出発
そんな浮かれた大学生活をスタートさせた私。
一回生の夏の日に叔父さんが急に、胃の調子が悪いと病院へ検査へ。
数日して買い物ついでの伯母が、検査結果を聞きに病院へ。
夜に私が帰宅すると、「おっちゃん入院してん…。胃癌って言われた…。」と力無く項垂れて私に告げる伯母。
医師の説明によると、既にかなり転移しており長くて年内だと。かなりの自覚症状はあった筈だとも言われた。
癌の進行の為か、投薬の為かは当時の私はわからなかったが、特に夜間に幻覚の様な物を見て、訳の解らん事を言ったり点滴を引っこ抜いたりするので、伯母が夜間病室に泊まり込む事に。
私も二日間程伯母の代わりに泊まり込みに行ったのだけど、叔父は現実と覚醒がはっきりとしない意識の中でも、「気を使っている様な、若しくは男としての矜持を保ちたい様な感じが拭えずに、やはり心を許す伯母とチェンジする事に。
そんなある日、叔父の従弟が見舞いに病室を訪れて、その帰り際に叔父が従弟の手を取り「元気でな!色々と世話になった。ありがとう。」と涙を流しながら言った。死期を悟っていたのだろう。
伯母と私は言葉が出ずに、ただ下を向くばかり。
それからは病状は悪化の一途で、意識がはっきりとしている時は殆ど無くなる毎日。
それから二ヶ月程後に、叔父は永眠。
いよいよ最後の時に、伯母は叔父の脚を擦りながら、「ええ所行きや。ええ所に。」と涙ながらに言いながら脚を擦り続ける。
医師が胸の辺りに注射をする直前、叔父の閉じられた眼から涙が出たのを私は拳を握って、じっと見ていた。
私が最期まで懐けないで、何処と無くギクシャクしていた叔父。
約11年間の間起居を共にしていたが、結局最期まで「叔父さん。」とも、「おっちゃん。」とも呼ばなかった。いや呼べなかった。
全く付かず離れずな存在だった叔父だった。「好きか嫌いか?」と問われると、「どちらかと言うと好きでは無い」と答えるけれども、決して「嫌い。」ではない事も事実。全くあやふやだが。
歴史好きな私はこの叔父から先の大戦中の体験談を良く聞いた。
叔父は再召集で、中国戦線に出征。
その後、大東亜戦争の勃発と同時にシンガポール攻略戦に従軍。
その時に攻撃側の日本軍。叔父の所属する部隊は、英国軍の陣地を攻める。
イギリス兵は次々に逃げるか投降するが、一部の陣地だけが頑強に抵抗しており日本軍側も多大な犠牲をする中、何とか敵陣地を制圧して、制圧後に陣地内を見ると、何とコンクリートの柱に鎖で脚を繋がれたインド兵が横たわって居たと聞いて私は驚いた事、そして味方戦車のすぐ側で突撃する用意に入っていたら、味方戦車の発砲の衝撃を頭に受けて昏倒、叔父は頭に敵弾が命中して「此処で戦死か!」と考えながら意識を失い倒れて、その後意識を回復して、見渡すと其処は野戦病院。無傷な自分を不思議に感じて、戦友に聞くと「戦車の主砲のすぐ横に居って、いきなり発砲したから、その衝撃で気絶したんや。後二人倒れて運ばれたわ。」と言われて赤面しきりだった事や、中国便衣兵の残虐行為。これは民間人を姿をした中国兵が、気を許した日本兵を殺害して、目をくり貫いて柱に縛り付けて晒したりしていた事。
そして、捕虜にした中国兵を収用する場所の見張りをしていて、日本語で「妻と子供が心配しているのです。どうか帰らせて下さい。」と言われて可哀想になり解放した事を、別の捕虜が見ていて叔父の上官に、「あの人は彼を逃がしたのに私を逃がしてくれなかった!」と言った事から発覚して、叔父は部隊内の軍事裁判にかけられて「重営倉」に入れられて、釈放後に「降一等」と、階級を一つ下げられたとも聞いた。
「あれがなかったら、恩給はもう少し良かったのになぁ。」と、笑いながら言っていた人の良い叔父。
入院から葬儀の直前迄、一切親戚には知らせなかった伯母。
叔父が亡くなり、漸く仲の良い親戚だけに訃報を知らせて、何とも寂しい通夜と葬儀を行った。
伯母と二人暮らしとなり、私も自宅から十五分程の場所に住む父親と伯母の事を以前とは違った視点で考える様になる。
私の考えでは、人間とは誰でも自分が一番可愛いもんだから主張も勿論それぞれ。
伯母独りにしては可哀想に思うが、私は独り暮らしを始めた方が真ん中の視点から、よく見えるんや無いかな?と。
暫く悩んで、伯母にそれを告げると大反対。
「父親に何か言われたんか!」とも言われた時に、私は出て行った方が良いな。と確信した。
今まで育てて貰った恩を忘れて何かは勿論いない。
この家が嫌になったんでも無い。
ただ灰色にしか見えなくなった、この生まれ育ったこの家から少しだけ離れた場所に行きたかっただけ。
何れは戻らなくては成らないんだけれど、何か自分でも解らない「このまま此処に居ちゃ駄目だ。もっと自分にとっては未知の場所で新しい自分を感じなければ。」との強い思いで、車で20分程の場所に引っ越した。
その引っ越し迄が、まぁ大変だった。
泣いて怒る伯母。
言われる都度に、「一体何故に此処迄怒るのか?」と思いは募るばかり。
穿った考えはしたくは無いのだけども「ひょっとしたら父親から養育費を貰っていて、それが無くなる事に対して…。」等と、色々な嫌な思いが交差した。
しかし一念発起した自分自身の思いは止めようも無く、レンタカーの軽トラックに荷物を載せる作業の途中にも怒鳴り散らす伯母に辟易し、引っ越しを手伝ってくれた幼なじみの同級生も、下を向きながら淡々と軽トラックに荷物を載せて行き、いよいよ出発。
大して離れていない全くの至近距離への引っ越しだけども、まるで今生の別れみたいな伯母の大騒ぎに「そんなん、すぐそこやがな。ちょいちょい来るし何でそんなに怒るん?」と聞くと「もうええ!二度と敷居を跨ぐな!」と返される始末。
そして荷物を載せた軽トラックは出発。
私には解らない部分の方が多いのだけど、果たして伯母は胸中に在った物とは何だろうか。
色々とゴタゴタはあったのだけど、伯母に対して初めて私は「我」を通した事になり十九年間住んだ、私個人的には全く何も良い事が無かった家に対して別れを告げた。
そして独り暮らしを始めた私。
勿論、生活費も家賃も自分持ち。
大学も入学金は父親が出してくれたが、突っ張って授業料は自分で何とか支払っていたのだが、ますます負担が増える事になる。
しかし時代はバブルで、私みたいなアホな大学生でも少しの知恵と学業を蔑ろにしたら何とか稼げる時代。
現在から考えると、私の大学生時代が私の今までの人生にとって一番商売っ気があった様に思う。
だって全くの怖いもの知らずなのだから。
まだまだ頭すら打った事も無く、何の怖さも知らない時。
若さとは、信じられない様な思わぬ力を発揮する事があるもんだとつくづく感じる時がある。
この時の勢いを生涯持続させるか、私のように一過性の物に留めてしまうかは、やはり資質の問題なのだろう。
引っ越しをした私は様々な家具を買い求めて、
コツコツ貯めた貯金を全部吐き出したが、ようやく「俺は自由になれたんや!」の思いが、私の心を軽く明るくして「希望」と言う新しい明日が見えて来た、そんな気がした。
まず買い揃えた物。
何故かダブルベッド、冷蔵庫にカウンターテーブル。
そしてテレビとビデオデッキにローソファーに洒落た真っ黒のローテーブルに電子レンジと、何故か筋トレ用のトレーニングジムに置いてるような器具と観葉植物。
これでコツコツ貯めた貯金は底をついた。
借りた新しい生活の家は、築年数が古い二DKの二階建ての一階角部屋のハイツ。
家賃は、ガレージ代込みの五万円。間取りは六畳二間で、キッチンも六畳。トイレが和式なのがネックだったのだけど、間取りの広さに負けたと言う所が本音。
引っ越し作業が終わると同時に、隣近所へ挨拶の簡単な品を持って廻ると、どうやら一人暮らしは私だけのよう。
「大学生の一人暮らし。うるさくされると嫌やな…。」と言う顔を隠しながらされて、とりあえずは一人暮らしのスタートが始まった。
そしてこの私の人生初めての家で、これから様々な出会いと別れ、くだらない笑話やら事件までが起こって行く事になる。