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絶望は何色? 絶望は赤。血の色よ。
誰が言っていただろう? 母じゃない。祖母でもない。じゃあ誰?
今そんなことを考えても意味ないのに、考えてしまうのはきっと、現実逃避したいから。
クリスティンは痛む頬に触れ、生温かい血のにおいと感触に、吐きそうになった。
「殺してはいけませんよ」
硬い床の上、クリスティンはギデオンを見上げる。ギデオンは椅子に座ったまま、クリスティンを見下ろしていた。
クリスティンに攻撃したのは、ギデオンが従えている騎士のうちのひとり。頬と腕、それから足を剣で斬られた。
と言っても、致命傷にもならないような傷だ。ギデオンの言葉通り、殺す気はないのだろう。『皇帝の薔薇』が保管されている倉庫は、クリスティンにしか開けられないから。
でもクリスティンにはわかっていた。『皇帝の薔薇』を手に入れれば、自分は殺される。倉庫の中の『薔薇』は今も、自分を守る盾なのだ。
「心配しなくとも、貴女を殺したりなどしませんよ。貴女には価値がある」
「価値……?」
クリスティンの思惑に気づいているのか、ギデオンが穏やかな声で告げる。
「今の時代、名を残していても、血を残していない方が遥かに多い。貴女の存在は貴重ですよ。私と一緒に、陛下に仕えてみませんか?」
「…………お断りよ」
「何故です? 悪い話ではないでしょう?」
「良い悪いではなく、興味がないの」
為政者に仕えるだなんて、冗談じゃない。何をやらされるかわかったもんじゃないし。
「それは残念ですねぇ。……無理強いはしたくないのですが」
ギデオンが困ったような素振りをみせているが、その表情は真冬の空のように冷めている。クリスティンが断ろうが断るまいが、ギデオンは迷わない。本人の意思など無視して、すべて決まっている。
「抵抗しない方が良いと思いますよ。間に合わないでしょうし」
杖を取り出そうとしたクリスティンだが、ギデオンに言われなくてもわかっていた。詠唱を始めれば、すぐに騎士によって妨害される。
クリスティンの戦う術はこれだけだから、打つ手はほぼない。おとなしく言うことを聞き倉庫を開けるか、それとも頑なに拒み続けるか──選択を迫られている。
渡してしまえばいいじゃない。あの人が死んだとしても、私のせいじゃないわ。いいえ、私のせいよ。自分のために、自分を守るために、別の誰かを差し出したの。でも誰だって、自分が大事でしょう? 聖人になんてなれやしない。人はいつだって、俗物なのだから。
ぐるぐると頭の中を駆け巡る思考。
そこには真実と本音が混じり合い、溶け合っている。嫌な感情だ。決して表には出せない。
「倉庫を開けてもらえますか?」
ギデオンが立ち上がり、クリスティンを見下ろす。
ふたつにひとつ──そう言ったのは間違いなく、私。
「私は────」
何を言いたかったのか、何を言おうとしたのか、何を選び何を捨てようとしたのか。
クリスティンの思考は、そこで強制的に中断される。
蹴破られた扉、鳴るドアベル、舞い込む雪と冷たい風。クリスティンの髪が揺れた。
「まるで舞台のようですねぇ。白い騎士──皇子様の登場とは」
ギデオンが笑う。ふたりの騎士が、意識を現れた人物──ユリウスへと向ける。
「まず先に、俺のところへ来るべきじゃないか?」
「貴方はいらないとおっしゃいましたので」
既に剣を抜いているユリウスだが、騎士は剣と別に、銃を持っている。
「それが彼女を傷つけた理由か? ただの言い訳に聞こえるな」
暖房で温められていた店内が、外気の温度と混じり合う。
「欲しけりゃくれてやる。けど──気が変わった。あんたにはやらない」
「それは残念です。ですが我々の目的は何ひとつとして変わらない。彼は殺しなさい。彼女は私が引き受けましょう」
立ち上がれば、こちらを振り向くギデオンと目が合った。
「関係のない人間を巻き込むのが、あんたらのやり方なのか!」
騎士が振り下ろす剣を避けながら、ユリウスが叫ぶ。
「既に彼女は関係者ですよ」
微笑むギデオンの指に光るのは、不気味な輝きを放つ黒い石の指輪。
ただの黒い尖晶石だが、見たこともないほどの大粒。
「──影──」
ブラックスピネルから生まれ落ちたのは、黒い影。
クリスティンは杖を取り出し、迎え撃つ準備は万端。
だが恐らく、いや確実に、ギデオンの方が実力も経験値も上。一瞬も油断できないのだが、クリスティンには気がかりなことがひとつある。
「店の中で暴れないでほしいのだけど」
店内はまあまあ広いのだが、クリスティンを含め、五人もいるのだ。壁や棚には質流れ品などが置いてあるし、剣を振り回されて、店の中がぐちゃぐちゃになったら困る。できれば外に出てほしい。
「私は粗暴ではありませんからね。──お前達は外に行きなさい」
「勝手に話を進め──くそっ」
連れ出されるように、ユリウスは騎士ふたりと店の外に出ていく。
「……あの人、皇帝になる気なんてないわ。なのに殺すの?」
宝石箱を開けることもせず、『不幸』だと言って拒んだ。言葉だけでは信じるに足りないが、行動も合わされば足りるだろう。
ユリウスはクリスティンに、処分を頼んだのだから。
「たとえ本人にその気がなかったとしても、周囲の人間は違うものです。陛下はそのことを恐れているのですよ」
「皇帝なのに、怖いものがあるのね」
この国で一番偉い人──それが皇帝。子どもの頃、皇帝はなんでも手に入って、なんでも思い通りになるんだろうな、と思っていた。
でも歳を重ねるごとに、そうじゃないんだと思うようになった。皇帝だから手に入らないもの、思い通りにならないこともある。
それは恐怖も同じらしい。
「彼の存在を抹消し、『薔薇』を持ち帰る。それが私の役目です。もちろん、貴女もお連れしますよ。陛下がお会いしたいそうです」
「……欲張りね」
クリスティンは笑って、杖の先を影へ向ける。
「情熱の紅玉」
ここ数日、隠してきたものをさらけ出しすぎているような気がする。
自分の立ち位置が、わからなくなりそう。
「──影──」
炎によって影が燃え尽きる前に、ギデオンが新しい影を生み出す。
「根比べでもする気なの? 情熱の紅玉」
魔法──それはなんの対価もなしに使える技ではない。術者の魔力が尽きれば、水の一滴だって生み出せやしないのだから。
曰く、魔力は体力や筋力と違い、年齢とともに低下していくものではないらしい。個人差はあるものの、ある一定の年齢に達すると魔力の成長も止まるのだとか。
クリスティンは他人と魔力の量を比べたことはないが──比べる相手もいなかった、と言うべきか。
どちらにしろ、ギデオンとの差はどの程度だろう?
「──影──影──影──」
「……倒してもきりがない」
ギデオンが次々と影を生み出すせいで、店の中が窮屈に感じる。
これだけの数いれば狙わなくても当たるのだが、そういう問題じゃない。
そろそろ、劣勢を脱しなくては。
「輝く星彩」
杖の先から生まれたのは、まぶしい光を放つ赤い炎がひとつ。
「赤の煌星!」
炎が弾け、店内を埋め尽くそうとする影を燃やし尽くしていく。影以外にも被害が及ぶかと思ったが、心配は杞憂に終わった。
炎は影にだけ命中したのだ。
「お見事ですねぇ」
場にそぐわないひとり分の拍手が、店内に響く。
「……全然驚いてないじゃない」
ギデオンは余裕だ。
それを見て思う。ひとりじゃ無理。
だってクリスティンには、人を傷つける勇気も覚悟もないのだ。杖を握りしめ、視線が窓の外へ向きそうになる。
私は無関係なの。あの人が現れなければ、ちゃんと『皇帝の薔薇』を引き取ってくれていたなら、ずっといつまでも退屈で平凡な毎日が続いていたのに。
「……ひどい人」
口からこぼれ出た本音は、ギデオンにも聞こえていた。
「ええ、ひどい人ですね、彼は。存在しているだけで、悩まされる」
「……違うわ。……そうじゃない」
『皇帝の薔薇』を処分してくれと突き放したくせに、こうして助けに来た。
ひどい人、でも多分、優しい人。
クリスティンは窓の向こうを見た。
ユリウスは戦っている。
それは自分のため、そしてクリスティンのため。
「……人は生まれを選べない。すべては神様が決めるのよ。だから彼の存在を否定しないで」
自分は甘すぎるのかもしれない。
こんな面倒極まりないこと、当事者達に押し付けてしまえばいいのに。
捨てきれない自身の甘さを受け止め、クリスティンはもうひとつの甘さを捨てる。
「あなたとちゃんと、戦うことにするわ」
クリスティンはこのときはじめて、人に向かって魔法を放った。




