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親子迷路 (風が強い日)  作者: 山口 浄
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蒼い鼓動

父親とは以前と変わり、付かず離れずの間柄になった私。

会うと言っても、月に一度位。

母親の違う弟と妹も誕生し、私への関心も薄らいだのか?

当時の私にとっては、本当に暫しの安寧の時期。


しかしその月に一度の会う時が、父親宅に泊まりになるのが苦痛だったが…。

父親の車で送られて自宅に帰ると、伯母が「誰かが何か言うてた?何もされんかった?あの家の中で誰が一番嫌い?」と、父親と後妻さんの二人しか居ないのに決まって聞いてくる。

「それなら行かせないでよ。」と言いたい所だが、要らない気を使う私の悪い癖で、下を向いて当たり障り無い返事を繰り返す。

問い掛ける伯母達は、私のその答えで納得出来たのか?

納得出来たのなら、現在の私から見たら首を捻るばかりだけど。


その頃が、大学卒業迄の学生生活で一番学校が嫌な時期だったと今更ながら痛切にその時を感じる。


近所や同級生の家からも、「ほら、あの父親が怒鳴り込んで来る家の子」と露骨に言われたり、同級生越しに聞いたりする。


そしてその頃。小学四年生の時に、私は自らの命を殺めそうになった事がある。

当時伯母は自宅に作業場を設け、お菓子の箱詰めの内職の斡旋をしていた。

内職に集まるのは、近所のおばちゃん達。

風邪をひいて学校を休んでいた私は、

昼間テレビで、時代劇を観ていた。

お決まりのストーリーで、最後はお裁きを受けて、罪人は獄門打ち首か切腹。

その日は悪い事した侍が切腹した。


テレビを見る限り、あっという間に果てる侍を見た私は、「めっちゃ簡単に死ねるんやなぁ…」私の為に毎回毎回いざこざが立ち起こり、怒鳴り合う大人に対して、「これは私が、この家に居るから悪いからなんや。私はここに居てないけないんや。」と考える様になっていた。

小さな公営住宅に住む四人の家に、何故表札が三枚もあるのかが不思議だったし、友達に聞かれるのも煩わしかった。

「ボクなんか、ここから消えて居なくなってしもうたらええねん…」と、少し考えて、躊躇う事無く台所へ行き包丁を手にした私。


時代劇俳優の様に正座して、着ている服を捲し上げてお腹に包丁を当てていると、トイレに行く為に入って来た内職のおばちゃんが、「何してるのん!冗談でもそんな事したらアカン!」と、手にした包丁を振るい払い、私の頭を叩いた。

その近所のおばちゃんは、「面白がってしたんやろうけど、何があっても自分で死ぬ何か考えたらあかんねやで!」と優しい顔で言うてくれた。

今でも思う事があるが、あの時のおばちゃんは、きっと私の気持ちを分かっていたんや無いかなと思う。


私もその時は、自らのしたことの意味が良く解らずに「ただ自分が此処に居たら皆が喧嘩する。そしてそれがたまらなく辛い。だから自分が居なくなればええんかな?」での発想と行動。

そんな私の行動を見た近所のおばちゃんも、伯母には何も言わなかったようで、自分でもよく解らないままに、そのままになる。

もし近所のおばちゃんが、あの時部屋を通らなかったら、きっと私は、どんな結果になるか理解せずに、躊躇わず包丁を腹に突き立てていたと思う。


この頃はよく、風邪ひき以外の発熱をしていた。掛かり付けの病院へ行くと「精神的な物やね。」と医師と伯母が話していたのを覚えている。

そして小学校も高学年になった私。

あいも変わらず、自宅近くの河原で走り回っている。

そして家に居る時は、自らを前に出す事無く、黙んまりを決め込む私。

家の事を友達に聞かれたりするのが嫌で嫌で、学校に行くのが大嫌いだった。


そんなある日。

習い事の書道教室に行く途中に、 近所に住む数人の二歳年上の男子から突然囲まれて「お前いちびるな!いっつも女の子とばっかり遊んで!どついたる!」と羽交い締めにされて殴り回されて、初めて流した自分の鼻血と口の中に拡がる鉄臭い香りに頭に来て、羽交い締めにしていた手に噛みついて、驚きと痛みで手を話した瞬間に、正面に居て私を殴り付けていた近所の二歳年上の男子に殴りかかって行って、相手にも鼻血を流させたけど、他の数人から殴り倒されて、習字道具は溝に叩き込まれ、仰向けに倒れた私の顔に唾を吐きながら「いっつも女の子と遊んどるから弱いんじゃ!文句があるんやったら掛かって来いや!」と脇腹を蹴飛ばして去った四人の六年生。


「なんでやねん!女の子と遊んでへんわ!一つ上の従姉とたまに遊んでるだけやんけ!くそっ!」と、立ち上がって追い掛けようとしても中々立てない。

悔しくて涙が止まらずに、泣きながら痛みを堪えて、溝から落とされた習字道具を拾っていると近所の内職のおばちゃんが私を見付けて声を掛けて来た。

「どないしたん?あらっ!血ぃ出てるやん!転けたんか?」

黙って下を向いていると、「ケンカしたんか?誰にやられたんや?」っと言いながらハンカチで顔を拭いてくれる。

「おばちゃんの自転車の後乗り。お家まで乗せて行ったるわ。」

「ううん…ええねん。今から習字やから。」

「そやけど、あんた血ぃ出てるやん…」

「ええねん。大丈夫…行かなあかんから…」

「うーん大丈夫かぁ?無理したらあかんわぁ…ほんならこないしよ。おばちゃん、あんたを書道教室まで乗せて行ってあげるわ。これでええやろ?」

「うん…」

近所のおばちゃんの自転車の後に乗せてもらい、書道教室に着いて中に入ると案の定「どないしたん!血だらけやがな!ちょっと救急箱!」と、教室の先生の奥さんが、大きな声で先生を呼ぶ。

「どないした!ははぁ…これはケンカの傷やなぁ?」と先生。

「一対一か?」と聞かれて、黙って下を向いていると「違うな?相手は何人や?」と、恐い顔をして問い質す先生。

仕方なく下を向いたまま、指を四本出すと「向こうから仕掛けて来たんか!?どうなんや!」

下を向いたまま頷く私。

「殴り返したか!?」

これまた下を向いたまま頷く。

「悔しいか!?」

私は顔を上げて頷いた。

「集団でしか掛かって来れない奴は弱虫や!やられて悔しいやろ!やられたらやり返せ!その代わり、絶対にお前の友達を連れてやり返すな!恐いかも知れんが、お前独りで相手が独りの時にやり返せ!別に相手が何人居っても、独りでやり返せるなら独りでやれ!そやけどな。絶対に武器は持ったらアカン!これが男のケンカや!」と、初めて見る書道教室の先生の怒った顔。

私は先生の顔を見て黙って頷いた。

実際、私を囲んで殴り回した四人の六年生よりも、習字の先生の顔の方が恐かった。

後年知ったのだが、習字の先生は戦時中、旧帝国海軍戦艦「山城」の

甲板士官として、有名な「捷一号作戦」であるレイテ湾突入作戦に参加。

スリガオ海峡沖海戦で、乗艦である「西村艦隊旗艦戦艦山城」の稀有な生き残りであり、復員後は大学で「歴史」の教鞭を執る教授。

もっと様々な事を教えて欲しかったと、切に思う次第。


そして傷の手当てで、いつもの半分も練習出来なかったけど、何だか勇気が貰えた。

更には溝に投げ込まれて使え無くなった半紙や下敷き、筆までを、先生がいつも使っている道具箱から「頑張ったご褒美」と頂いて、やっと笑顔で「ありがとうございます」と言えた。


書道教室を出たら、教室の門の前に伯母が立っている。

「あぁ…あのおばちゃんが言うたんや…」と、とっさに理解する。

「何があったん!?何処の子がやったんや?」と恐い顔をして問い質すけど、下を向いて「見たこと無い知らん子…」とだけ答える。


帰宅しても問い質されるが、「知らん子やねん」しか答えない。

夕飯を摂りながら晩酌をする伯父は「子供のケンカや。」と、酒に酔って鼻唄を口ずさむ。

この伯父の食べ方と酔いかたが大嫌いだった。


私をやった相手は解っているので、翌日からは書道教室の先生に教えて貰った通りに、何も持たずに私を一番殴った相手の家の近くで待ち伏せ。

自転車に乗って帰って来た。

しかし弟と二人。弟は私の一つ年下。

「まぁええ!この前の仕返しや!」と、全力で走って殴りかかる。

いきなり殴り掛かられた二歳年上は、自転車ごとひっくり返って信じられない顔をしてる。

馬乗りになって、顔を殴りつけていたら、弟が「何すんねん!」と叫んだけれども、弟を向いて「やるんか!」と言うと、泣き出した弟。

その後二歳年上の兄にも反撃されて、再び鼻血を流したけど、負けなく舐められないケンカのやり方を覚えた時。

この時得た教訓は「絶対に相手からは眼を離したらアカン。」


しかし、そんな少し神経質でアホなガキの私にも好きな女の子が出来たりする。

そんな自分を、「あぁ…。ボクも大人になって来たんかな?」と、まだ毛も生えていないアホな私は、そんな事を考えてドキドキしていたものだ。

この頃から、夜中にこっそりとラジオを聴く様になった。

最新のヒット曲から、パーソナリティーとアシスタントの二人で構成されるラジオ番組に夢中で、少しエッチな話が出るとドキドキしたもの。

結局いつもイヤホンをしたまま、最後まで聴けずに寝てしまっていたが…。


現在も私の原動力となっているロックンロールとの出逢いもこの時期。

少しひねくれていた私は、周りの皆が騒いでいるアイドルには全く興味が無く、叩きつける様な音と挑み掛かる様な音が好きになっていた。

そんなある日、隣に住む三歳年上の幼なじみのお姉さんが、「明日一緒にコンサートに行かへん?一緒に行く筈の友達が行けなくなってん。行くんやったら、私からおばちゃんに話しとくで。」と、窓ごしに言うて来た。

断る理由は何もなかった。

どうせ休みの日も、近所の河原で走り回る位のものだから。

「うん、行く!」と返事をして、その足で伯母に説明をしていたら、隣に住むお姉さんが来た。

伯母は心配そうに、「こんな小さい子大丈夫なん?お弁当は要らんの?」とか心配なのは解るが、ピント外れな事を言う。


そして当日。未だに心配そうな伯母の見送りを受けて出発したお姉さんと私。

やがて大阪市内の会場に到着したら、恐ろしい格好をした人達が多勢会場を取り巻いているではないか…。


恐かった。お姉さんも少し緊張している。

会場に入り始まるのを待って居ると、突然客席から異様な叫び声が始まり出す。

「あぁ…。えらい所へ来てしもた…。恐いがな…。」と内心震えていると、急に照明が消えてステージにスポットライトが輝く。

そこには両脇に、豚の首が突き刺してあった。


やがてメンバーが登場すると、会場内の雰囲気は更に異様な感じになる。

ボーカルが出て来て更に空気は異様な感じ。

ボーカルはニヤニヤ笑っている。

その時突然、凄まじいドラムの音が鳴り響き怒号と歓声が上がる。

訳が解らない内に一曲目が終わり、横のお姉さんは興奮状態。

確か次の曲で、ステージ脇に置いていたタライに、ボーカルが近づいてタライの中から何かぐにゃぐにゃした物を取り出して、意味不明な叫びを上げて客席に撒き散らした。


それは何と「豚の臓物」降り掛かる血。

飛び散る内臓。恐怖に駆られた私は、「うわーっ!うわーっ!」と取り憑かれた様に叫んでいた。

この時小学校六年生の私。音楽の時間に、縦笛でチャルメラを吹いて遊んでいる子供のライブ初体験が、豚の臓物では当然パニックになる。

いつ終ったのか解らない内に終わっていた。


お姉さんが、「どうやった?楽しかった?」と驚く様な事を言うので、私は引き吊った顔で「うっ。うん…。」と返事を震えながらした。

でもそれが、歳をとる毎に楽しくなって行くんだから不思議なもんだ。


中学校に進んだ私は思春期を迎えて、様々な思いと葛藤を感じて悩む様になる。

「自分とは一体何なんやろ?」これが悩みの種。


こんな時に、ある悲しい別れが再び私に訪れる。

中学一年生の時に、私の伯母兄妹の長兄伯父が仕事中に突然倒れて病院に運ばれたとの急報が入り、夕方ちょうど帰宅して来た叔父の運転する車で伯母と三人で、大阪南部の病院へ急ぎ駆け付ける。

一時間半程で病院に到着して、案内された病室へ行くと其処は集中治療室。

奥さんが付き添っており、容体を尋ねると「まだ解らない…。もうすぐ先生から説明があるんよ…。」と力無く答える。

長兄伯父は意識は有るのだが、顔色がどす黒い感じ。

先月私の住む家に、祖母の仏前に手を合わせに来てくれた時とは随分違う顔色に私は息を飲む。


暫くして「説明が有りますから、此方の方までお越し下さい。」と看護師さんが奥さんに伝えて、私も後に続く。

「膵臓が機能しておりません。今夜がヤマです。手の付けようが無い状態なのです。」と医師の説明を受けて、愕然とした私達。

集中治療室に戻ると、長兄叔父が苦しそうに「どんなんや?」とはっきりした声で問い掛けた。

「うん。膵臓の機能が弱っているから、その検査と治療をせなあかんみたいやで。」と奥さんが答える。

そして私達伯母夫婦に、「そんな大層な事や無いから、明日も仕事やろ?ありがとう。早よ帰りや。」と言った時に、苦しくなったのか突然顔をしかめた時に、長兄伯父の眼球の色が紫色に変わったのを私ははっきりとみた。

そして少し落ち着いたのか、私を見て「明日学校あるんやろ。早よ帰って勉強せなアカンぞ。」と言われて、咄嗟に「明日は創立記念日やから休みやねん。」と口から出任せを何とか言った私。


やがて医師が来て、私達を室外に呼んで「患者さん、まだお若いし体力も有りそうなので、今暫くは大丈夫かと思われます。集中治療室でもありますので、一度お引き取りになって明日またお越し頂けますか?」と言われて、私達三人は一先ず帰宅する事に。


長兄と奥さんに「明日また来るから。」と伝えて、帰路に。

帰る途中で立ち寄り、当時売り出し中だった牛丼チェーン店で、持ち帰りの牛丼を買った事が何故か今でも頭から離れない。


再び一時間半程掛けて帰宅して、途中で買った牛丼で食事にしようかとしていた時に、電話が鳴り伯母が受話器を取ると、「たった今亡くなった。朝早く一緒に帰宅するから、明日来て欲しい。」と奥さんからの連絡が入った。

慌て驚き、悲しみに暮れる私達。

葬儀に必要な物を慌ただしく用意を始める伯母。

私も友人宅に電話して事情を話して、明日から学校を休むから伝えておいて欲しい。」と連絡。


翌朝早く再び大阪南部へ向かい長兄宅に到着すると、長兄が既に棺桶に寝かされて、少し前まで開いていた眼を閉じている。


そして通夜、翌日が葬儀。

長兄の次女が当日高校の受験日。

通う学校の先生が、朝早く車で迎えに来て下さり試験が終わると直ぐに次女を載せて、葬儀に間に合うよう力を尽くして下さって、何とか出棺に間に合う。

そして何とか出棺に間に合った次女が、棺にすがり付いて泣く姿が例え様の無い悲しみが、参列者に胸の痛みを与える。


亡くなった長兄伯父。

幼少期の私にとっては、「ヒーロー」的な存在で、ごたごた続きの私を取り巻く環境で、常に私側に立って尽力してくれ、私の父親が怒鳴り込んで来た時でも、それを聞くと必ず父親に電話をして叱り飛ばしてくれたりしていた、私にとっては一番頼りになる大好きで、大きな存在だった。

まだまだ今から、色んな事を教えて欲しかったんだけど本当に残念でたまらなく、そして呆気ない別れに涙を流した。


それからの私は、特にクラブに入るでも無く、特に勉強する訳でも無く、段々と夜に明るい物を見るようになる。

夜が友達になった。そして夜が全て包んでくれて行くと、そう信じた。

遊ぶ友達が限定されてくる。

初めて彼女が出来たのもこの頃。

人様の物を盗んだりはしなかったが、大人の真似事をしてタバコを吸って苦いだけの酒を飲んで、喧嘩に明け暮れて危険な遊びに夢中だった。


ろくに勉強もしなかったけど、何故か小学校の低学年から好きだった歴史だけは、部屋で独り教科書やら文献を読んでいた成りきれない不良だった。


市外の私立男子高校にかろうじて入学した私は、電車通学をする事になった。

身体も人より少しでかいので、取り敢えず女の子にモテそうな野球部に入部。

野球など、ろくにした事の無い私だったけど、向いていたのかたまたまなのか、ピッチャーとして一年生でレギュラーになる。

こりゃぁ行けるなと根拠の無い実感を得たのだが、合宿練習中の事故で、軸足をボールケースにぶつけて、そのまま病院へ行ければよかったのだが当時の根性主義で、二日間監督に放置される。

三日目の朝に、内出血でとうとう立ち上がり困難になった私を見て、やっと病院へ。


診察した先生は、患部を見るなり「何でこんなになるまで放っておいた!」と叫ぶ。

どうやら右脚の膝が壊死しかかっているとの事。

緊急手術となり、悲しい程痛い下半身麻酔を腰に射たれる。

一週間入院。抜糸迄三週間。

その後、懸命に筋トレやら必死でトレーニングしたにも関わらず、痺れと脚の踏ん張りが戻らずに退部。

現在ならテレビや新聞沙汰の事故だ。


クラブを辞めた私は、頭をリーゼントにしたヤンキーに逆戻りしてバイクに乗って走り回る事に。

電車での通学では様々なアホな事が起こる。

電車内を奇声を上げて走り回る奴。

目が合った。その理由だけで他校生を殴る…。

電車内でタバコを吸っていた他校生を「世直しや。」と言う訳の解らない理由で血祭りに上げる…。

イチャイチャしている高校生カップルに絡む…。

そのくせ、自分は彼女を連れて歩いたり、そうでない時は見知らぬ女子高生に声を掛けていると言うホンマに最低な私達…。

そんなアホは私も高校三年生となると、将来の進路を真剣に考え無くちゃぁならない時期。

通う高校は、八割就職。

しかし勉強はろくに出来ずに素行も悪い私は、付き合っていた彼女に勉強を教えて貰いながら、どうにかこうにか、ロクでもない大学へ合格する。

(現在でも当時の彼女には頭が下がります。)

どうにか大学も決まり、自動車運転免許証を取得するためにアホな仲間達と運転免許合宿に参加する事になり、山形県へ十人で向かう。


当時はまだ山形県では関西弁は珍しいらしく、現地の女の子達から人気が出て、合宿のホテル迄遊びに来てくれる女の子も居て調子に乗る私。

早速特定の女の子を見付けて、運転実習が終われば自由なので、夜な夜な遊び廻る毎日。ほんまに最低で欲望蠢くままだ。


そんな私達を苦々しく思うのは、現地のやんちゃ坊主達。

同じ大阪から運転免許合宿に来ている男から、「地元のヤンキー達が、お前らが生意気やと言うてケンカ売りに来るみたいやで…ほどほどにしといた方がええで…」と忠告してくれるのだが、「ほんまぁ…ケンカしたかったら来んかいや!そんなもん恐かったら、牛丼喰えるかいや!」と、気にもしない私達。

早速喧嘩を売りに来るが、関西弁の押しは強い。ドスの聞いた言い回しで相手をビビらせる。

楽しい運転免許合宿だ。


関西圏内のロクでも大学に入学したは良いが、遊びに興じ、アルバイトに明け暮れる日々。

時代はバブル経済絶頂期。

高速道路サービスエリア内のレストランで、夜勤のウェイターを始め、中古車のブローカーやら果てはホスト迄した。

きっと当時の私は、ちょっとしたサラリーマンよりも収入はあっただろう。

これが後に頭を打つ勘違いと、自らの生き方を考える事の始まりだった。

しかしこれが、今現在の私と言う漠然としたスタイルを創り上げた時なのかも知れないなとも振り返る時がある。



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