早朝
まだ空は暗い。が、遠くに飯炊きの音が聞こえてくる。さすがに匂いまでは流れてこないが雛丸の腹の虫を起こすには十分だった。
「……腹が減ったかい」
それも仕方がないかもね、と笑う声が頭上から聞こえる。押さえつけられるような腕の中でもぞもぞと寝返りをうつと、屋敷の主である清明が雛丸を見つめて笑っていた。さすがに一晩あれだけ激しく動いた後だ、顔に巻かれた布がずれて変色した肌が露わになっている。けれど雛丸はもうそれを厭うことはなかった。
この一カ月ほど、ほぼ毎日のように顔を合わせ、肌を合わせているのだ。もうほとんど気にすらしなくなっていた。むしろやんわりと手を伸ばして解けた布の端を結び直してやるほどになっていた。
「ありがとう」
薄く笑うその表情は少し引き攣っている。それは清明の癖のようなもの。嫌味ったらしい、と思ったのも最初だけで、そんな表情になるのは火傷の後遺症なのだと気付けば不思議と愛おしいとすら感じる。
「……気になさらないでください」
しかし雛丸はつんとした声音でそれだけ答えるとさっさと腕から抜け出して身支度を始める。
「今日は朝餉を食べて行ってくれるかい?」
「いえ、今日もその前に出立しようと思います」
そうか、と清明の声に寂しさが滲む。それは雛丸の気のせいで、希望かもしれないけれど。どうせいつものやりとりなのだ、いい加減に慣れるべきなのだ、互いに。
「……また文を出すよ」
「返事はしませんよ」
「わかっている」
まるで後朝の文のように。毎日雛丸を追いかけるようにやってくる文はよくそれほどに趣向の幅があるものだと驚くほどひとつとして同じ花と薄様の組み合わせはなく、風情にあふれていて趣味がいい。受け取るに後ろめたくなるほどに。だから雛丸は返歌はせずに直接文句を言いに来る。そうしてそのまま一夜を共にする。ほぼ毎日のこと。
「本当に卿は物好きでいらっしゃいますね」
「……君が言うかい」
肌蹴た単をそのままに身体を起こす清明を横目に見、腰紐をきつく結んだところで塗篭を出る。空の端が薄く明かりを取り戻しかけていた。鳥の声が耳につく。人の目に触れぬように帰るには少しのんびりしすぎただろうか。
「雛菊」
相変わらずこの男は雛丸をそんな名で呼ぶし、雛丸は対して素直に振り向くようになっていた。
「またおいで」
そうしてそんな風に雛丸を縛り付けるから。
「……あなたにお呼びいただける限りは」
慎重に、足跡を付ける。