彼を高く評価した。
女の声はエリカ本人だが、意識は別人。それをわかっている男魔法騎士のオリキスは一見冷静な態度を取りながら、怒気を含んだ瞳を向けて言う。
「契約に来た」
彼女は顔を右へ傾け、小馬鹿にした目でオリキスを見ながら、囲うように歩く。
「詳細を聞いてもいないのに殊勝なことね。さすが、ヤシュ家の子かしら」
オリキスは黒く淀んだ感情を爆発させないよう、拳に変えて堪える。すべては望みを叶えるため、我慢しなければと。
彼女は前に回り込んで足を止め、背中の後ろで手を組むと前屈みになり、上目遣いで愉しそうにオリキスの顔を見上げた。
「事実でしょう?坊や」
*****
時は創世、八百五十二年、春季のふたみ月。
地図の右下に記されているイ国の海に浮かぶ一艘の小舟は、離島バーカーウェンを目指していた。
案内役は、こんがり日焼けした筋肉隆々の体で、重いオールを楽々と動かす中年男。乗客は、これから向かう南国では珍しい、色白の青年が二人。
「バルーガは、バーカーウェンの歴史を覚えているかい?」
目的地に背を向けて舟の端に座っている容姿端麗の青年は、とんがり帽子の広い鍔の下から眼鏡のレンズを通して真っ黒な瞳を覗かせ、向かい側に座っている、武骨な輪郭をした四角いじゃがいも顔の青年に質問した。
名前を呼ばれたバルーガは肩を竦ませ、朝飯前だと言わんばかりに答える。
「星が誕生して世界は創られ、バーカーウェンを中心に海は広がり、種は落ちて隆起した所が大陸になった。生きとし生ける者の、楽園の始まり。本土のガキんちょも知ってる昔話じゃん」
この世に産み落とされた者なら、幼少期に一度は通る恒例のお話。エルフも妖精も例外ではない。
とんがり帽子の青年は波が穏やかなターコイズブルーの水面に視線を配りながら、出発前に読んできた絵本の内容について触れる。
「だが、いつまでも平穏な日々が続くことは無かった。その後、五百年余り経ち、世のなかは謎の干ばつに晒されて大飢饉に陥った」
バルーガは皮肉を込めて、はははッ!と軽く笑い飛ばす。
「あれが起きなけりゃ、水鳥信仰は誕生しなかったと思うぜ」
「確かに。
…………ん?」
二人の青年は、異変に気付く。案内役の男が急に手を止めたのが原因で、ぐんぐん進んでいた舟の速度が落ちていった。
何やら様子が変だと思ったバルーガは口に左手を添え、声を大きめにして案内役の男に話しかけた。
「おーい、おっちゃん!急がねぇと日が暮れち……、まう、?」
時、既に遅し。
案内役の男はオールを力強く握り、険しい表情で二人のほうへ振り向き、口を大きく開いた。
「こんの不良が!神聖な言い伝えを馬鹿にするでないわっっ!!」
放たれた怒声に、二人の肩がビクゥッ!と跳ねる。
番犬の如く殺気立った様子にバルーガは腰を抜かし、苦笑いを浮かべて謝罪した。
「…………はは……は……。す、すまねぇ。失言だったわ、おっちゃん」
「島の外へ出たガキはこれだから……ブツブツ」
「よろしければ、話の続きをお聞かせくださいませんか?」
とんがり帽子を被った青年から紳士的に請われた案内役の男は怒りを鎮め、バーカーウェンがある方角へ顔の向きを戻し、ゴッホンと一つ咳払いをして再びオールを動かす。
「この世の終焉に怯えた人々が天に祈りを捧げて数日後、奇跡は訪れた。いつ現れたのか、謎に包まれた少女が困り果てている皆の前に立ち、空に向かって両手を高く掲げると雨が降った。
瞬く間に、植物は生き返り、大地が緑で染まると、少女は何者か口にせず水鳥へと姿を変え、空の向こうへ飛び去っていったので、あーる」
(んな語尾で書いてねーぞ)
「人々は彼女を崇めるようになった。『水鳥の巫女』と。……
ふふふ、どうだ。素晴らしいだろっ?なっ?」
「はい」
誇らしく感慨深げに伝説を語った案内役の半端ない信仰心にバルーガは付いて行けず、やれやれと呆れ顔。
とんがり帽子の青年は、薄い笑みを浮かべる。
「島に足を踏み入れたことがある酔狂な者はどれだけ存在するのか、イに留まってじっくり調査してみたいものだよ」
「…………オリキス」
「何だい?」
「おまえって酔狂だよな」
オリキスと呼ばれた青年は、イ国の港町で乗船を希望する者がほかにいなかった奇妙な出来事を思い出す。
バルーガは海の色が透き通って砂底が見え始めたのを目にし、段々近付いてきた入り江を視界に入れる。
「舟の通り道が海に現れる日は年に一度限り。それもいつなのか予測不可能。普段は島の周辺以外、人を見つけては襲う水霊だの、舟を丸飲みしちまう巨大な魚がわんさか泳いでいて近付けやしない海域だ。オレでさえぞっとするのに、冷静でいられるおまえに感心するよ」
水霊は人のオーラを察知して海に引き摺り込み、魂を喰らう習性を持った悪質な幽体。聖属性の強力な攻撃でしか追い払えない。彼らを退けて本土か島に辿り着けた者は一人も居らず、襲われたら海の藻屑と化して消えるのみ。
仮に、水霊の手を掻い潜れたところで、バーカーウェン周辺の海域は通称『死の海域』と呼ばれる不吉な場所。海水の色がエメラルドグリーンに見える境界線へは、船乗りですら近寄らない。高額で取引される海の幸目当てに軽い気持ちで釣り針を垂らしたのが原因で巨大な魚に引っ張られ、竿ごと体を持って行かれた者が多いことで有名だからだ。
「あんたらは幸運だったな。水鳥様のご加護があるに違いない」
「いや、おっちゃん、さっきまでオレのこと馬鹿もん呼ばわりしてたよな?」
「はっはっはっ!」
本当に幸運だった。
港に着いてその翌日が、年に一度の日だったのだ。
オリキスは、まるで期待通りの何かが待ち侘びているような予感がしていた。