表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

 男の人──そう、この人は男の人なのだわ──。

 抱きとめられたその瞬間、クリスティンはそう思った。

 忘れていたわけじゃない。美しさにばかり目がいって、男性だと意識していなかっただけ。

 クリスティンの冷えた頬が、急に熱を持つ。


「──堂々と昼間に来ましたよ。魔女のお嬢さん」


 重低音の響きに、クリスティンの視線が影のない男へと伸びる。

 黒いシルクハットに、黒い燕尾服。ご丁寧にステッキまで持っている。見た目だけなら、完璧な紳士だ。

 ただ死人のように顔が青ざめていて、本来足もとにあるべき影がない。人ではない──クリスティンだけでなく、ユリウスも気づいた。


「さあ──『薔薇』を」


「ここにはないわ」


 拒絶するようにそう言えば、男が困ったような顔をする。

 人の形をした影を何度か見たことはあるが、人の姿をした影を見たのははじめて。

 しかもこの影のない男には、感情もある。影の主人は、実力者だ。

 クリスティンは、それが怖い。


「ない? それは困りましたねぇ。どこにあるのでしょう?」


「教えない」


「……ふむ。これは嫌われてしまったようですねぇ。悲しいことです」


 舞台の上、大げさな芝居をする役者のようだが、どこか間抜けに見える。

 ユリウスは状況がうまく飲み込めていないようだが、剣先は今も、男に向かって突きつけられていた。

 今や剣よりも銃の方が普及しているが、それでも自分に向けられる刃物の鋭利さには、ひやりとくるものがある。

 でも影は人じゃない。突きつけられる剣先に、ひるむ素振りさえ見せない。


「では先に、邪魔なものを消してしまいましょうか」


 男が小首を傾げ、ユリウスを見る。邪魔なものはお前だ、とでも言いたげに。

 そのことに気づいたらしいユリウスが、クリスティンを後ろに追いやる。


「ほらな。あれは『不幸』だ。『不幸』そのもの。──欲しけりゃくれてやる。俺はいらない」


 クリスティンを背に、ユリウスがそんなことを言う。


「ものの価値がわからない人ですねぇ。ですがいただけると言うのなら、いただきましょうか」


 男が嬉しそうに笑い、クリスティンは何も言わない。明らかに男は怪しいが、あの『皇帝の薔薇』の持ち主はクリスティンじゃない。ユリウスだ。

 そのユリウスがくれてやると言うのなら、クリスティンが何かを言う必要はない。

 ただクリスティンはわかっていた。このまま穏便に終わるはずがない、と。

 だってユリウスには、皇帝の血が流れているのだ。

 男がにやりと笑ったのを、クリスティンは見逃さなかった。


「『薔薇』はいただきます。が──貴方には死んでいただきますよ、ユリウス・ナイトハルト」


 男が一歩踏み出し、ユリウスが警戒を強める。

 クリスティンは迷っていた。ふたりの間に入るべきか、ユリウスに味方すべきか。

 男が望む『皇帝の薔薇』は、クリスティンの手の中にある。男はクリスティンを傷つけたりしないだろう。自分の安全は保障されている。

 だからといって、男に味方する気にはなれない。


「くれてやるって言ってんのに、それ以上を望むのは傲慢すぎやしないか?」


「人の欲には底がないものですよ。それは不安も同じこと。貴方が生きているだけで、困る方がいるのですよ」


「勝手な話だな。……俺は関わりたくもないのに」


 吐き捨てるように、ユリウスが言う。


「そういう星の下に生まれてしまったが故です。諦めて──死んでください」


 挨拶を告げるくらいの軽さで、死を告げる。

 男がゆったりとした足取りで前へ進んだ。

 影のない男は人じゃない。剣で、銃で、心臓を貫かれようとも、血の一滴も流れない。青白い顔に感情を浮かべてはいても、それは模倣イミテーション。本物じゃない。

 ふたりの距離が近づき、クリスティンはとっさに、ユリウスの前に出た。


「おい──!」


 咎めるような声を、ユリウスが発した。


「あげるのは『薔薇』だけよ。それ以上のものは、あげられない」


「勝手なことを──」


「黙ってて。あなたじゃ勝てないんだから」


 昨日会ったばかりだが、目の前で人が死ぬのは嫌。

 それって普通のことでしょ? なんにもおかしくない。


「ふたつにひとつ、ということですか。それは困りましたねぇ」


 男がまた、小首を傾げる。


「もしもこの人に何かしたら、『薔薇』はあげない」


 『皇帝の薔薇』があるのは、この世でクリスティンにしか開けられない倉庫の中。

 それはクリスティンと、ユリウスを守る盾になるだろう。甘い考えだと理解してはいても。


「『薔薇』を先にくだされば、何もしませんよ。──お嬢さん」


「押し問答をする気はないの」


 冷たく強い風が、クリスティンの黒髪を揺らす。空から落ちて来た白い雪が目に入りそうになり、クリスティンはつい、目を閉じてしまった。

 一瞬だった。本当に一瞬。閉じたまぶたを持ち上げれば、離れていた男が間近に移動していた。人間業ではない。


「──あ」


 反応できないクリスティンを引き寄せたのは、ユリウスだった。

 男が持つステッキは仕込み杖だったらしく、顔を出したのは銀色に輝く刃。

 その刃を、ユリウスの剣が受け止める。


「これはこれは……早いですねぇ」


 男の仕込み杖はクリスティンの急所を狙ってはいなかったが、それでも明らかに攻撃の意思があった。


「交渉は決裂だ。──いいな?」


 引き寄せたクリスティンを放り出し、ユリウスが剣を両手で持ち、力を込めて押し返す。音を吸い込む銀世界に、物騒な金属音が響く。

 放り出された勢いで雪に倒れこんでしまったクリスティンは、慌てて立ち上がろうとするが、ふたりの戦いを見てしまった瞬間、自分には無理だと悟った。

 ふたつの黒が、銀の剣を持ち戦っている。

 まるで手の届く距離で、舞台を見ているようだ。ダンスを踊っているようにも見える。


「でもあなたは……勝てないのよ」


 クリスティンはわかってる。影のない男には、恐怖がない。訪れる限界も、流れる血潮もない。長期戦だと、確実にユリウスが負ける。

 だから穏便にことを済ませようと思ったのに。


「中々やりますねぇ、貴方」


「お褒めいただき光栄──だ!」


 響く金属音に、クリスティンは耳を塞ぎたくなる。

 世界はこんなにもきれいなのに、どうして、と思う。

 ずっと、退屈で平穏な日々の中を生きてきた。今年はどうかしている。──不幸。あれは不幸そのものだ。

 ユリウスの言葉に、クリスティンは考えてしまう。

 そうなのかしら? あんなにもきれいなのに。あんなにも特別なのに。


「そこいると邪魔だ!」


 ユリウスの怒声にクリスティンが顔を上げ、見てしまう。赤い血が、白い雪を汚す瞬間を。

 誰かが言っていた。絶望は何色だと思う? 絶望は赤よ。──血の色。


「しぶといですねぇ、貴方」


 ユリウスは傷を負っている。

 でも影のない男は無傷。ユリウスの攻撃があたっていないわけじゃない。あたっても意味がないのだ。

 あれは影。闇から闇へと渡り歩き、人の後ろを付いて回るばかりの影。触れることはできない。少なくとも、人には。


「あれはくれてやる。けど、命までやるつもりはない!」


 はっきりと断言し、剣を振り下ろす。男は避けることもせず受け止めてみせた。

 ユリウスの汗が、血と混じり合って雪に落ちる。明らかに、ユリウスは疲れていた。

 クリスティンは母と、そして祖母から譲り受けた杖を取り出し、迷う。

 人前で使ってはダメよ。隠しなさい──隠すのよ。私達はもう、この世界には不必要なのだから。

 幼い頃の記憶とともに、母の言葉が蘇る。優しい母。美しい母。きれいなままこの世を去った母。

 母親の言いつけを、クリスティンは守ってきた。破ったことは一度もない。

 その言いつけを破るの? 昨日会ったばかり、ただれだけの人のために。

 白い雪を汚す赤い血を、クリスティンは見つめる。赤い血──紅玉ルビーよりも鮮やかで、柘榴石ガーネットよりも濃い。


「──ママ。一度だけよ。一度だけ、言いつけを破るわ」


 許しを求めるように、天を仰ぐ。昨日会ったばかりだけど、ただそれだけの人だけど、目の前で死ぬのを見ているだけより、ましでしょう?

 クリスティンは立ち上がり、スカートの裾についた雪を手で払う。


「今から見ることすべて、忘れてくれる?」


「──は?!」


 疲れと苛立ちのこもる声に、クリスティンは苦笑してしまう。

 冷たい風が、降り積もった雪を舞いあげた。

 クリスティンは手袋越しに杖を握りしめ、覚悟の意思を込めて、杖の先を男へ向ける。


「あなたはだあれ? あなたは宝石の王者ラトラナジュ


 杖の先に灯るのは、赤い炎。小さな炎が、輝きを増していく。


「魔法──」


 ユリウスの口からこぼれたつぶやき。

 それに応えるように、炎が意思を持ち杖から巣立つ。


「──私の情熱の紅玉ルベウス──」


 炎は真っ直ぐに、影のない男へ向かって駆け出す。剣も銃も、影に傷をつけることはできない。

 でもこの炎なら、影を燃やし尽くすことができる。


「まだ『薔薇』をいただいていないのですが……困りましたねぇ」


 燃えているというのに、男は冷静そのもの。感情が偽物だから、恐怖も感じないのだ。燃えている──自分は消えるという事実のみを、受け止めている。


「交渉は決裂。それが答えでしょ」


「……ふむ。では出直すとしましょう。またお会いしましょう、魔女のお嬢さん。そして──皇子様」


 最後の一言は皮肉だ。クリスティンにもわかった。

 ユリウスは顔をしかめ、燃え尽きようとする影を踏みつける。


「何が皇子だ……ばかばかしい」


 手袋を外し、頬の血を雑に拭う。日焼けしていて色白ではないが、ユリウスの肌はきれいすぎる。頬の傷が、痛々しい。

 クリスティンは杖を手に持ったまま、ユリウスを見た。星の海を宿した瞳と、紫色の瞳がぶつかり合う。

 冷たい風が、ふたりの髪を揺らす。灰色の重たい雲から、雪は降り続けていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ