幸せはすぐそこにある温もり
数か月後。
亮環と幽花はグンドラ帝国ジョウゼフル州、州都リーファ――かつて如寧国の都であった黎按に来た。祥より北にあるこの地の冬は今でも厳しく、二人がこの地に来た時にはすでに雪が降り積もっている時分だった。
本来ならば車で来るべきところであるが、常夏の都、衛陽の人夫からは雪深さを嫌がられ、街の小さな商家では車は高すぎ、せいぜい一頭の馬を買うくらいしかできなかった。二人乗りでも良かったが、ある事情により一人で幽花は馬に乗せてもらい、亮環に手綱を引いてもらっている。
秋先に絞りはじめる如寧酒を仕入れるにはすでに遅い時分。しかし、どうしてこの時期にそこに向かいたかった亮環は、医者の許可を得て幽花とともにこの地に来ていた。
「ここが宮殿の跡だ」
騎乗したまま今は何もないただの平らな土地を見回した幽花はここが自分の生家なんだと、亡き父母に想いをはせた。
かつての国の中心だった面影はすでになく、その広い土地を囲むように家が立ち並んでいる。しかし、そのなにもないところが異様さを際立たせていた。
幽花は亮環の手を借りて馬から降り、そこを見回す。
「俺もすでに一線から退いている身だから詳しいことは知らないが、ここの話を聞くたびにだれかの想いでも残っているんじゃないかって思うんだよな」
亮環の言葉に幽花は頷く。
自分の父親が主だった宮殿。その跡になにも建築させない人々。だれの想いで、どんな想いで建築しないのかはわからないが、わずかでもいい。如寧国への想いがそこに込められていると信じたい。
言葉にはしなかったが、感じる肌の温もりがそれをしっかりと伝えていた。
「おや、こんな季節には珍しい旅人さんたちだね」
二人そろってしばらく無言で平らな土地を見ていると、突然、背後から声を掛けられた。振り向くと、そこには黒髪の柔らかそうな面立ちの女性が立っていた。
「寒いだろう? うちで暖まっていきな」
そう提案する女性の提案に最初、あまり正体に気付かれたくなかった亮環は断ろうとしたが、幽花の状態を女性に指摘されたため、しぶしぶ申し出を受けることにした。
彼女の家は跡地からほど近かった。伝統的な石造りのその家に着くと、中には彼女の夫と十くらいの女児が突然の二人の来訪を歓迎してくれた。
幽花たちに座っているように促し夫人は女児を連れて奥に行く。隣に座った亮環は家の主人と天候の話や如寧酒の話で盛り上がっていたが、幽花には難しすぎてその会話に加わることはできず窓辺を見ていると、小さな絵が飾られていることに気づいた。
その絵の中心には赤子を抱いたいかにも高貴そうな夫婦と二人の男児、一人の女児が座っている状態で描かれており、脇には黒髪の文官らしい男と赤毛の男が立って描かれていた。
名前もなにも彼らの身分を示すものも書かれていなかったが、それが幽花の両親や兄たちと姉であり、文官の男はわからないものの、もう一人の赤毛の武人が亮環であることは明らかだった。
触れれば消えてしまいそうなその絵に幽花は触れることができず、伸ばしかけた手は止まってしまった。
「如寧国の最後の王様一家と丞相様、無憂将軍様の絵を気に入ったんかい」
幽花が眺めているうちに夫人が戻って来たみたいで、卓に茶器を並べていた。それは自分だとも言えず、曖昧に頷いてしまったが夫人は満足そうだった。
「もうすっごく昔のように感じるねぇ。いまだにあのお方たちが生きていらっしゃるんなら、ここで暮らしてほしいってみんな願っているんだよ。住む場所だって空けてあるんだし、この地名だってお嬢様、麗花様のグンドラ語読みで“リーファ”っていうんだ。ほら、伝説があるだろ?」
夫人の言葉に目を瞬かせる。末の娘さんの事ですか?と恐る恐る問い返すと、そうそうと頷く女性。
「生きてりゃお嬢さんくらいの年頃だろうねぇ。自分で言っておいてなんだけれど、ちょうどお連れさんもあの赤髪の将軍様と同じくらいだねぇ」
核心に迫ることを言ってきた彼女にどう対応すればいいのか困ってしまった幽花だが、すぐにそばにいた人物が助け舟を出してくれた。
「そうだな。それで俺ら、よく似てるって言われるもんな?」
亮環の助けに胸をなでおろした幽花はその話に合わせて頷く。その説明に納得したようで、深く問いかけるようなこともせずにそうなのかいとだけ言って、茶と菓子を勧めてきた。
二人が温かい茶と揚げ菓子をいただいたあと、夫人から二人に今晩泊まっていくところはあるのかと尋ねられた。亮環がデヴァーニャに泊まる予定だと答えると、夫妻からそろって本当かい?と驚かれてしまった。
「これから行くにしては雪深すぎやしないか? 本当に大丈夫なのかね」
主人が心配そうに亮環に尋ねた。このあたりの雪深さはかねてから幽花も気になっていたので念押しするように見るが、大丈夫だというように机の下で手をしっかり握られた。
「今しか見れないものがあるので、それを見に行こうと思ってるんです」
亮環の言葉になるほどなぁと頷く主人。今から行く場所はそれほどのところなのだと期待を強くする幽花。
夫人からはしっかり嬢ちゃんを守ってあげなよと強く背中をたたかれながら激励された亮環はその強さにむせていた。
雪がちらつく中、出立の準備をしていると、家の中から出てきた主人は二人にいつでも頼ってくれと言ってくれた。一家に礼を言った二人は今度こそ宮殿跡を出立した。
街の外に向かい歩いていくと今まで以上に人の気配がなくなったが、しばらくすると観光地らしく多くの宿が点在していた。
亮環は幽花を連れて目的の宿に入る。そこは二束三文で泊まれるような安宿ではなく、しっかりとした作りの宿であり、長距離の移動で疲れていたのか二人とも夕食を食べた後にすぐに寝入ってしまった。
翌日の朝、陽が昇る前。気配を感じた幽花が目を覚ますとすでに亮環は着替えており、店から持ってきていた巻物を読んでいた。待たせたと謝罪する彼女に巻物から目を離した亮環はもう少し眠っていてもよかったんだぞと言ったが、反対にもう大丈夫と微笑まれてしまった。寝間着のまま彼の前に座った彼女の髪を結いはじめる。幼いときからの習慣を変えることなく続けている。
朝食を食べ、しっかりと上着を着た二人は宿を出て馬を引きながら歩いていく。半刻ほど歩いた先には湖があり、二人のほかにも十人ばかりの人がそこで一点を見つめていた。
「なにこれ」
その風景を見た幽花の口からはそんな言葉しか出てこなかった。
それぐらい、圧倒されるものがそこにはあったのだ。
「幽瓏湖。お前さんの今の名前の由来でもある湖だ」
亮環の言葉に再び驚く彼女は、もう一度その湖の光景を目に焼き付けようと眺める。
湖は全体的に凍って白くなっているが、その下に見える水面は彼女の瞳と同じ深い緑色。こちらの岸から向こうの方にかけて、曲線状に氷がせり上がっていた。亮環はどういう風に思っているのか気になり彼の方を見ると、心底ほっとした表情をしていた。
「今では観光用でしかないが、かつてこの国が亡ぶ寸前まではこれが出来る時期や向きによって、次の年の農作物が豊作かどうかを占うのに使っていた。朝早く、しかも前日に気温がかなり低くならなんといけないからどうしてもお前さんには無理をさせることになったが、この時期になってしまった」
しばらくの間、二人は静かに湖面を見ているとやがて日が昇りきり、一面を覆っていた氷が消えてなくなってしまった。
「まるで天つ国へ向かう道筋がなくなってしまったみたい」
幽花の言葉に亮環は寂しそうに微笑む。彼もこの様子を見て、同じことを考えていたようだった。
「でも、私にはあなたがいるから十分。だから、今はもう考えない。天つ国にいる両親、かつての故郷。どちらも今の私には不要」
亮環にきっぱりと言う幽花。
そうか。
その言葉で迷いを断ち切ったようだった。
戻るかと彼が差し出した手を幽花はしっかりと握り、体を温めるために宿に戻るため一歩ずつ、ゆっくりと歩いて進んでいく。
翌日、州都、リーファに戻った二人は行きに上がらせてもらった家を訪ねると再び一家は亮環たちをもてなしてくれた。無事に戻った祝いと称して、夫人は例の絵を綺麗に梱包して幽花に託す。その絵を大切に持った二人は衛陽に戻った。
これからは今、この時を生きる。
二人は誓いを立てて。
死が二人を分かつまで、ともに。