居酒屋血風録
幼少期からの私の念願であった実の母親と会う事が叶い、全てにおいて前向きに向かい気力も充実している私。
長女と次女も小学校に入学して、小さな身体にランドセルを背負ってか背負われてかわからない感じで、小学校までの坂道を登って行く姿が微笑ましくて、毎朝少し早起きして嫁さんの出勤と二人の娘の登校を玄関から見送ってから、また少しの間ベッドに潜り込む毎日。
営む居酒屋も大繁盛とは言え無いけれども、常連さんも増えて何とか明るい行き先が少しだけ見えて来たような事も考え始めていた。
少しだけ時は遡るが、長女が小学校1年生の時に私は自身の腹部に違和感を感じていた。
お臍の真横辺りに鈍い痛みと異物感が出始めて、ベルトを締めると痛みを覚えだした。
日に日に違和感は強くなり、ある日の営業で常連客である近くの総合病院の看護婦長さんに、症状を軽く話すと「マスターお腹見せて。」と先程までの酒を楽しんでいた顔から一変して、仕事の顔に変わった婦長さん。
他にもお客さんは居たが、促されるままに店のベンチシートに横になり、服を捲し上げてお腹を出した。
「これやねぇ…マスター?」と、少し腫れている部分を摘まむ婦長さん。
そして、その俄診察の様子を興味津々と眺める他のお客さんとバイトのキャサリン。
「私は医者では無いから、はっきりした事は言え無いけれども、マスターこれは明日にでも病院に行った方が良いよ!うちの病院で無くても良いから、すぐに行ける病院に行ってちょうだいね!悪性だったら怖いから!」と厳しい表情で私に伝える婦長に、少し軽く考えていた私は「あっ…分かりました。明日の朝一番で自宅からすぐ近くにある病院に行きます!」驚いて頷いた。
それを見ていたお調子者のお客さんの一人が「マスター…迷わず成仏してや…」と手を合わせて呟いた。
帰宅して直ぐに寝ている嫁さんを気を使いながら起こして、今日の出来事のあらましを話すと、以外なほどに冷静な嫁さんに驚いた私。
「何か原因が分かれば直ぐに会社に電話してね。早く帰れるように調整しておくから。」
「まぁ多分大丈夫やろ?こんなアホ程健康的な病人おらんわな!」と自らを鼓舞しながら、「もし入院とか言われたら、暫くはご無沙汰になるからなぁ…」と勝手な言い訳をして嫁さんの布団に潜り込む私。
すっかり寝不足の嫁さんと私。
「じゃあ頑張ってね。すぐに電話してね!」と言う嫁さんと、「お父さん病院行くん?注射するのん?」と心配そうに尋ねる二人の娘を玄関先から笑顔で送り出して、「まぁ色々今から考えてもしゃあないわなぁ…出たとこ勝負やわ。」と言い聞かせる。
午前九時になり、自宅マンションに隣接する病院へ。
外来待ち合い室で暫く待っている間に、以前起こった次女との、この病院での何とも言えない思い出が頭に浮かんで苦笑いをする私。
次女が三才位の頃、私が風邪をひいた次女を連れて小児科を訪れた。
小児科の待ち合い室に座り、次女に動物の絵本を見せていると、突然次女が向かい側に座る母子を指さして「お父しゃん、ゴリラが居るよ!ゴリラのお母さんと子供が居るよ!」と、はっきり分かる大きな声で言った。
驚いて向かえ側の母子を見て眼を剥いた私は咄嗟に「笑ったらあかん!」と瞬時に自らに言い聞かせたが、「ヴッ」と喉が鳴った……。
その瞬間、果てしなく気まずい空気が漂い「申し訳ございません…」と、立ち上がって深々と頭を下げて次女に「これっ」と言い、小児科待ち合い室の隣の待ち合い室に移った時の事を思い出し「あの時は大変申し訳ない事をしたな…次女の余りの適格な表現に釣られて、笑ってしもうた自分が情けない…。悪いのは私なのだ…しかしあの時は気まずかった…」と思い返す私。
きっと端から見たら、腕組みしたおっさんが半笑いしている姿は異様な光景だっただろう。
もし腕組みをして半笑にの私を見た、もう一人の私が居たとしても、そんな自分の横には気色悪くて座る気はしないのは確かな事。
そうこうするうちに、私の名が呼ばれてレントゲン室に。
撮影を終えて再び待合室で待っていると、名前を呼ばれて診察室へ。
担当は院長先生だ。
問診票とレントゲンの画像を眺めながら「お臍の横に少し大きな腫れ物があるとか?此所に横になって見せて貰えますか?」と促されるままにベッドに横になり、ベルトを緩めて上着を捲し上げて医師に腹部を晒した。
暫く触診していた医師が「こりぁかなりデカいな!悪性か良性かは切ってみないと何とも言えないけど、ええ時に来たねぇ。もう少し放って置いたら、許容量を超えて腹の中で腫れ物が破裂したら、かなり難儀な手術になるところや。
今日の夕方に早速切るから、簡単な準備だけしといてね。なに大した手術やないから安心してね。しかし場合によったら、二日程の入院になるかも知れないよ。」と、いとも軽く手術すると言う話になり、狐につままれたような気持ちで診察室を出た私。
待ち合い室に戻って「しかしいきなり手術かいな…簡単な準備言うても、どんな準備したらええんかな?まぁ教えてくれるやろ。」と、大した手術では無いと言われて少し安心したのか、私も呑気に構えて待っていると、先程の診察の時に、医師の横に居た看護婦さんが私の元へ。
「すんませんが、もう一度診察室へお願いします。」と言う。
促されるままに、再び診察室に入った私。
診察室に入ると院長先生が、「お手間を取らせて申し訳ありません。診察結果と手術の内容を伝えるのを忘れてました…」
「この院長大丈夫かな?なんちゅう大事な事を忘れとるんや…」と、夕方に切られる腹の中で毒づく私。
「結果として、原因となっているのは脂肪の塊です。多くは肩や背中、腕に発症する事が多いのですが、稀に腹部に発症する事があります。腹部ですと、その奥に骨が背骨しか無い為に、その脂肪の塊は大きく成長します。そして成長の許容量を越えた時に、先程話しましたように腹部で破裂して、厄介な事となります。悪性のウィルスが存在して、大変な手術に成りかね無い場合もあるので、今日の夕方に摘出しようと判断しました。手術の時間は、約一時間を予定しております。今からは食事は控えて下さいね。 そして、ご用意頂きたいのは、もし入院となった場合に必要な着替えや身の回りの物です。貴方の場合、ご自宅がすぐ隣なので必要最低限の用意でええかと思います。しかし、この周りのマンションの中で一番立地の良いマンションにお住まいですな。」と、世間話を交えながら話す院長。
「分かりました。家内と連絡を取って、十六時に参ります。どうぞよろしくお願いします。」と診察室を後に。
診察室を出た私に、看護婦が付いてきて「すみません…先生そそっかしくて…でも確かな先生です。」と私に頭を下げて話す看護婦さん。
「気さくなええ先生ですやん!此方こそ、お世話になります。どうぞよろしくお願いします。では準備して参りますね。」と笑顔で答えて一度帰宅。
早速嫁さんの会社に電話をして、事のあらましを告げると「えっ?今日いきなり手術するの?入院とかは?早く帰るわ!」と驚く嫁さんに、「まぁ慌ててもしゃあないやん。会社に迷惑掛けん程度でええと思うよ。とりあえず掛けてる保険証券をチェックしといてな。出来たら入院した無いんやけどなぁ…まぁまぁ切腹して来るわ。」と、突然の開腹手術に少し動揺している自分を、極力抑えて話す私。
本心は「すぐに帰って来てくれ!」と叫びたかったのだけど…。
隣接する自宅マンションに戻って、とりあえずは昼寝。
慌てても仕方ないし結果も全く変わらないから。
二時間程昼寝をしてスッキリした気分で眼を覚ました私だけれども、朝食以来何も口にしていないので、お腹はペコペコで悲鳴を上げているが、我慢して取引している酒屋さんに電話をして「大変申し訳無いんですけど、急に腹部の手術をする事になったので、二日位臨時休業しますわ。」と、手術に至った経緯を説明すると「えっ!ばらちゃん大丈夫なんか!?」と驚いている。
そりゃそうだ。昨日までは配達に来た酒屋さんと世間話をして手術するような気配は欠片もなく、私自身も全く病人っぽく無くて健康そのものなので、
全く手術をする実感が無いんだから…。
やがて十六時前になり、入浴も済ませ思いの外軽い足取りで、隣接する病院へ向かう途中に、自宅マンションの管理人さんと出会う。
「お出かけですか?」と笑顔でレレレのおじさんみたいな事を言う管理人さんに「はい。今から切腹しに隣の病院へ行って来ます。」と明るく告げると「えっ?えっ?御主人がですか?」と言葉に詰まるので「そうですねん!なんやら腫瘍みたいなんがあるみたいで、今から取り外しに行って来ますわ。」と笑ながら話すと「あっ!あぁぁ…お大事になさって下さい…」と言う管理人さん。
「上手いこと戻れたらええんですけどねぇ!」と頭を下げて病院へ。
そしてすぐ隣の病院に到着して院内に入ると、時間外なので外来待合室は真っ暗。
受け付けに設置しているインターフォンを押して名前を告げると「お待ち下さい。」と返事があり、少しして受け付けの事務員さんがやって来て「此方へお越し下さい。」と注射処置室へと案内された。
「暫くお待ち下さいね。」と殺風景な注射処置室でパイプ椅子に座って待っていると、午前中に会った看護婦さんがやって来て、申し訳なさそうに「先程急患が入り、現在手術室が塞がっておりまして、今日のオペは此方でさせて頂きます。」と言う。
少し驚いた私だが「最早何が起ころうと驚くまい。戦場では野外手術が当たり前やからな。」と言い聞かせて、間もなく始まる人生初の切腹に思いを馳せる。
渡された緑色の手術着に着替えて、看護婦さんから手術の説明を受ける。
どうやら局部麻酔のようだ。
「どうせなら全身麻酔だったら寝不足解消にもなって良かったのにな…。」と、愚にもつかない事を考えながら、促された点滴用ベッドに横たわる。
「それでは剃毛します。」と看護婦さん。
「アソコの毛も剃られるのかな…?」と下らん事を考えていると、カミソリで腹部の産毛を剃って「お臍の消毒をしますね。」と看護婦さん。
「ああアソコの毛は大丈夫なんや…」と思っていると、太い針金みたいな器具に脱脂綿に消毒薬を浸した物を取り出して、私のお臍をグリグリし出した。
これは痛い!私のお臍を貫通して腹の中に入ってしまうのでは無いか?と思う程の強さと痛さ。
「おぉ…。」と、 顔をしかめて居るとドアが開いて院長先生が入って来た。
「救急患者が入って、此方に移って頂く事になって申し訳無いです。まぁまぁ大きなオペでは無いので安心して下さい。」と、明るく話す院長に、笑顔で「ああ、そんなん大丈夫ですよ。今日はよろしくお願いしますね。」と、先程ほじくり返されたお臍を気にしながら応える私。
「では始めます。」と、今回摘出する私のお臍の左側に麻酔薬の注射を始める。
注射をしながら「お酒は良く飲みますか?お酒をよく嗜まれる方は、麻酔の効きが悪いので。」と聞いて来る院長先生。
痛くては叶わないので「まぁ居酒屋やってる位なんで、飲む方やと思います。」
「これは何か感じますか?」
「はい。少し。」
「ではこれは?」と言われて、本当は何も感じ無かったのだけど、手術中に痛いのも嫌なので、「はい少し…」と答えると「今は何も触ってません。大丈夫です。」と、見透かした答が帰って来て黙る私。
よくテレビで観る手術のシーンとは、えらい違いのカーテンで仕切られただけの注射処置室で、いよいよ人生初の腹部の手術が始まる。
執刀前に計測した血圧は正常。
そしていよいよお臍の横にメスが入ったようで、全く痛みは無いが、引っ張られるような違和感だけを感じる。
「あぁ…見えた!これは大きいな!今日切って良かった。」と執刀しながら呟く院長先生。
「そんなに大きいんですのん?」と私が聞くと「あぁ、ピンポン球位あるよ。傷をつけて破らないように摘出しないとならないから、ちょっと時価が掛かるね。」と院長先生。
手術が始まって十分程した頃に、カーテンで仕切られた向こう側の注射処置室で、ガヤガヤと子供の声と、何やら注意を促す大人の声が聞こえて来る。
気になって「何ですかね?」と、院長先生の補助をしている看護婦さんに聞くと「今日は近くの小学校のインフルエンザの予防接種なんよ…。ごめんなさいね、騒がしくて…。」と看護婦さん。
「いえいえそんなん!私らしいっちゃあ私らしいですわ!ひょっとしたら、うちの娘も来てるんや無いですかね?」と、少し気分が楽になった私。
カーテンの向こう側では、泣いてる子もいて「あっ!誰々ちゃん泣いた!」と、おちょくる子。
そして「隣で治療中の患者さんがいるから、みんな静かにね!」と注意する看護婦さんの声が。
通常では考えられない、この手術の風景が、なんとも微笑ましく温かく感じで、腹を開けられていると言った緊張感が微塵も感じられない。
手術途中に計測した血圧も、手術前と変わらずに「ほとんどの人は、血圧が急に上がったり下がったりするんですけど…。」と、看護婦さんが言うと「緊張しても、しゃあないですやん!ひょっとしたらカーテンの向こうに、娘が予防接種に来てるんかも知れんのに、オヤジがカッコ悪い所を見せれませんやん。」と笑う私。
何だかアットホームな雰囲気で進行する摘出手術。
「よっしゃ!取れた!」と院長先生の声が。
「うわぁ!ほんまに大きいですねぇ…。」と、看護婦さんも声を上げる。
一体どんな物が摘出されたのか気になって「先生、どんなんですのん?見せて貰いたいんです!」と言うと「こんなん見たがる人は珍しいなぁ…。よっしゃ!」と笑顔でステンレスの容器に入った腫瘍を私の前に差し出す院長先生。
「うわぁ…大きいですねぇ…。僕らの仕事で言うたら鶏の砂ズリの大将みたいですやん!」と言うと「面白い事言わはるねぇ!でもね、これは砂ズリと違うて、中身は臭いでぇ!よっしゃ切ってみるから匂うてみ。」と、私の鼻先にメスで半分に斬られた腫瘍が入ったステンレスの容器を差し出す院長先生。
顔を少し横にして匂うと、何か肉の腐ったような匂いが鼻を突き上げる。
思わず「うわぁ!臭っさぁ…。」と、往年の吉本新喜劇を代表する喜劇俳優の名ギャグみたいな反応をした私に、院長先生と看護婦さんは笑声を上げる。
どう考えても、手術中と言う感じがしない。
患者をリラックスさせて、治療を行える。
「きっと、これが名医なんだろうな?」と、摘出が終わって縫合している院長先生を眺めながら感心する私。
「予定より少し時価が掛かりましたが、手術は問題ありません。麻酔は後一時間半から二時間位は効いてますが、その後痛み発熱する可能性があります。念の為に一晩入院されますか?」と院長先生が私に尋ねる。
「その方がええと思うんですけど、店が気になって…。注文している食材やら引き取りに行かないと迷惑掛けるから…。灘区まで車で移動して大丈夫ですかね?」
「うーん…大丈夫と太鼓判は押せんけれども、商売してはるからなぁ…しかし営業はしたらあきませんよ。この状態で立ち仕事は少なくとも三日は許可出来ません!店の用事が終われば速やかに自宅で横になって安静にしてください。そして、明日は必ず午前中に来院してください。化膿止めと解熱剤、そして鎮痛剤を処方しておきますので、必ず飲んでくださいね。後、食事は大丈夫ですが、お酒と入浴は控えてください。」
と院長先生。
「ほんまに大丈夫ですか?絶対に無理はしないで下さいよ?清算は明日によろしくお願いします。」と心配する看護婦さんに、努めて明るく「ありがとうございます!店に食材を運んだら直ぐに帰宅して安静にします。明日よろしくお願いしますね。」と話して、手術をした患部を気にしながら、手術着から私服へと着替える。
着替えながら「しもた…トレーナーとスエットで来たら良かった…何で隣の病院へ手術しに行くのに、革のライダース着て革パンツやねん…やっぱり俺はアホやわ…。まるでVシネマに出てくる腹を刺されたチンピラやがな…。こんなズボン履けるかいな…また家まで着替えに行かなアカンがな…。」と頭を掻きながら、ライダースを小脇に抱えて革パンツの鋲が一面に着いたベルトを外して、ボタンを外しファスナーを半開きにして、力が入らない身体でお世話になった病院を出て、フラフラと自宅へ戻る。
まだ誰も帰っていない。
時計を見たら長女が児童館から出る時間。
建物の四階に在る児童館に電話をして、私の身体の事情を話して、下まで降りて来るようにお願いをして出発。
車に乗ると、手術した患部に当たるシートベルトが恐くて着用出来ない。
「まぁ、しゃあないわな。」と言い聞かせながら運転して児童館に到着。
長女を下まで連れて来て下さった先生に丁重にお礼に言って、長女を車の助手席に乗せた。
「お父さん、今日病院行ってどうやったん?注射したん?」と、心配してくれる長女に「うん。注射もしたけど、お父さん今日手術してお腹切ってん。」と、着替えたトレーナーを捲り上げて、縫合されたばかりの腹を見せた。勿論厳重にガーゼを貼り、少しは動いても大丈夫なように包帯を巻いているが。
驚いた顔で見詰める長女。
少し顔が青ざめている。
「お父さん…お腹切ったん…?痛いのん?」と、青ざめた顔で言う長女に「うーん…まだ麻酔が効いてるから痛くは無いけどね。麻酔が切れたら痛いやろなぁ…でも大丈夫やで。悪いもん取ったし、お父さんは強いからなぁ!」と空元気で答える。
「お父さん…なんかお手々がグー出来ひんようになった…」と、真っ青な顔をして震える長女。
「大丈夫大丈夫!ちょっとだけお店行くから一緒に行こうな。着いたら買い物あるから、少しお手伝いしてな?」
「うん…」と長女は妙に神妙な顔をして助手席に小さく座っている。
気を効かせてテレビの子供番組をつける私。
やがて店に到着して、注文していた食材を引き取りに鶏肉屋へ。
鍋物やラーメンのスープに使う地鶏のモミジと呼ばれる脚の骨を十キロ引き取りに行くのが目的。
別に電話して事情を話してキャンセルしても良かったんだが、休業明けの仕込みに間に合わない事を恐れたのだ。
「マスター大丈夫!?そんなん言うてくれたら、どないでもしたのに…無理したらあかんわぁ…」と鶏肉屋のおっちゃんとおばちゃん。
「お嬢ちゃんもお手伝いに来たん?ええ子やねぇ!これオヤツにしいな!」と、店先に並ぶ鶏の唐揚げとロールチキンを長女に持たせるおばちゃん。
「おばちゃんありがとう!」と礼を言う長女を連れて腹を切った身体に、店に戻る歩いて五分程の距離が果てしなく長かった…。
顔をしかめながら店のシャッターを上げて、引き上げて来た地鶏のモミジを冷凍ストッカーに納めて店を出る。
「お父さんノド渇いたー…」と遠慮がちに言う長女が可愛らしくて顔を和ませる私。
私の店の上の階は、以前問題を起こした不動産会社が入っていたのだが、全てが露見して立ち行かなくなって倒産してからは、珈琲専門店が入っていた。
「上のお店でジュース飲もうか?ケーキもあるよ!」と長女に話すと、神妙な顔つきが一変して底抜けの笑顔に。
「そやな!この笑顔の為に頑張れるんやもんな!」と、思わず目頭が熱くなる。
私が入ると、私の店でも常連さんの風俗嬢がコーヒーを飲んでいた。
店のマスターが「マスターどうされました?今日は娘さんと?定休日では無いですよね?」と、少し怪訝な顔をしている。
「実は…」と、ついさっき腹部の手術をしてから入院しないで、店に食材を運びに来たと話すと、店のマスターと常連の風俗嬢が声を揃えて「ええー!そんなんアカンやん!」と叫んだ。
「そんなん一言電話してくれたら…」と言ってくれる気持ちは有り難いが、借りは作りたくない私の不器用さだ。
「いやぁ…そう思うたんですけど、マスターと姉ちゃんの顔を見とうて…」と濁す。
私はマンデリンコーヒー、長女はオレンジジュースとチョコレートケーキを注文する。
長女は幸せそうにチョコレートケーキを頬張って、「お父さん…チョコレートケーキ食べてオレンジジュース飲んだら酸っぱい…」と顔をしかめて、珈琲専門店の店主と常連の風俗嬢、そして私を笑わせている。
ケーキを満足気に食べ終えて店を出る頃に、「あっ!そうや!店先に臨時休業の貼り紙するのを忘れてた!マスターすんません…ちょっと大きめの紙を一枚と、マジックペンを…」と所望して、A3大の紙に「大変勝手ながら、本日から三日間、店主切腹手術をした為、臨時休業させて頂きます。」と、私を知るお客さん達から笑いでも取れたらと言う思いと、大した事は無いと言う意味を込めて、少しふざけた軽妙な言い回しの貼り紙を店先に貼った。
店主にお礼を言って店を出ようとした頃に、手術をした腹部が痛くなって来た。
まだそんなに痛みは強くなかったので、そのまま車に乗り込み出発。
途中のパンダが居る王子動物園近くに差し掛かった時に、シートベルトと携帯電話の検問に引っ掛かる。
勿論シートベルトをしていなかった私は、ホイッスルと誘導灯に強制されて路肩に。
指定された場所に停車すると「ご主人、シートベルトをされてませんでしたね!」と、少し笑顔で人を小馬鹿にしたような物言いの中年警官。
痛みもあり、少しムカッと来た私は「ああ、しとらんわ!シートベルトしとうても出来ん事情も有るんや!」と、少し強い口調で返答した。
「どう言う事か説明して頂けますか?」と、相変わらず勘に触る物言いをする中年警官。
私は上着を捲り上げて「ついさっき腹の手術して来たんや。これでもシートベルト出来るんか?そらあんた等はシートベルトしてへん人間停めて、罰金取るんが商売かも知れんけどな?へらへら笑いながら物言うんや無いで?あんた等人を疑うんが商売やろ?なんやったら包帯外して、切った腹見せたろか!?」と、ズキズキと痛む腹部を指差して話すと「大変失礼しました…しかし職務な物ですから…。」
「ちゃうやん!何で嬉しそうにへらへら笑いながら物言うたんや?」
「笑ったと言う覚えはありませんが、もし気分を害されたならば申し訳ありません…。」と、怒りと不満を抑えて頭を下げる警官。
腑と横を見ると、不安気な顔をした長女が。
「あっ。アカンアカン…。」と思い直して「もう行ってええんやな?」
「はい。どうか安全運転で…。」
不満気な警官に片手を上げて発車。
「お父さん…お巡りさん初め笑ってたよなぁ…。」と、細い声で言う。
「笑ってたね。だからお父さん少し怒った。君が大きくなっても、人にあんな風に笑って話をしたらダメなんだよ。」と、痛む腹を気にして長女に諭しながら、ようやく自宅にたどり着いた。
そして、まさに生き地獄の夜を迎える事になるとは、この時は全く想像していなかった。
「お父さん大丈夫?お腹痛いのん?」と、心配する小学一年生の娘に手を引かれて、ズキズキと傷む腹を気遣い、少し前のめりになりながら、自宅マンションのエントランスからエレベーターに乗り、ようやく自宅の玄関を潜った私と長女。
先に帰宅していた嫁さんと次女。「大丈夫?入院せんで良かったの?」と、心配そうに尋ねてくる嫁さん。
「うーん?一晩入院するかと言われたけど、注文してた食材があったから帰って来たわ。病院もすぐ横やしなぁ。先生も無理さえせんかったらと、許可してくれたわ。」
そんな私を見ていた次女が、私の元に駆け寄って来て「お父さんダッコ!」
「ごめん…。無理やわ…」
「夕飯は食べて大丈夫?」と嫁さんが聞くので「アホほど食べんかったら大丈夫やで。朝ご飯食べたっきりやからペコペコやわ…でも、風呂に入れないんが辛いなぁ…。早めに食べて痛み止めと化膿止めの薬飲むわ。切った所が痛とうて痛とうて…」と、話ながら、全く何も考えずに普段の休日の通りに酒屋さんから借りている生ビールのサーバーから中ジョッキにビールを注いで一気に飲み干す私。
それを見た嫁さんが「あっ!手術したばかりやのにビールなんか飲んだらアカンやん!」と、慌てて叫ぶ。
「あっ!ほんまや!完全に忘れてたわ…まぁ後一杯位大丈夫やろ?」と、呆れ顔の嫁さんを尻目に二杯目を中ジョッキに注いでいる、いい加減な私。
この私のアホな行為が暫くして、悲劇を倍加させる事になる。
夕飯を終えて、処方された薬を飲もうと紙袋から薬を取りだして、説明書通りに薬の封を開けて取りだしていると、化膿止めと発熱時に飲む解熱剤は入っているのだが、痛み止めが見当たらない…
「あれ?痛み止めが入ってへんわ…おかしいな?」とこぼすと、嫁さんが横に来て処方箋を眺めて「あれ?ほんまやな?痛み止めが入ってへんわ?病院に電話してみよか?」
「そうやな?今から電話するわ。」と、携帯電話から病院へ発信。
暫くコールするが出ない…。
「間違えたかな?」と思い、もう一度掛けるが出ない。
「おかしいなぁ…。ちょっとバルコニーから、病院に誰か居てるか見てみて。」と言うと、嫁さんがバルコニーに出て右斜めしたに在る病院を眺めて戻って来て「真っ暗やわ…」と言う。
「えっ!真っ暗?」
「私ちょっと病院まで行ってみるわ!」と家を飛び出した。
何故か一緒に長女もえらい勢いで飛び出した。
残った私と次女。
「お父さんお腹痛いん?飛んでけーしてあげるね。」と、近寄って来て私のお腹に手を当てて「痛いの痛いの飛んでけー!」と三回繰り返してくれるが、ズキズキ感は余り変わらない…。
十分程して、嫁さんと長女が戻って来た。
「やっぱり病院には誰も居ないわ…。入院するはずだったあなたが結局入院しなかったんで、当直の必要が無くなって帰らはったんと違うかな?救急病院や無いし…」
「そうかも知れんなぁ…。家に鎮痛剤ある?」
「私の生理痛の時に飲む痛み止めしか無いわ…」
「まぁ飲まんよりはマシかなぁ?とりあえず飲んどくわ…」と、病院で処方された化膿止めと、嫁さんの生理痛鎮痛剤を合わせて飲んだ。
「先に休むわ…」と、寝室に入ってベッドに横になろうとしたが、切ったお腹が更に裂けそうに痛むので、真っ直ぐ横にはなれない。
「こらアカンわ…ベッドに座椅子置いたらどないやろ?」と、寝室を抜け出して、リビング横の和室に置いている座椅子を取りに再びリビング
へ。
「どうしたん?」と、心配そうに尋ねてくる嫁さんに「うん、腹を真っ直ぐにしたら痛くて痛くて…。座椅子をベッドの上に置こうと思うねん…」
「あぁええかもね!ちょっと持って来るわ。ベッドに戻ってて!」
「すまんのぉ…」と腰を丸めて寝室に戻る私。
やがて座椅子を持って嫁さんが寝室に。
「座椅子に毛布を巻いとくね。この方が身体も痛く無いと思うし寝やすいかな?リクライニング調整するから、ちょっと座ってみて。」と促されて毛布を巻き付けた座椅子に座ってみる。
なるほど違和感無く腹部に引き吊るような痛いも余り感じない。
「ありがとう!だいぶ楽になったわ。何か有ったらすぐに言うてね!」と、寝室を出た嫁さん。
リビングでは二人の娘達が嫁さんに「テレビばかり観ないで早く食べなさい!」と、叱られている。
「嫁さんも大変やなぁ…俺と子供の世話をせなアカンのやから…」心の中で手を合わせた。
ズキズキと痛む患部に閉口しながら読書をするが、当然の事ながら全く集中できずに頭にも入らない。
「こりゃアカンわ。」と、本を置いて照明を消して眠る事に。
どうやら嫁さんと子供達は、入浴中のようだ。
三人でテレビ番組の歌を歌っている。
「あぁ…風呂に入りたい…いつ風呂に浸かれるんやろ?とりあえず朝は、シャンプードレッサーで頭を洗わないとな。」などと、考えるうちに眠気が襲って来るが、患部の痛みで眼はパッチリ開いたまま…。
同じ姿勢で居ると、背中が痛くなって来るので姿勢を変えようとすると患部に鋭い痛みが走って「オオオオオオ…。」と呻き声を上げてしまう。




