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綺麗な人──クリスティンは店の入り口、肩に乗った雪を払い落とす銀髪の男を見つめ、そう思う。
こんなにも綺麗な人を、見たことがない。絵本に出てくる王子様よりも、劇場で主役を張る役者よりもずっと──ずっと綺麗。
クリスティンは見惚れたまま、動けないでいた。
「──ここはウェネフィカ質店で間違いないだろうか」
男の声が、店に響く。
クリスティンはすぐに反応できなかったが、手袋をはめたまま髪をかきあげる男と目が合い、ようやく我にかえることができた。
「は、はい。ここがウェネフィカ質店です。質入れ、買取だけでなく、当店は鑑定も行なっております。本日はどのようなご用向きでしょうか?」
いつも通りの自分に戻れば、言葉は考えるまでもなくすらすらと流れるように出てくる。
「これを見せればわかるはずだ。そう聞いている」
男は手袋を外すこともせず、懐からあるものを取り出す。
それを見た瞬間、クリスティンはつい思わず、カウンター越しに銀髪の男を見つめる。
男が懐から取り出したのは、質札だった。数字が彫られた銀色の猫、金色に輝く鍵。
「──お迎え、ですわね」
「嘘だろ?」
そう言ったのは、ジェイドだった。
クリスティン以上に、その質札を見つめている。
「帰ってちょうだい、ジェイド」
クリスティンは半ば追い出すようにジェイドを帰らせると、店の入り口にかけられた『開店』の札をひっくり返し、『閉店』にする。
「外は寒かったでしょう。お茶をお持ちしますわ」
「長居するつもりはない。お構いなく」
その言葉通り、男は椅子に座ろうともしない。
急いでいるのかしら──?
クリスティンはカウンターに戻りながら、男を観察してしまう。黒いコートに黒いズボン、靴だけは濃い茶色だが、全体的に黒すぎる。
だって手袋さえも黒なのよ。まるで闇に溶けていきそうな、見ないでくれと言うかのような出で立ち。
けれど誰もが見てしまう。雪よりも輝く銀髪に、宝石のような煌めきを見せる紫の瞳。完成された美しさ。美の女神さえ、嫉妬を忘れて見惚れてしまうだろう。
「少々お時間をいただきますので、お茶をお持ちしておきますわ」
クリスティンは微笑み、すぐに厨房から熱い紅茶の入ったポットとひとり分のカップ、それから午前中に焼いたばかりのいちごのタルトを持ってきた。
「質札をお預かりします。どうぞごゆるりとお過ごしくださいな、お客様」
質札を手に、クリスティンは店の奥に消える。
その背を、銀髪の男は無感情に見送っていた。
ウェネフィカ質店にはただひとつだけ、店主にしか入れない場所がある。──倉庫だ。
そこにはお迎えを待つ品々が保管されている。鍵はない。
だが店主にしか開けることはできない。特別な魔法がかかっているから。
「主人来たれり」
倉庫の取っ手を握りそう呟けば、かちゃりと鍵の開く音が聞こえた。
クリスティンは滑り込むように倉庫へ入ると、ランプの明かりをつける。倉庫を仄暗い明かりが照らした。
倉庫の壁を覆い尽くす棚に置かれているのは、箱だったり包みだったり、実に様々。
その中から、質札の番号と同じものを見つけ出す必要がある。
「番号がばらばらだわ。……見つかるかしら」
店主になると決めたとき、祖母から倉庫のことを聞いていた。
けれど入ったのは、今回を含めて二回だけ。祖母は言っていた。倉庫は特別な場所。居心地良く感じることがあっても、入ってはダメ。倉庫に入るのは、お迎えのお客様が来たときだけよ。忘れないでね、クリスティン。
その言いつけを破ったのは、ただの一度だけ。店主になったとき、どんな場所か気になって、つい入ってしまったのだ。
祖母の言っていた通り、倉庫の中は居心地が良い。母の腕の中で眠るかのような居心地の良さがある。
「──あった」
探し始めてどのくらいたったのかわからないが、見つけることができた。赤い長方形の宝石箱は、クリスティンの両手になんとかおさまるという大きさ。
それを大事に抱え、クリスティンは倉庫を出た。
「お待たせしました」
店に戻れば、椅子に腰を下ろし、カウンターに肘をつく男と目が合う。
倉庫から持って来た宝石箱をカウンターに置くと、視界の端に白いカップが見えた。口にしていないかと思ったが、どうやら飲んだらしい。カップの中の紅茶が、減っている。タルトは食べていないようだが。
「お預かりしていたものです。ご確認をお願いします」
男が持ってきた質札と、宝石箱の質札。ふたつをカウンターに並べる。
「確かに」
男が持ってきた質札に取り付けられた鍵、これが宝石箱を開ける鍵となる。
しかし男は、開けようとしない。
「あの、念のため中も確認していただきたいのですが……」
と言っても、クリスティンは宝石箱の中に何が入っているのかを知らない。男は知っているだろうか?
店の記録によると、この宝石箱の中に入っているものを預かったのは、約百年前だ。当然、男は生まれていない。
でも迎えに来たのだから、知っているはず。
クリスティンは動こうとしない男を見つめ、その視線に気づいたかのように、男が口を開く。
「これを──処分してもらいたい」
鍵を開けることもせず、男は宝石箱を拒否する。
そのとき、男と目が合った。
「処分──ですか?」
クリスティンは思わず、聞き返してしまった。
カウンターに置かれた宝石箱は、百年もの間、持ち主が迎えに来るのを待っていた。
それなのに、開けることもしないで処分してくれだなんて──。
この赤い宝石箱が、かわいそうに思えた。
「あの、お客様さえよろしければ、買取もできますが……」
中に何が入っているのかわからないが、せめて開けてもらいたい。
その気持ちも込めて買取を提案したのだが、宝石箱を見つめる男は、店に来たときと同じ、無感情。
「いや、処分してもらえれば、それで構わない」
「お客様がそうおっしゃるのであれば……」
宝石箱は、質流れ品ではない。百年預かったが、所有権は持ち主──目の前の男にある。
その持ち主が処分してくれと言うのなら、従う他ない。
男が拒否した宝石箱を、クリスティンがそっと、自分の方へ引き寄せる。
「頼む。……近くに宿はあるか?」
「宿、ですか? 大通りに出れば、『コルテーゼ』というホテルがありますけど……」
クリスティンは男越しに、店の外を見た。雪はやむどころか、勢いを増している。通りはいつの間にか、白一色。
これじゃあ汽車は動かないだろう。
きっとパトリアで一泊するのね。
クリスティンは納得し、視線を男に戻す。
「料理も美味しいですし……。『コルテーゼ』、おすすめしますわ」
目抜き通りの一等地に建っていて、何十年も前に改築し立派な外観となったが、今も昔と変わらず良心的なお値段で経営しているホテル。
それを伝えれば、男は義務的に会釈をし、店の扉を開けて出て行く。
クリスティンは白い世界から黒いコートが見えなくなると、肩から力を抜き、カウンターの上に置かれた宝石箱を見つめる。
「何が入ってるのかしら、これ」
少しばかり色あせてしまっている赤い宝石箱だが、錠前と同じ金色の縁取りは、今も輝きを失っていない。金色の縁取りを指先で撫でながら、クリスティンは窓の外を見る。
あの人、気が変わって戻って来たりしないかしら? ──ありえないわね。
だってあの人の瞳、氷のようだったわ。
銀髪の美しい男。まとう空気さえ、凍える真冬のようだった。
「……片付けないと」
クリスティンは紺色のスカートから同じ色のリボンを取り出し、邪魔にならないよう髪を結ってから、カウンターの上に置かれたカップやポットを厨房へ運ぶ。
明日になれば、今日の出来事なんて過去のこと。見惚れた美しさも、感じた氷の冷たさも忘れてしまう。
窓の向こう、降り続ける雪が音を吸い込み、ウェネフィカ質店に静けさが戻る。