ふたり菊花
吉野実朝が病を理由に参議の位を返上したのはそれから十日後のことだった。
(せっかく宰相と呼ばれるまでになったのに、終わりはあっさりしたものね)
娘も華やかな生活に手が届くところだっただろうに、すっかりと落ちぶれて。今頃不幸を嘆いているのか、それとも……。そんなことを考え、ふるりと気だるげに頭を振る。
(わたしには関係ないわ)
もたれていた柱からゆるりと背を離し、雛丸は無造作に置かれた文箱に手を伸ばす。その蓋を取れば、中には枯れかけた菊の花弁が散らばっていた。高良清明から初めて贈られた花だ。
(……汚い)
なるほどこんな菊の花であれば自分に似合いかもしれない。薄茶にあせた花弁をひとつ摘み、ふう、とひと息に吹き飛ばす。
きっと受け取ったのが正しく姫であったなら、女房に言いつけて綺麗なままに飾られて、こんな風に醜くなる前にそっと視界から取り払われるのだろう。かわいそうな菊の花。――かわいそうな、刑部卿。
(でもあの顔じゃあね、ご自分でも仰っていたけれど、いくら良いご身分でも結婚は難しいわよね)
布の隙間から見える肌は肌ではなく、硬く汚い色をしていた。目はぎょろりと身体の裏側まで見透かされそうで気持ちが悪い。何度か触れた唇も、柔らかさなどなく皺くちゃの老人のようで最初はちっとも気分はよくなかった。どうして慣れてしまったものか……愛おしくすら、思うようになってしまったのか。自分でも不思議でならない。
「かわいそうな菊花の君」
ぽろりと口から言葉が漏れたことに気付きもせず、雛丸は枯れた菊を文箱の蓋にひっくり返し、そのまま廂に出て美しい庭の片隅に捨ててやる。
(この菊は、わたし。と、あの人)
そこへ足音が聞こえてくる。この西の屋敷には普段あまり人がいない。ごくたまに来客が来た時に明け渡すが、そうでなければ。
「旦那様がお呼びよ、白拍子」
仕事が舞い込んでくるくらいだ。
「橘中将の宴に?」
左大臣邸から戻ってきた文使いが返事を持たずに返ってきた理由を問うと、そんな答えが返ってきた。
「ええ、はい。橘中将のところで宴があるからそちらに呼ばれたと」
橘中将はどんな男だったか、すぐに思い出せないとい事はそれほど目立つ男でもないのかもしれない。とはいえ中将という地位にあるからには出来る男なのだろう。仕事か、それとも人間関係の構築か。
(……仕事か)
それがどちらを意味するものかはわからないが、どちらにしろ面白くないのは確かだ。雛丸が来ない。しかも他の男と褥を共にする(かもしれない)というのだ、雛丸は別段清明の恋人というわけでもないのだろうが、何度も夜を過ごした相手に情が生まれるのは確かだ。
「気にくわないな」
口元に持ってきた扇の先をく、と齧る。
「藤原成友に橘中将のことを聞いて来てもらえるかい。……いや、ちょっとした好奇心だ」
言いつけられた文使いは再び一条の高良邸を飛び出した。どこを遊び歩いているかわからない成友の姿を探すべく、都を一晩走り回る覚悟を拳に握ると、七割の力で走り出した。