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男の人──そう、この人は男の人なのだわ──。
抱きとめられたその瞬間、クリスティンはそう思った。
忘れていたわけじゃない。美しさにばかり目がいって、男性だと意識していなかっただけ。
クリスティンの冷えた頬が、急に熱を持つ。
「──堂々と昼間に来ましたよ。魔女のお嬢さん」
重低音の響きに、クリスティンの視線が影のない男へと伸びる。
黒いシルクハットに、黒い燕尾服。ご丁寧にステッキまで持っている。見た目だけなら、完璧な紳士だ。
ただ死人のように顔が青ざめていて、本来足もとにあるべき影がない。人ではない──クリスティンだけでなく、ユリウスも気づいた。
「さあ──『薔薇』を」
「ここにはないわ」
拒絶するようにそう言えば、男が困ったような顔をする。
人の形をした影を何度か見たことはあるが、人の姿をした影を見たのははじめて。
しかもこの影のない男には、感情もある。影の主人は、実力者だ。
クリスティンは、それが怖い。
「ない? それは困りましたねぇ。どこにあるのでしょう?」
「教えない」
「……ふむ。これは嫌われてしまったようですねぇ。悲しいことです」
舞台の上、大げさな芝居をする役者のようだが、どこか間抜けに見える。
ユリウスは状況がうまく飲み込めていないようだが、剣先は今も、男に向かって突きつけられていた。
今や剣よりも銃の方が普及しているが、それでも自分に向けられる刃物の鋭利さには、ひやりとくるものがある。
でも影は人じゃない。突きつけられる剣先に、ひるむ素振りさえ見せない。
「では先に、邪魔なものを消してしまいましょうか」
男が小首を傾げ、ユリウスを見る。邪魔なものはお前だ、とでも言いたげに。
そのことに気づいたらしいユリウスが、クリスティンを後ろに追いやる。
「ほらな。あれは『不幸』だ。『不幸』そのもの。──欲しけりゃくれてやる。俺はいらない」
クリスティンを背に、ユリウスがそんなことを言う。
「ものの価値がわからない人ですねぇ。ですがいただけると言うのなら、いただきましょうか」
男が嬉しそうに笑い、クリスティンは何も言わない。明らかに男は怪しいが、あの『皇帝の薔薇』の持ち主はクリスティンじゃない。ユリウスだ。
そのユリウスがくれてやると言うのなら、クリスティンが何かを言う必要はない。
ただクリスティンはわかっていた。このまま穏便に終わるはずがない、と。
だってユリウスには、皇帝の血が流れているのだ。
男がにやりと笑ったのを、クリスティンは見逃さなかった。
「『薔薇』はいただきます。が──貴方には死んでいただきますよ、ユリウス・ナイトハルト」
男が一歩踏み出し、ユリウスが警戒を強める。
クリスティンは迷っていた。ふたりの間に入るべきか、ユリウスに味方すべきか。
男が望む『皇帝の薔薇』は、クリスティンの手の中にある。男はクリスティンを傷つけたりしないだろう。自分の安全は保障されている。
だからといって、男に味方する気にはなれない。
「くれてやるって言ってんのに、それ以上を望むのは傲慢すぎやしないか?」
「人の欲には底がないものですよ。それは不安も同じこと。貴方が生きているだけで、困る方がいるのですよ」
「勝手な話だな。……俺は関わりたくもないのに」
吐き捨てるように、ユリウスが言う。
「そういう星の下に生まれてしまったが故です。諦めて──死んでください」
挨拶を告げるくらいの軽さで、死を告げる。
男がゆったりとした足取りで前へ進んだ。
影のない男は人じゃない。剣で、銃で、心臓を貫かれようとも、血の一滴も流れない。青白い顔に感情を浮かべてはいても、それは模倣。本物じゃない。
ふたりの距離が近づき、クリスティンはとっさに、ユリウスの前に出た。
「おい──!」
咎めるような声を、ユリウスが発した。
「あげるのは『薔薇』だけよ。それ以上のものは、あげられない」
「勝手なことを──」
「黙ってて。あなたじゃ勝てないんだから」
昨日会ったばかりだが、目の前で人が死ぬのは嫌。
それって普通のことでしょ? なんにもおかしくない。
「ふたつにひとつ、ということですか。それは困りましたねぇ」
男がまた、小首を傾げる。
「もしもこの人に何かしたら、『薔薇』はあげない」
『皇帝の薔薇』があるのは、この世でクリスティンにしか開けられない倉庫の中。
それはクリスティンと、ユリウスを守る盾になるだろう。甘い考えだと理解してはいても。
「『薔薇』を先にくだされば、何もしませんよ。──お嬢さん」
「押し問答をする気はないの」
冷たく強い風が、クリスティンの黒髪を揺らす。空から落ちて来た白い雪が目に入りそうになり、クリスティンはつい、目を閉じてしまった。
一瞬だった。本当に一瞬。閉じたまぶたを持ち上げれば、離れていた男が間近に移動していた。人間業ではない。
「──あ」
反応できないクリスティンを引き寄せたのは、ユリウスだった。
男が持つステッキは仕込み杖だったらしく、顔を出したのは銀色に輝く刃。
その刃を、ユリウスの剣が受け止める。
「これはこれは……早いですねぇ」
男の仕込み杖はクリスティンの急所を狙ってはいなかったが、それでも明らかに攻撃の意思があった。
「交渉は決裂だ。──いいな?」
引き寄せたクリスティンを放り出し、ユリウスが剣を両手で持ち、力を込めて押し返す。音を吸い込む銀世界に、物騒な金属音が響く。
放り出された勢いで雪に倒れこんでしまったクリスティンは、慌てて立ち上がろうとするが、ふたりの戦いを見てしまった瞬間、自分には無理だと悟った。
ふたつの黒が、銀の剣を持ち戦っている。
まるで手の届く距離で、舞台を見ているようだ。ダンスを踊っているようにも見える。
「でもあなたは……勝てないのよ」
クリスティンはわかってる。影のない男には、恐怖がない。訪れる限界も、流れる血潮もない。長期戦だと、確実にユリウスが負ける。
だから穏便にことを済ませようと思ったのに。
「中々やりますねぇ、貴方」
「お褒めいただき光栄──だ!」
響く金属音に、クリスティンは耳を塞ぎたくなる。
世界はこんなにもきれいなのに、どうして、と思う。
ずっと、退屈で平穏な日々の中を生きてきた。今年はどうかしている。──不幸。あれは不幸そのものだ。
ユリウスの言葉に、クリスティンは考えてしまう。
そうなのかしら? あんなにもきれいなのに。あんなにも特別なのに。
「そこいると邪魔だ!」
ユリウスの怒声にクリスティンが顔を上げ、見てしまう。赤い血が、白い雪を汚す瞬間を。
誰かが言っていた。絶望は何色だと思う? 絶望は赤よ。──血の色。
「しぶといですねぇ、貴方」
ユリウスは傷を負っている。
でも影のない男は無傷。ユリウスの攻撃があたっていないわけじゃない。あたっても意味がないのだ。
あれは影。闇から闇へと渡り歩き、人の後ろを付いて回るばかりの影。触れることはできない。少なくとも、人には。
「あれはくれてやる。けど、命までやるつもりはない!」
はっきりと断言し、剣を振り下ろす。男は避けることもせず受け止めてみせた。
ユリウスの汗が、血と混じり合って雪に落ちる。明らかに、ユリウスは疲れていた。
クリスティンは母と、そして祖母から譲り受けた杖を取り出し、迷う。
人前で使ってはダメよ。隠しなさい──隠すのよ。私達はもう、この世界には不必要なのだから。
幼い頃の記憶とともに、母の言葉が蘇る。優しい母。美しい母。きれいなままこの世を去った母。
母親の言いつけを、クリスティンは守ってきた。破ったことは一度もない。
その言いつけを破るの? 昨日会ったばかり、ただれだけの人のために。
白い雪を汚す赤い血を、クリスティンは見つめる。赤い血──紅玉よりも鮮やかで、柘榴石よりも濃い。
「──ママ。一度だけよ。一度だけ、言いつけを破るわ」
許しを求めるように、天を仰ぐ。昨日会ったばかりだけど、ただそれだけの人だけど、目の前で死ぬのを見ているだけより、ましでしょう?
クリスティンは立ち上がり、スカートの裾についた雪を手で払う。
「今から見ることすべて、忘れてくれる?」
「──は?!」
疲れと苛立ちのこもる声に、クリスティンは苦笑してしまう。
冷たい風が、降り積もった雪を舞いあげた。
クリスティンは手袋越しに杖を握りしめ、覚悟の意思を込めて、杖の先を男へ向ける。
「あなたはだあれ? あなたは宝石の王者」
杖の先に灯るのは、赤い炎。小さな炎が、輝きを増していく。
「魔法──」
ユリウスの口からこぼれたつぶやき。
それに応えるように、炎が意思を持ち杖から巣立つ。
「──私の情熱の紅玉──」
炎は真っ直ぐに、影のない男へ向かって駆け出す。剣も銃も、影に傷をつけることはできない。
でもこの炎なら、影を燃やし尽くすことができる。
「まだ『薔薇』をいただいていないのですが……困りましたねぇ」
燃えているというのに、男は冷静そのもの。感情が偽物だから、恐怖も感じないのだ。燃えている──自分は消えるという事実のみを、受け止めている。
「交渉は決裂。それが答えでしょ」
「……ふむ。では出直すとしましょう。またお会いしましょう、魔女のお嬢さん。そして──皇子様」
最後の一言は皮肉だ。クリスティンにもわかった。
ユリウスは顔をしかめ、燃え尽きようとする影を踏みつける。
「何が皇子だ……ばかばかしい」
手袋を外し、頬の血を雑に拭う。日焼けしていて色白ではないが、ユリウスの肌はきれいすぎる。頬の傷が、痛々しい。
クリスティンは杖を手に持ったまま、ユリウスを見た。星の海を宿した瞳と、紫色の瞳がぶつかり合う。
冷たい風が、ふたりの髪を揺らす。灰色の重たい雲から、雪は降り続けていた。




