急転直下
橘惟光。右近衛府の中将。そんな説明をもらった清明は眉を顰める。
(どういう繋がりだ……)
右近衛府ということは右大臣派、もしくは中立であっても右府の息がかかっている可能性が高い。あるいは左大臣側につく、その互いの意思確認の為に雛丸を動かしたのかもしれない。そう考えたとて心配が失せるわけでもない。
「清明様」
古顔の女房に呼ばれて振り向くと、昼頃雛菊に文を届けさせに走らせた文使いの少年が申し訳なさそうな顔で庭に佇んだまま清明を見つめていた。
「どうした、また返事がなかったか」
「いえ、あの」
文使いが差し出したのは清明が渡したそのままの形、淡い緑の薄様と金木犀。
「まだお帰りでないと……清明様は直接のお渡しをお望みでしたから、しばらくお帰りを待ちましたが現れませんで、仕方なしに持って帰りましたが……置いてきた方がよかったでしょうか」
不安げな少年に清明は頑丈に巻いた布の下で薄く笑う。決して安心できる笑みではないだろうが、怒るつもりもないのだ。
「いや、構わないよ。すまなかったね。そこに置いておくれ。また後で頼むよ。松枝、実丸に菓子でもおあげ」
ふたりのやり取りを見るでもなく側に控えていた女房に声をかけ、ふたりを下げさせる。
(まだ帰っていない……)
もう未の刻だ。いくらのんびり過ごしていたとしても帰ってきてもいい頃ではないか。言葉にならない不安が清明の腹の底を引っ掻き回す。こつ、こつと爪で扇を叩く。
「様子を探らせるか」
しばらくして戻ってきた女房にまた二、三言伝ると清明は簀子に置いたままの金木犀を拾い上げ、くしゃりと握りつぶした。強い香りを清明の掌に残し、金木犀はばらばらとそのまま庭に散り落ちてしまった。
「まだ雛丸が帰ってきていないと聞いたが」
左大臣・藤原義康が廂に現れた早々、そんな声が飛んできた。
「……なぜあなたが気を揉む必要がおありです、刑部卿。白拍子のひとりがいなくなったくらいで今までいらっしゃったことのない我が屋敷に」
「五日だ」
もう老年にさしかかった義康に対し、その半分も歳を重ねていないはずの清明は相手を食いちぎらんばかりの迫力で睨みつける。
「雛丸がいなくなって、今日で五日だ」
「……それが、どういたしました」
対して義康は清明に対しては恐怖に呑まれぬよう、しかし話の内容には本当に興味がなさそうに平然と答える。
「我が家に抱える白拍子がひとり行方が知れないだけのこと。下働きや家人のひとりやふたり、ふいと姿を消すなんてよくある……とまではなくとも、全くない話というわけでもございますまい」
年齢の割にしっかりとした足取りで清明が座す簀子へ歩み出る。ふらつくことのない広い歩幅はその一歩で階を二段下りる。
「……お前の愛人だったのだろう」
「いえ、囲いこそすれ愛人だなんて。便利には使いましたがそろそろ潮時だったのでしょう、探せば同じかあれ以上によく働く耳はすぐに見つかります」
つまりそこに愛などなく、あくまでも雛丸は道具なのだと。左大臣はそうはっきりと認めた。そしてきっと彼が言うとおりすぐに代わりの誰かしらは見つかるのだろう。不思議と納得できるのはこれまた年齢に似合わず義康が美丈夫であるからに他ならない。
立ち姿も美しく涼やかな目元はさぞ多くの姫君を泣かせたであろうと想像に難くない。五十を超えて皺を刻んだとしてもこの美貌だ、そういえば先日も裳着を済ませたばかりの歳若い左京大夫の姫君に誘われたとか噂を聞いた気がする。本人も女好きであることを特に隠さないのがまた。血筋がよいとそんなこともあるものかと思いこそすれ、大臣職にまで昇りつめるだけの手腕もあるのが憎らしい。
「高良卿もご自身でお持ちになればよいですのに、宮中にひとり放てば楽なものでしょう」
帝の動向を窺うことも。はっきりとは言わなかったが、まるで帝を疎むような物言いに清明はようやく笑う。とてもとても、醜い顔で。
「私ではお前のように女人を縛り付けられる器量はないよ」
「……そのお顔が無事であったなら造作もなかったことでしょう」
「顔の代わりに命が無事でなかったかもな」
笑う。そうだ、笑えることだ。自分の愚かさ。心根の醜さ。それでも不思議と帝である甥を恨む気持ちが生まれないことが自分でも不思議だった。むしろ彼に対しては。
(憐れみしか抱けない)
そしてその気持ちはきっと。
「雛菊も私を憐れんでいたのだろう」
その名前に義康の指先がぴくりと反応する。
「左大臣」
「……はい」
「私が彼女を見つけることが出来たなら、連れて帰ってもよいね」
それは拒絶を許さぬ問いかけ。義康自身が雛丸は道具で、なくなったならそれでいいと言い切ったのだ。
「どうぞ、ご随意に」
その答えに清明はひとまず満足した風に立ち上がると、それから、ともうひとつ付け加えた。
「どうか主上の支えとなり、よき世の為に働かれよ。彼は……弱い」
帝に対してあるまじき、けれど身内として素直な評価を言い残し、清明は一条藤原邸を後にした。その背を首を垂れて見送る初老の男の姿は見ようとはせずに。