噂
いつもより少しだけ長めのエピソードです。少しだけ。
「聞いたか、吉野宰相が病に伏されてしまったんだと」
ある日、ほぼ毎日のように清明の屋敷にしょっちゅう出入りする物好きな藤原成友がそんな話を持ってきた。
「――いや、初耳だ。というか君以外に宮中のことをわざわざ話しに来てくれるような頭のおかしい者は実のところそうは多くなくてね」
「ははっ、またそんなことを。《耳》ならいくらでもいるのだろう」
あっさり笑ってのける成友に、清明も布を巻いた口元をニヤリと歪める。
「さすが藤原亮は目ざとい――いや、耳ざとい、かな。父上もさぞやご子息の仕事ぶりが誇らしいことだろう。末は納言……大納言、かな」
厭らしく返ってきた清明の言葉に成友はうんざりした顔で唸った。
「ひどい嫌味だ。この年でようやくお飾りの左京亮になった俺を誰が誇れるものだろうな。まして仕事なんてとんでもない、最低限だけやっときゃあ他の誰かが上手いこと尻を拭ってくれるんだから楽なもんだがな」
この成友という男、父も祖父も二代に渡り中納言の位を頂き、母は前の中宮大夫の中の君と家柄は悪くないはずなのに、どこから血をもらってきたのかと揶揄される程に、とかく仕事というものに向いていない。たまに気まぐれで参内するものの、後はとにかく遠乗りだの狩りだのと遊んでばかりで周囲の評価はことごとく低い。それが十六やそこらの若造ならともかく、これで二十三にもなるなりだけは立派な男なのだから、父親の藤原成平もすっかり匙を投げ、不本意ながら弟達の教育に努めていると聞く。
「それで、宰相がどうしたって?」
清明が話を戻すと、「ああ、」と成友は大きな背丈を少し丸め、同じほど大きな声もほんの少しだけ抑え気味に話しだす。
「先日お前のところで菊の節句の宴があったろう、その半月後くらいか、それまでぴんぴんしてた宰相が急に寝所から出てこなくなり、様子を見に行った女房の言う事にはすっかりと肌も髪も真っ白になった宰相がうつろな目で泣き言とも恨み言ともわからぬ言葉を呟き続けていたとかで」
「……それは病に伏したと言うより気が触れたと言うのでは」
「その辺は、まあ、世間体ってやつでさ」
そうは言ったところでここまで事細かに第三者が知っている時点で世間体も何もないのだが、貴族の面目というやつであろう。難儀なものだと清明は少しだけ吉野実朝を哀れだと思った。
「まあそんなわけだが薬師も祈祷も拒否しているとかでさてどうするおつもりなのだろうと心配しているやつからこのまま参議の席がひとつ空くならばと走り回っている者も少なくはないようだが」
「君は推薦されなかったのかい」
「茶化すな、とんでもない。……ただ、まあ少し右大臣側の周辺がいささか慌ただしい様子なのが目立つんだよな。機に乗じて右大臣派のやつを……今なら蔵人頭の源貞光あたりが参議に上がるに妥当なんだろうが、……それだけじゃなさそう、なんだよなあ」
政治にはとんと疎い成友だが、どこか勘がいい。真っ当な血筋らしく嗅覚が優れているとでもいうのだろうか、しかしそれを裏付ける知恵や経験が足りていないものだから、不安になるとはこうして清明の元へやってくるのだ。御す主のいなくなった馬のような瞳で清明を見つめる成友だが、その木綿の布に巻かれた表情は何を考えているかさっぱりわからない。それが少し恐ろしい、と、思う。
高良清明という男はそも今上帝の叔父にあたる。前の帝の異母弟である清明を、しかし帝は随分と邪険に扱っていることは有名な話だ。元々清明は見目もよく、芸事にも通じ頭もよい。昔から確かに少し変わり者ではあったが女官や女房達からの評判も良く、欠点らしい欠点もない嫌味なまでの美丈夫であった。
己の身近にそんな完璧な存在がいて心穏やかにいられる者はそう多くないだろう。まして同じ年頃であれば意識もする――当時は東宮であったが、彼もまた近い身内の存在を疎み、事あるごとに嫌がらせをしていたという。それを気に病んで寺にでも引き籠れば全ては丸く収まっただろうに、この清明という男はさっぱりとへこたれず、さりとて復讐をするほど甥を恨むでもなく飄々と変わらず、しかしなるべく東宮とは距離を置いて過ごしていた。
しかしとうとう東宮は、清明を『東宮の命と地位を狙い、そしていつか帝に成り替わろうとしている』などと有らぬ噂話を振り撒き始める。もちろんそんなことを信じる者の方が少なかったが、噂が回っていると言うだけで宮中ではその存在を疎まれる。それすら気にもしなかった清明だが、とうとう面倒臭くなったのだとは後に成友に自分で語った言葉である。そんな考えは一切ない、東宮も帝も、自分はなりたいとも思わないと、それを証明するのに何故か清明がとった行動が――
「その、布」
「ん?」
苦々しげに成友は清明の顔を見つめる。正確には、顔に巻かれた布を。
「外せないのか」
「外せばおぞましい姿を晒すことになる。さすがのわたしも分別というものはあるさ」
何でもないことのようにさらりと清明は答える。
「治らないのか、と聞いているんだ」
己が顔に火をかける、頭のおかしな男は都を統べる器に非ずと笑って炎に包まれていた清明を助けたのは、当時十七、左馬寮に勤め出したばかりの成友だった。
「……治らぬよ」
そのひとことは宮廷の片隅、互いに必要とされないまま拠り所のないまま放り込まれた世界の中、ようやく見つけ、深めていった立場の違う同士との、友情の形すらも元には戻ることはないだろうと言外に突き放すようで、成友の腹の底をぎりりと絞りあげた。
成友はひとつ目を伏せ、は、と息を吐く。
「とにかく」
意識を現在のことに無理やり戻し。
「宰相が臥せる前にお前の宴に来ていたことは事実だ。何か変な噂に巻き込まれるかもしれんが、俺はお前を信じているからな」
形は変わったと言え貴重な友人の不器用な言葉に、清明はそうとわからぬ程度の優しい笑みを浮かべた。
「ああ、そうしてくれ」