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徒花に成る実〈こい〉  作者: 里見ヤスタカ
徒花に成る実
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残り香

 雛丸は襟元を整えながらそっと階に出る。丸い月が庭に敷かれた小石の形の違いすらわかるほどに明るく照らしているから、灯りがなくとも歩き回ることはできそうだ。くしゃくしゃに乱れた髪を手櫛で乱暴に漉きながら庭を横切って敷地を出ていく。門番には怪訝な目で見られたがいつものことだ。人差し指をひとつ立て、軽く尖らせた唇に添えるとそれだけで男達は顔を逸らす。簡単なものだ。


 恭しく車で運ばれるのも悪い気はしないが、こうやってひとりで夜道を歩くのが雛丸は好きだった。もちろん夜盗なんかがうろついていることもあるし、そもそも夜に女がひとり歩きをするなんてことは決して褒められた行為ではない。それでも夜の闇の中においては軽くまとめた髪に水干姿の雛丸はまるで文を届ける牛飼童に見えるはずだ。それらしい顔をして左大臣の屋敷へ入っていくが、さすがにこの時間から義康の元に行くわけにもいかない。むしろ屋敷にいない可能性の方が高い。


 雛丸は自分の寝床がある西の対屋へ渡る局へ向かいながら今夜の自分の仕事ぶりを思い返していた。右大臣家の中の君を後宮に入内させる準備がほぼ整い、あとは主上の声を待つばかりであること、その時に実朝の娘を尚侍として同時に参内させる約束を取り付けており、事実上実朝は右大臣派に寝返るということ。それら義康が欲しかった情報は面白いほどあっけなく手に入った。


(女はおしゃべりだと男は言うけれど、男達の方がよっぽど秘密を隠せないじゃない)


 特に自分の能力を過分に見せられると思った時はこちらが聞いていないことまでべらべらとしゃべりだす。今夜の実朝もそうだった。その鼻を膨らませたまるで馬のような顔を思い出すと雛丸はぷ、と遠慮もなく吹き出した。美丈夫ではなかったが愉快な顔であった。褥に寝かされた時には月明かりの入らない部屋でよかったとしみじみ思ったものだ。


(それでも)


 高良清明と寝るよりよほどましに違いない。彼と夜を共にするにはあの顔に触れるかもしれないということだ。さすがの雛丸でも勇気が必要になるだろう。そんな風に考えてしまったことに少し顔を顰めた後、誰もいない局に滑り込むように駆け込んですっかりと着物を脱ぎ捨てる。見知らぬ香の匂いが染み付いてしまった水干は明日の朝捨ててしまおう。


(そういえば高良卿の菊花の香は……)


 誰に咎められるでもないたったひとりの空間だ、裸で褥に入るとあの薫りを思い出す。鼻腔を切なく刺激したあの薫りは、どこか懐かしさすら覚えるような、胸に染み入るものだった。

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