1-1 一ノ瀬央について
上着に水が滲みる感触を感じながら、一ノ瀬央はぼんやりと思う。
”ああ、トイレの水って不味いな…”
今、央の顔は小便器の中にある。頭を上げようと何度ももがいたが、
その度に下卑た笑い声と共に頭を押し込まれる。
「なぁに顔上げてんだよ!ちゃんと舐めろや屑!」
後頭部に上履きの感触、そしてぐい、と圧力がかかる。
頭上から浴びせられる大量の水が口に流れ込み、呼吸もままならない。
喉からごぼ、と水がこぼれた。
力ずくに打ちつけられたか、頭と鼻からは鮮血が滴っており、
浴びせられる水に溶けて便器に吸い込まれていく。
「ほらほら、頑張れよう掃除当番」
「隅々まで舐めねえと綺麗にならねえだろぉ一ノ瀬くぅん」
「うわ、上履き濡れたじゃねえか、なにしてんだよ糞が!」
これがもう10分近く続けられている。
身体が酸素を求めてあえぐが、
便器から身を離すことも、頭にかかる足を払いのけることもできない。
うつ伏せに押し込まれた央の両手は背後に回され、
ネットあたりで仕入れた知識だろうか、逃れられないよう
両の親指と手首をナイロンの結束バンドで止められていた。
極限状態に長く置かれたせいか、央は失禁していた。
しかし、小便に濡れるスラックスを央は身に着けていない。下着すらも。
「連中」に剥ぎ取られたからだ。傍には刃物で切り刻まれたのか、
もはや残骸でしかないスラックスと下着が打ち捨てられている。
「うわ。こいつ小便垂れ流してやがる」
「きったねー。引くわーwマジ引くわー」
「撮っとけ撮っとけwバエるわー一ノ瀬くんw」
その中の一人、小久保達馬が央の頭に足を掛け、
捻じ込むようにしながら問うてくる。
「なあ、お前なんで生きてんの?馬鹿なの?」
嘲笑混じりの揶揄に、精一杯の反応を返す央。
「…し…、るか、く、そ…が」
「ああ?何だお前その態度はよ!!」
後頭部の圧力がさらに増す。
水に溶ける血の色が濃くなった。
央は、いじめを受けていた。
きっかけは、今となってはよく分からない。
元々、人付き合いの得意な方ではなかったし、どちらかというと気が強い性格で
他人と打ち解ける能力が人よりは劣っていたかもしれない。
それでも、挨拶をされれば返事もするし、他愛ない会話に参加し、
興味のない話でも相槌を打つ程度の社交性は持ち合わせていたはずだ。
何か目立つようなことをした覚えもないし、誰かに睨まれるような理由もない。
よく分からないまま、いつの間にか標的にされてしまっていた。
気付いた時には、このざまだ。
ここに至り、何故俺が、を問うことに意味はなくなっていた。
暴行を受け続けて3カ月。
ここまで耐えることができたのは奇跡と言って良いだろう。
殴る蹴る、頭を壁や床に打ち付けられるなどは日常茶飯事。
階段から蹴り落とされたことも一度二度ではない。
ある時は、3階にある教室の窓から”スカイダイビング”と称し、
後ろ向きに落とされた。
深い植え込みがクッションになり助かりはしたが、
10mを越える高さから叩き付けられた衝撃を完全に逃がすことはできず、
救ってくれたはずの細い灌木は、同時に鋭利な刃物と化して
央の体のあちこちを貫いていた。
痛みで身体を動かすこともままならず、脳震盪に揺れる意識で、
わずかに開くことができた視界の先に映ったのは、
「なんだよ着地してねえじゃねえか」
「下手糞」
「空気抵抗仕事しろよw」
などと罵る連中の姿だった。
連中がいる窓辺から、
何かを巻き込んだように裂けて垂れ下がる教室のカーテンが、
連中なりの”パラシュート”であったことに気付いたのは、
全身の痛みと、死ななかったことに対する安堵で意識を失う直前だった。
様々な暴行の結果、央の背中は痛覚を失った。
右手は肘から先が常に痺れていて、自由に動かすことが難しくなり
箸やペンを握る程度の作業にすら障りが生じている。
制服から素肌が覗く腕や顔には青痣・火傷、切り傷のどれかが走り
折れた鼻骨を無理に矯正したのか、鼻は右に曲がっていた。
左の薬指と小指の爪はまだ捲れたままだ。
外傷だけではない。
連中に襲われる幻視に、昼夜を問わず苛まれるようになり
睡眠不足から、現実と悪夢の境界が曖昧なまま
一日が終わることも珍しくなくなった。
いつからか味覚も失い、何を口にしても味がしなくなってからは
ただの水すら嚥下するのが苦痛になっていた。
ここまでの傷を身に受けながら、
しかし央は一度たりとも彼らに屈することはなかった。
あるいは屈したほうが楽だったかもしれない。
泣き叫び、頭を擦り付け土下座でもして許しを請えば、
奴らの嗜虐心は満たされ、ここまでの仕打ちは受けなかったかもしれないが、
冗談じゃない。
理由もなく、ただ虐げられた俺が、
何故こいつらに頭を下げて許しを請わねばならない。
それは俺の、いや、ひとの尊厳を踏みにじる行為だ。
それだけは絶対にいやだ。
だが、央の身体も心もとうに壊れていた。もう自身を支え続ける力はない。
そして、遠のく意識のなかで、央は結論を出した。
おれはよくがんばった。もうじゅうぶんだ。
おれは、もうここで、ふつうにいきていくことはできない。
だけど、あいつらにころされるのだけはいやだ。
じぶんのことは、じぶんできめる。
あいつらのすきにさせてたまるか。
だから、きょうがおわったら、
おれは、おれのてでおれのいのちをたつ。
だから、
自分たちが異世界へ引きずり込まれたことは、
明日を捨てた央にとって、どうでもいいことだった。