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徒花に成る実〈こい〉  作者: 里見ヤスタカ
交差する枝葉
25/25

そして交わる

 美しい、美しくも恐ろしい瞳をした女が無造作に脱いだ狩衣を拾い、皺にならぬよう畳むのは少女の仕事だった。


「あんたもそろそろ踊るかい」


 訊かれ、目を見張った少女はふるふると首を振る。


「あた……わたしは、まだ、姐さんみたいに上手く踊れないし、それに」


 その言葉の先は言うのもおぞましい。けれど唇に引いた真っ赤な紅を存外丁寧に拭いながら女はふん、と鼻で笑う。


「上手いかどうかなんて関係ないんだよ。あたしらに求められてるのはそんなことじゃあないって、もうわかってんだろ」


 言動の荒さに対して違和感を覚えるほどに美しく手入れされている指先は、商売道具。それを少女の喉元に突き刺して女は獲物を見据える鷹のような瞳で相手をじっと見つめる。


「覚えておきな、雛丸ひなまる。もうあんたはひとりきりなんだ。自分の力で生きる術をあたしはちゃあんと教えたつもりさ。それを戸惑うんじゃない、身につけて、生き延びるんだよ」


 雛丸。その名前に少女はゆっくりと首を縦に振る。それはかつて小野侍従おののじじゅうの娘であった少女に付けられた新たな名前。父とも縁のあった遊女に拾われ、叩き込まれた舞を披露する為の名前。月明かりにも隠れ、夜の闇に紛れて歌い踊る為の、名前。


「あたしゃもうそろそろお払い箱の婆あだからね、若いのがいいんだよ」

「……姐さんは十分、きれいだよ」

「はは、でもねえ。暗がりじゃあ顔の造作よりなにより初心な反応ときめ細やかな肌が一番の媚薬さね。あたしにはもう、ないもんだしねえ」


 結った髪をやはり無造作に解いて頭を振る。目尻のしみが日ごとに大きくなるのだとぼやきながら、寝所へ向かう女の背中に、雛丸は声をかけることができなかった。


(生き、延びる)


 その先に何があるのか。生きているだけで儲けものだと笑う姉貴分のようには雛丸はまだ考えられなかった。もう薄ぼんやりとしているが、確かにもっと、幸せな事を知っている。痛い思いをしなくても、惨めな思いをしなくても幸せでいられることを知っている。

 けれど今の雛丸はそんな当たり前のような幸せは、幸せを妬む貧しい人間の手で簡単に壊れることも知ってしまったのだ。だから。


(幸せは、もう、願わない。けど、妬むことも、したくない)


 女が置いたままの手鏡を手に取り、おそるおそる自分の顔を映す。十分に熟れた、女の顔がそこにはあった。


(あたしのできることを、するしかないんだ)


 引き結んだ唇は、少女が望まなくとももう、極上の甘味と育っていた。




「清明様」


 文室邸から帰った雛菊は愛する夫の名前を呼ぶ。


「どうした雛菊。疲れたかい」


 布で焼けただれた顔を隠す男は妻を思いやる優しい言葉をかけてくる。雛菊。それがかつて雛丸と、そしてもっと以前には別の名前を持っていたはずの女の、今の名前。綺麗で、たおやかで、堂々とした風に聞こえる名前を最初は受け入れがたく思っていたはずなのに、今はその名で呼ばれることに幸せを感じていた。


「いいえ、……いいえ。わたくしも、十分に幸せなのだと。あなたの顔を見ると、思ってしまうのです」


 雛菊の言葉に、清明は一瞬目を丸くし、けれどすぐに大きな口を開けて笑う。珍しい笑い方だ、と雛菊は思う。嫌いでは、ない。


「こんな醜い顔を見て幸せだと思えるなんてね。君は本当に不思議な子だよ」

「……お互い、様です」


 過去の話をしても、「だから何だというのだ」となんでもないように流されたことを雛菊は忘れていない。あんなに壮絶だと思っていた半生が、清明の前では寝物語の一片に過ぎないのだ。


(願わないと決めていたのに)


 いざ幸せが手に入ると、もっと、もっとと願ってしまう。これ以上の幸せなんてあるはずないのに。だというのに、清明はいつだって雛菊を幸せにしてくれる。願ってもいいのだと、許してくれる。


「愛しております、清明様」

「知っているよ、雛菊」


 嬉しそうに嬉しそうに笑う清明もまた、幸せを望まずに生きてきたはずの存在で、ようやく比翼を見つけられたことを心の底から喜んでいるのだ。


「私も同じ気持ちだよ、雛菊――愛しているとも」


 指先が重なり、視線が重なり。唇が触れ合う頃にはもう、ふたりはたったひとつに溶けてしまうのだった。

これにてオマケも含め雛菊と清明たちのお話は一旦おしまい。

お付き合いありがとうございました。

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