ANGEL
正月を嫁さんと二人、そしてもうすぐ産まれて来るパンパンに膨らんだお腹の中の、まだ見ぬ我が子とで過ごして、三日から仕事が始まる。
職場でも私の話す言葉の内容は、敢えて聞いていない子供の性別。
話しに付き合わされる人達も、今から思えば辟易しながらも浮かれた私に付き合ってくれたんだろう。
一月半ばに嫁さんが痛みを覚えて、大阪市内の病院へ入院する事になり、その旨が私の勤務先へ電話が掛かって来た。
「店長、奥さんから御電話です。」と、接客主任が繋いでくれ、出ると「だんだんとお腹が痛くなって来てん。まだかも知れへんけど、病院へ電話したら、入院の用意して来て下さい。って言われたんで、今からタクシー乗って行って来るね。」と言われて慌てる私。
「一人で大丈夫か?」と言うと、「お母さんが後から来てくれるから大丈夫やで。」とあっさり言われ、改めて出産時においての男の非力さをつくづく感じた。
その日は私の仕事は遅番で、店を出るのが22時位。
さすがに病院にも行けず、電話も出来ずに自宅でひたすら吉報を待つ。
朝迄電話は掛かって来ずに、翌朝は早番だったので朝七時には自宅を出て店へと出発。
全く落ち着かない。いつもの様に仕込み作業が捗らずに、パートさんからは「店長、気持ちが奥さんと産まれて来る子供さんに飛んで行ってはるなぁ。」と笑われて苦笑いしながら、何とか退勤時間である十七時半まで仕事を終えて、嫁さんが入院する病院へ向かう。
病院へ到着して嫁さんの病室に入り、嫁さんに「どない?大丈夫?」と話し掛けたが、何だか嫁さんの表情は暗く沈んでいる。
「どないしたん?体調悪いんか?」と心配になり聞くと、「恐いねん。今日の昼過ぎにな、貴方の会社の人から私に電話があって、あんたの旦那が鬱陶しいから奥さんのお腹を蹴りに行ったろか!って言うねん。私、恐くて恐くて看護師さんにその事を言うたら、此処は申請無しでは入れない様になってますが、万が一を考えて、警察に連絡だけはされたらどうですか?って言われてんけど、貴方の会社の人やし悪戯かも知れへんから、来てくれる迄待っててん…。」と怯えながら話す嫁さん。
それを聞いて、ピンと来た私。
今日は陰気な調理主任は公休日。
「誰かは大体解った。思いきり心当りが有る。ちょっと電話して来るわ。」と最近購入した携帯電話を握りしめて病室を出て、病院の外へ出た。
今までに覚えた事の無い凄まじい怒りが突き上げて来る。
足早に人気の無い場所へ行き、調理主任の携帯電話に電話する。
何回かのコールの後、調理主任が電話に出た。
「儂やけどな。今日、儂の嫁さんの入院してる病院に電話したんお前か!?正直に言いさらせよ。」と完全に怒気を隠さずに言った。
「店長。電話したんは僕ですけど、何でそんなに怒ってはるんですか?冗談ですやん…。奥さん退屈してはるかなと思って。」
その人を舐めた口の聞き方に、完全に頭の線が全て切れて当り構わず怒声を出した。
「ワレ何さらしとるんじゃコラ!オドレが何晒したんか解っとるんか!叩っ殺すど!今どこに居るんじゃい!今からオドレの居る所行ったるから逃げんと待っとけや!」と怒鳴り散らした私。
「ホンマに冗談やったんですわ…。そんなに気に入らへんねんやったら、クビにでもして下さいよー。あっ?でも店長の一存では、そんなん出来ませんねー」と、人を舐め倒した様な口調でへらへら言う調理主任。
「ワレ、何を眠たい事言い晒しとるんや。人をおちょくっとるんか?姿見えんかったら、えらいぺらぺらと良う喋れるやないか!オドレ、取り敢えず明日からは店に来んでええ。オドレ儂に殺されんだけましやと思とけよ。解っとんのかコラ!返事晒さんかいや!」と怒鳴ると、「店長、そんな本気に成らんといて下さいよー。すみませんでした。僕の冗談が過ぎたんです。」
「ワレまだ眠たい事言うとるんか?明日から来んな言うたら来んな。解らんかコラ?」
「はい、解りました。ちょっと冗談が過ぎました。でも僕が居らんかったら、シフト困りますやん。店長も休まれへん様になりはるし。」
「オドレほんまに、その良う回る口を針と糸で縫うたろか?来るな言うたんが解らんか?」
「はい。解りました。でも…」
「喋り晒すな言うたんが未だ解らんか?」
「すみません…。」
「明日から来るな言うたんが解らんのかい!おぉ!?」
「はい。解りました…。」
「次、いらん事晒しやがってみぃ。オドレほんまに明日無くなるど!」
「はい。すみません…。」
携帯電話を切った私。そのまま嫁さんの病室へ。
「もう大丈夫や。誰か解って話しといたから、安心してな。
ゴメンやったね。ちょっと店のアホとしっくり行かんで、その腹いせやわ…。」と、私が嫁さんに伝達兼謝罪。
まだ直ぐには産まれそうに無い感じなので、今回の事の顛末の報告と今後の対応の為にも、本社へ向かう。
本社に到着して、居合わせた直属の上司で有る地区長に今回の事のあらましを伝えて、「あのアホの顔を見たら、絶対ボコッとやってしまいますんで、出勤停止にしときました。」と話し、「ホンマにそんな事しよったんか?」っと、にわかには理解出来ない上司。
翌日陰気な調理主任は本社に呼ばれて、事の事実確認の上、出勤停止十日。調理主任から調理員への降格、そして転勤。
私に対する嫌がらせの理由が、「自分よりも後から入社したのに、店長になった事が気に食わない。」らしい。全くの子供の理論だ。
全く殴る価値も無い人間とは、こんな奴の事なのか?
まさに辟易した、この一件。
事が終わって夫婦二人、心底嫌な思いを何とか乗り切って、「そろそろな我が子。」に思いを馳せる。
産気付いていた嫁さんだったけど、すっかり収まってしまい一度退院する事になり実家へ戻る事となった。
落ち着かない私は、職場で意味もなくうろちょろうろちょろ。
私の母親と同年代位の接客主任が、「店長、こんな時は落ち着かないと!まぁ私の初めてのお産の時も主人は落ち着かないで電話ばかり掛かって来たけど。」と諭されるが、落ち着かない物は落ち着かない。
調理場で仕込みをしていたら、接客主任が、「店長、御電話です。」と呼びに来てくれた。受話器をとって電話に出ると義母からで「産気付いて病院に到着して、たった今分娩室に入ったよ!」と義母が言う。
「解りました!ありがとうございます!」と大きな声で礼を言って受話器を置いた私に、周りにいた全てのスタッフが「店長産まれたんですか!?」と聞く。
「いや、たった今分娩室に入ったみたいやねん!」と私が言うと、「店は大丈夫やから早く行ってあげて!」と言われるが、躊躇していると、「店長、僕が今日残るから大丈夫ですよ!行ってあげて下さい!」と転勤して来たばかりの調理主任が言ってくれ、そして他の調理場スタッフから「わっしょい!わっしょい!」と大きな声が上がり、それに推されて「ありがとう!行って来るわ!」と大きな声で礼を言って、まるで食い逃げして店から飛び出すかの様な勢いで、店を飛び出す私。
「駅構内の店舗で良かった!」と思いながら改札口に向かい、少しして到着した急行列車に飛び乗った。
病院が在る駅は五つ先。「もっと飛ばさんかい!」と思いながら、列車後方から乗車した私は、意味もなく前の車両迄移動したりする。
ついに病院の在る駅に到着、先頭車両迄移動していた私。出口に急ぐが出口は中央に…。全くの時間のロスだ。
目指す病院迄は徒歩十分程の距離。
ひたすら走って病院へ到着して、産婦人科病棟に急ぐ。
病棟に到着して詰所で案内して貰い病室に入ると、義母一人がいて、「少し前に生まれたよ!元気な女の子!おめでとう!今から会いに行こう!娘は今、産後の治療中。もうすぐ戻ると思います。」と義母。
急に目頭が熱くなり、上を向く私。
義母に従い新生児室に向かう。ガラス張りの新生児室を前に緊張していると義母が看護師さんに名乗って、十数名居る新生児達のベッドから、生まれてきた我が子のベッドをガラス越しの近い場所に移動して下さった。
いよいよ初めての我が子との対面に、猛烈な緊張感に包まれながらガラス越しにベッドに近付いて義母と共に覗き込む。
初めて出会った我が子。
どっと涙が出て、「ありがとう!ありがとう!お父さんやで!お父さん、一生懸命頑張るからな!」と我が子に呼び掛ける。
初めて授かった私の命よりも大事な命。
暫く声も出ずに食い入る様に我が子を眺めていると、看護師さんに連れられて、点滴をしたままの嫁さんがゆっくりと歩いて来た。
義母と私が同時に、「ありがとう!お疲れ様。大丈夫?」と嫁さんに声を掛ける。
憔悴しきった感じの嫁さんだったが、私達と一緒に生まれてきた子供を眺めて「こんにちは!これからよろしくね!」と子供に声を掛け、横に居た私は再び涙が止まらなくなった。
嫁さんを労り、余り長居しても成らないので、一時間程で病院を出て先ずは身内と職場に電話連絡を。
伯母に電話をして「さっき生まれたよ!」と話すと、「良かった!おめでとう!早く会いたいわ。」と喜ぶ声が。
そして父親に。父親は不在だったので、父親の妻に報告。
そして飛び出して来た職場に電話。
電話に出たのは接客主任。「店長どうでした!?」「うん、無事に生まれたよ!元気な女の子やった!」と伝えると、接客主任は大きな声で、店のスタッフに伝えている。
「営業中やろ…。」と苦笑いしながら携帯電話を持っていると、「ばんざーい!ばんざーい!ばんざーい!」と、店と受話器に鳴り響くスタッフのみんなの万歳三唱。
「今日はゆっくりと喜びを噛み締めて下さいね!」と接客主任に言われて、取り敢えず不在だった父親宅に向かう事に。
父親宅は、病院と私の勤務先とのちょうど真ん中の場所。
私が到着して少しして父親が帰宅してきた。
「女の子やて?可愛らしいやろ!お前もいよいよ父親になったんやから、もっとしっかりせなアカンぞ!しかしめでたい!よっしゃ、ちょっと行こか?」と父親宅近くの鮨屋へ。
店の暖簾を潜って店に入った瞬間に、店の大将に向かって「このアホにさっき子供が出来たんや!今日は祝いや!飲むで!」と大きな声で言う。
「こらおめでとうございます!盛大に飲んで下さい!」と大将。
店のカウンターに居た数人の客も、初めは父親の声に驚いていたが、「こらめでたいですな!おめでとうさんです!」と声を揃える。
刺身を肴に先ずはビールが数本空いて、熱燗に移行した頃に父親が「これからが、お前の人生の正念場や。先ずは嫁さん子供を大事にして、己は二の次や。儂はそれを出来んかった。そやけど気持ちは其所や。名前は考えたんかい?」と言うので、女の子ならと考えていた名を幾つかあげると、「うーん…。良う無いな。字が良う無い。これもパッとせん。お前センス無いな…。もしどないしてもと言うのんやったら、儂が考えてやらん事も無いけどな。」と好きな事を言う父親。
「ほんなら、どんな名前なん?」と聞くと、暫く考え込む振りをした父親が、「大将!紙と書くもん貸して!このアホの名付けのセンスが無いもんやから、しゃあないから儂が考えたるんや。」と相変わらずな事を言う。
大将も苦笑いしながらメモ用紙とボールペンを父親に手渡す。
カウンターのお客さんも相好を崩して話に聞き入っている。
大袈裟に眼をしかめて、保険会社の名前が入ったボールペンを握って、これまた別の保険会社の名前の入ったメモ用紙に書き込む父親。
「これでどないや。お前の嫁さんと儂の嫁さんの一字を取ったんや。色々ギクシャク有るけれども、この子が全ての架け橋になって皆が仲良く幸せに成るように念じて考えたったんや。画数も最高や!」
「このおっさん、画数何か今何にも見んとパッと考えられる訳が無いやろ…。思いっきり前から考えとったな…。しかし、良う見たらバランスも言うた感じもええな。一応候補に入れとこか?」と頭の中で考えて、「画数迄頭に入ってるんかいな?そやけどええ感じやな?」と、私が思いに少し変化を付けて言うと、「せやからお前はアホなんや。儂位の人間になると、名付けの親になって下さいと仰山の人間に言われるさかいに、頭に入っとるんや。当たり前の事や。」
鮨屋の大将も、カウンターのお客さんも声を出さずに笑っている。
「よっしゃ。今日は早よ帰って、儂が考えた名前を毛筆で半紙に百枚書いてみ。その素晴らしさにアホなお前の頭でも気付くと思うで。間違えても色鉛筆やらクレヨンで書くなよ。解ってるな!」と好き勝手を言う。
「大将おあいそ!」と店を出た。
店前で父親と別れ、私は駅迄歩いていたが、「このまま神戸まで帰るのもなぁ…。」思い、大学生時代のアルバイト先の先輩が営む居酒屋へとタクシーで向かう事に。
店に到着して入ると、突然の私の来店に驚く先輩。
「突然やな?どないしたん?」と先輩。
満面の笑みで、「今日子供が生まれてん!」と言うと、「これは目出度い!祝酒や!」と喜んでくれる先輩。
独身の先輩に、子供を持つ喜びを好き勝手に話ながら一時間半程で店を辞した。全く迷惑な話だ。
すっかり出来あがっていた私だが、何とか電車で寝過ごさずに帰宅。
自宅で独り、また喜びの酒を煽る私。
明日が遅番出勤で助かった。
翌朝、二日酔いでふらふらの状態だが、嬉しさを全面に打ち出しながら出勤。
まだ半分酔っ払った状態の中、店舗スタッフ皆さんの暖かい御祝いの言葉を受けて、また泣きそうになる私。
青息吐息で、何とか一日の業務をこなして帰宅。
翌日は公休日だ。
普段の公休日ではあり得ない早朝に目を覚まして、家の掃除をする私。
特にベビーベッドは、まだ入る主が居ないのだが薬品等を使わず磨きあげる。
鼻歌を歌いながら室内を掃除する様は、私を知る人達から見たら「こいつ、とうとう頭が…。可哀想に…。」と心配する程の不気味な光景に間違い無い。
退院しても、暫くの間は実家で過ごす嫁さんと赤ん坊なのだが、気の早い私は早々と部屋中を大掃除。
嫁さんの眼から見れば、百点満点で三十点程の掃除に「我ながら素晴らしい出来栄えや!流石は俺やな!」と勝手に自己満足に浸り「うん!うん!」と頷きながら、嫁さんの入院する病院へ車を飛ばす。
いよいよ生での御対面の時が来た。
早く会いたくて会いたくて仕方の無い癖に、わざわざトイレに立ち寄り身だしなみチェックをする私。
初めて我が子と直で接するのに少しでも身綺麗にと思い、私の自慢のリーゼントに乱れは無いかと鏡を覗き込む。
この時点で、我が子は眼が見えている筈もないのだが、そんな事は全く頭には無いアホだ。
詰所に立ち寄り、いよいよ嫁さんの個室のドアをノックして開けると、嫁さんがベッドで上半身を起こして赤ん坊に授乳中。
普段は見慣れている嫁さんのお乳だが、何故か妙に照れてしまい、ぎこちない動きで椅子に座る。
「体調はどない?大丈夫か?」と、少し緊張気味に話すと、「うん!大丈夫。まだちょっと痛いけど、赤ちゃん元気やで!よくお乳飲んでるよ!ダッコしてみる?」と嫁さん。
「えっ!?ええんか?大丈夫なんか?」と、激しく不安と期待に言葉と胸を震わせる私。
「いよいよ私の人生で、初めて我が子をこの手に抱く時が来た!
」と物凄く緊張しながら、授乳が終わり「ゲップ」が出るのを待って、いよいよ差し出された嫁さんの手から赤ん坊を受け取る私。ドキドキしながら、軽くて小さくて、とても良い匂いがする赤ん坊を受け取った。
「赤ちゃん、パパよ。初めましてーは?」と嫁さんが言った瞬間に、私の涙腺は崩壊。
それでも見栄っ張りな私は、「男が涙を流してる姿を観られたらアカン…。」と、前日も嫁さん、義母の前で涙を流しまくっている事を等忘れて、赤ん坊を抱いたまま嫁さんに背を向けて泣く私。
震える私の腕の中で眠る赤ん坊。
三千百五十グラムの小さな小さな命。
「どうか、どうか、勉強なんか出来んでもええ。元気で幸せに生きて行ってな!お父さんは、その為に命懸けで頑張るからな。ありがとうな。会えて嬉しいよ。ほんまにありがとう!」と、生まれて来た赤ん坊の小さな手のひらを、そっと握った。
二時間程を病院で過ごして、「明日は早番やから、また夕方に来るわな。」と名残惜しく個室から出た私。
そして車に乗り向かう先は、私達夫婦が震災の為に、予定していた結婚式場から急遽変更して結婚式を挙げた神社。
神社へ到着して、駆け足で石段を登り社務所へ走る。
宮司さんもいらっしゃり、「実は子供が産まれまして、どうか御祈祷をお願いしたいのです!」と伝えると、宮司さんは快諾して頂き、早速準備に取り掛かってくれる。
本殿に通されて祝詞が始まり、眼を閉じて頭を垂れて祝詞に心を合わせて聞き入る私。 また涙が流れ出す。
儀式が終わって、宮司さんから暖かい言葉と、御祝いを下賜していただき、満たされた心で帰宅。
帰宅して早速向かう先は「机」
正座して毛筆に握り締めて、心に決めた赤ん坊が生涯背負う「名前」を決める。
色んな候補があったのだけど、私自身が考えていた名前よりも、父親が言っていた名前が頭から離れず、余り気にしなかった画数等で全てにおいて良い名前を、長女に名付ける事にした。
用意した半紙に、下手くそだけど太く元気な書体で三文字の名前を書いた私。
そして退院の日。
黄疸が出て退院が一日伸びた事を除けば、何ら問題無く健康そのもので無事退院。
一日退院が延びた為、私が迎えに行く事は成らなかったけれども、義父が迎えに行ってくれて、そのまま暫くは実家で養生と生活をする嫁さんと娘。
私も公休日や早帰りできる日は、常に立ち寄り我が子の顔を見て「早く一緒に生活したいものだ」と帰り際には後髪を引かれる思いだ。
仕事の休憩時間には、今までは書店に行ったり昼寝していたのが、玩具屋やベビー用品店に通う様になる。
たまに書店に行けば、自らの為の小説等は見向きもせずに絵本や知育本等を買い求めて、独り住まいの自宅へ持ち帰って、独りで酒を飲みながら買い求めた絵本を見て酒を飲み、朝眼が覚めたらテレビのニュース番組を観るのが日課だったのが、「おかあさんといっしょ」を出勤前に観る様になった。もしも自宅に監視カメラがあって、第三者が私の自宅での姿を見ていたなら、さぞかし不気味な光景だっただろう。
一日も早い新しい家族での生活を指折り数える私。
半月程経って、いよいよ嫁さんと我が子が自宅に戻る日が来た。
義父母と義姉二人に丁重に礼を言って出発。
神戸の自宅に戻る前に先ずは、伯母宅へ。
「可愛い、可愛い!」と喜ぶ伯母に、「俺が生まれて来た時の方が可愛いらしかったやろ。」と聞くと、少し躊躇して「較べもんにならんわ-やっぱり女の子は可愛いわー」と言う。
「落ち着いたら直ぐにまた来ます。」と、一時間少しで伯母宅を
辞して、車で十五分程の距離に在る父親宅へ。
父親宅に到着して仏間へ通されると、えらい豪勢な雛人形がこれ見よがしに鎮座している。
私達夫婦が驚いていると、「どないや。凄いやろ!」と自慢気に言う父親。
「どないしたんこれ?」と聞くと、「アホんだら!お前の安月給やったら、こんな立派なお雛さん買えへんやろが!そやから儂が泣く泣く買うたったんや!どないや!」と自慢気に言う。
その横から父親の嫁さんが、「嬉しいてしゃあないねん。初孫やからなぁ。いよいよシルバーやわ。」と言うと、「アホんだら!こないな何の取り柄も能力もあらへんアホが父親で、この子が可哀想になったさかいに、せめてもお雛さんだけでも思うて買うたったんややがな!ええ車二台は買えるで!」と、大袈裟な事を言う父親。
一瞬眼があった私達夫婦。
お互いの頭には、「この立派過ぎる程立派なお雛さん、我が家の何処に飾って、どない収納したらええんや?一部屋潰れてまうがな。」と悩みの種が一つ出来た。
その立派過ぎる程立派なお雛様は、お宮参りが終わった頃に自宅へ送って貰う事にして、様々な祝いを頂いて念願の自宅へと向かう私達家族。
ついに我が家へと到着した改めての新家族三人。
私が抱いて、磨きに磨いたつもりのベビーベッドへ娘を寝かせる。
眠ったままの我が子。「ここが君のお家やで。至らん事ばっかりのお父さんやけどな、精一杯頑張るから宜しくね。君には決して、お父さんが体験した様な嫌な思いだけはさせないからね。一緒に小さくてもええから幸せに暮らそうね。」と、腫れ物を触る様に、恐々そっと頭を撫でて寝顔に見入る私。
熱くなる目頭を嫁さんに悟られ無いように、小さな掛け布団を小さな我が子に掛けて、もう一度頭を撫でる。
リビングには目新しい哺乳瓶やら紙オムツや様々な新生児用品が並び、大袈裟かもしれないけれども、それを見て決意を新たにする私。
私三十歳、嫁さん二十二歳の冬。
全てが、本当に幸せな毎日。
暫らくして、結婚式を挙げた神社でお宮詣り。
額に「小」と書かれた娘に眼を細めて、無事の成長と娘の幸せをき祈願。
つっけんどんな物の言い方しか出来ない不器用な私。涙や感極まった姿を見せない様、見せない様に自分自身の意味の無い矜持を何とか保ちながら、在り来たりな姿で写真を撮ったり乳母車を押したりする。
本当は抱き締めて走り回りたいのだけど…。
お宮詣りも無事に終わり、平穏な日常が戻る。
ベビーバスも役目を果たし、一緒に入浴できる事に喜びを感じて、哺乳瓶でミルクを与える事にも喜びを覚える。
嫁さんが昼間に徹底して外や部屋で遊ばせるので、夜泣きは余りせずに、たまに夜中に泣くと私は抱いて表に出て、あやしながら夜の風に当たるのも楽しみ。
職場も平穏で、何等問題無く順調な毎日。
そんな時に突然私に、転勤の話が突然舞い込んだ。
現在の店舗に店長として赴任して未だ一年にも満たず、やっと様々なドタバタから脱却して自らのカラーが出せ出した時での転勤。
そしてその赴任先は何と、以前居た神戸元町の店舗。
私が「店長殺し」と、傍迷惑な渾名を主任時代に付けられた店だ。
前任の店長が新店舗へと転勤をするので、夜間の居酒屋タイプの営業に慣れている私が選ばれた様だ。
馴染み深くて良く知ったスタッフばかりなので、転勤では無くて出張から戻る様な軽い気分の転勤。
日曜日が定休日でもあり、土曜日は昼過ぎ迄。そして自宅からは、原付バイクで通勤出来るのが実に嬉しい。
子供と過ごせる時間も増えるって物だ。
そして私の後任の店長との引き継ぎを終えて週末の土曜日に、赴任先の店舗へと向かい、良く知る前任の店長と適当な引き継ぎを終えた頃に、土曜日の営業が終わる。
そう。転勤前に目論んだ私の細やかな野望が成功した。
転勤前の水曜日が早番で、木曜日が公休日。
そして金曜日は引き継ぎだけにして、後の業務を後任の店長に任せて昼過ぎ業務を終えて、土曜日は午前中で引き継ぎを終え日曜日は店の定休日。楽だ!
そんな細やかな野望を達成して、半月程経った頃に更に嬉しい知らせが私に舞い込む。
嫁さんが妊娠。第二子を授かる事が嬉しくて嬉しくて、舞い上がる私。
私は長女を抱え上げて、「君にも弟か妹が出来るんやで!早くもお姉さんやな!」と、広くもない部屋の中を歩き回る。
周りからも「年子は初めは大変やけど、後は楽やで!」と、よくアドバイスされる。
嫁さん自身も、「二年続きで、服やら何やら必要な物はほとんど揃っているから楽やわ!」と、呑気な事を言うている。
月日が経つにつれて、長女を乗せた乳母車を押すお腹の大きくなった嫁さんの姿は大変そうだ。
「しんどかったら乳母車押して歩いて買い物に何か行かんと、車運転して行ったらええんやないか?」と見かねて私が言うと、「運動の為やねん。お医者さんからは、極力動いて下さいって言われてるから。肥ったらあかんし!」と言われて、「そんなもんなんや?しかし大変やな…。」と、何となく嫁さんに代わって夕食の用意をする私。
日曜日の休日には、自宅から近い須磨海岸の砂浜で長女を歩かせたり公園で遊ばせたりと、満たされた休日が続く。
「これが家族と言うものであり、これが普通の幸せなんだな。」と、今まで経験をした事の無い充実感と責任感が、私の背中をぐいぐいと押してくれる。
年の瀬も近づいて、いよいよ嫁さんのお腹も大きくなり、出産予定日は三月三日。
予定日通りなら桃の節句やな!等と、まだ性別も聞いていないのに期待ばかりが膨らむ。
そして元旦。
勤務先の店舗がオフィス街の為に、三が日は休み。
元日はまず朝一番に、嫁さんが長女の手と手を持って両手を合わせて、小さな神棚と仏壇に向かい「明けましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします!」と嫁さんと一緒に言おうとしているが、私には長女が「いろりーいろりー」と謎の言葉を発しているとしか聞き取れない。
そしてお屠蘇を頂き、私が言う仕込んだお節料理と真鯛の姿焼きを頂く。
長女はミルクと離乳食だが。
初詣は西宮市の甲山神呪寺へ参詣。
家族の安寧と第二子の無事出産を祈願する。
二日は父親宅と伯母宅、そして嫁さんの実家への挨拶回り。
ちょっとした強行軍だ。
まず父親宅では相変わらずの朝からの酒責め。
たいがい酔っ払って、昼過ぎに父親宅を辞して伯母へ。
伯母宅での滞在時間は約四時間程。
その間私は、ずっと昼寝。
そして嫁さんの実家と、近くに住む嫁さんの祖母宅へ新年の挨拶回りをする。
午後十時近くなり嫁さんの実家を辞して帰路に就き、帰宅するや否や親子三人は崩れ落ちる様に熟睡。
三日はもうゆっくりと、近場で買い物したり長女と遊んだりして
疲れを癒して、明日からの仕事に備える事に。
お腹の中の子も順調で、「長女の時より活発に動くわ。」と嫁さんが嬉しそうに言う。
「じゃあ、男の子かな?」等と勝手な妄想を膨らませる。
そしていよいよ産み月である三月に入り、予定日の三日は勤める会社の本社での月例会議。
嫁さんは数日前から実家に戻っており、再び暫しの独り住まい。
本社は大阪市北区に在るので、「会議が終わった位に産気付いてくれたら直ぐに行けるのにな?」と考えていたが連絡は無く、会議終了後は定例の飲み会へ参加。
「飲んでるうちに産気付いてくれたら、このまま行けるよな。」
まだ望みは捨てていない私だったけれども、飲み会も終わって其々の皆さんは帰路に付き、私も神戸方面の各店長達と戻る事に。
帰路の電車内で仲の良い、私の初任地である神戸三宮店の店長が、私に「ちょっと一軒付きあってくれよ。」と言う。
私も出産の事が気になったのだけども、「まぁどうせ帰っても一人やし。」と気軽に、「いいっすよ!行きましょか?」と。
二人で居酒屋に入り、その店長の私事の相談を受ける。
結構複雑な話に、気が付けば最終電車が無くなった時間。
「えらい飲んでしもたな。こらタクシー帰宅やな。ついでにラーメン食べて帰ろか?」と、居酒屋近くのラーメン屋へ。
ラーメン屋に入り二人でカウンターに座り、最初のオーダーは「ビールと餃子。」
結局また飲み出して、結構な量のビールと餃子等が消費されて、やっと〆のラーメンを食べ始めた時に、私の隣に座った数人の十代後半から二十歳位の柄の悪い兄ちゃんがラーメンを食べ始めた。
酔っ払っているのかいないのか解らないが、数人でラーメンを食べながら大声で話している。
「うるさい奴っちゃなー…。」と思っていると、私の隣の柄の悪い兄ちゃんが何かの会話が面白かったのか、大声で笑い出して、その拍子に兄ちゃんの口から食べているラーメンの咀嚼物が飛び出して、私の手に掛かった。
「こら兄ちゃん。喧しいだけやったら黙っといたるけどな、これは何や?これは?」と、我慢の限界を超えた私が言う。
まだ笑いの治まらない兄ちゃん、「あーごめんごめん!」と笑いながらニヤニヤとして言う。
兄ちゃんの隣に居た友達が、空気を察したのか「すんません!」と言うが、当の兄ちゃんは全く気付かずにケラケラ笑っている。
「こらワレ、どつかれとう無かったら出て行かんかい。薄汚い奴っちゃのう。早よ消えんかったらゴミ捨て場放りに行くぞ、このアホ。」私が言うと、アホな兄ちゃんの友達が「すんませんでした。」と不満気なアホの手を引いて店を出た。
「ほんまに汚い難儀な奴っちゃなー」と話し合って、ラーメンを食べ終わって「さっきの店で払って貰ったんで、ここは僕に払わせて下さいね。」と会計に向かう私。
先輩店長は「外で待ってるわー」と先にドアから出た。
会計を済ませて店の外に出ようとすると、何やらえらい騒がしい。
「なんやろ?」と店を出たら、先輩店長が先程のアホな兄ちゃんと、友人達五人程に絡まれて殴られている。
先輩店長の眼鏡が歪んでいるのが眼に映り、不謹慎にも笑ってしまいそうになるが、「そんな事を言うてる場合やないがな…。」と思い直して先輩店長を殴っているアホな兄ちゃんの鼻の正面から体重の掛かったストレートを一発。
アホな兄ちゃんは、派手に鼻から飛び出る血と涙が止まらん程の痛みにしゃがみ込む。
大人数相手の時は、勢い一発に限る。
次は先輩店長を羽交い締めにしているアホな兄ちゃんの友達。「殴る、蹴る、殴る、蹴る」の繰り返しで「すみません」と言う。
よく謝る奴だ。
「よっしゃ!もう一息や!」と三人目に向かい、「こらワレ、オドレ等誰に喧嘩売っとるんか解っとるんか!本チャン相手にしとるんやど!連れて帰ったろか?」と、適当なハッタリをかます。
三人目の兄ちゃんも「すみません…。」と言い、「そろそろ終わりかな?」と思っていた所へ、私の真後ろから背中を目掛けて飛び蹴りして来た奴が居た。
不意に真後ろから飛び蹴りを喰らって身体がぐらついていたら、飛び蹴りして来た兄ちゃんが、次は私の正面から飛び込んで来た。
これには私もバランスを失って、仰向けに倒れ込んだ所はスナックの派手な電飾看板。
電飾看板に倒れ込んだ私。背中がチクチクするが、不意を喰らい一気に上がったアドレナリンは、それを意にも介さず一緒に倒れ込んだ兄ちゃんの髪の毛と首根っこを掴んで、電球が割れてささくれ立っている電飾看板に兄ちゃんの顔を近づけて、「この看板に顔突っ込んだろか?」と言うてる所へパトカーが二台来た。
いきなり警官に取り囲まれて、取り押さえられた私。
「こら!勘違いさらすな!わしゃ被害者や!」と叫ぶが、にわかには信じて貰え無い。
壊れた電飾看板のスナックのマスターとママさんが出て来て、「私が殴られているもう一人の人を助けようとしてた。」と証言してくれ、通行人からも同様の話が得られて何とか信用してくれてホッとした私。
合計六人居た兄ちゃん達の内、私が取り押さえていた一人を除いて逃げ散っていた。
顔から血を流した兄ちゃんは、パトカーに乗せられて事情聴取を受けている。
私と先輩店長も事情を聴かれたが、六人の柄の悪い兄ちゃんが二人の会社員に絡んだ事に変わりは無いが、警官からは「ちょっとやり過ぎですわ。」と言われて苦笑いを。
この件で一時間半程を費やして、タクシーに乗って帰宅したのが午前三時頃。
帰宅した途端に身体中が痛みだしてコートを脱ぐと、コートには多数のガラス片や、電飾看板のアクリル板の破片が突き刺さっていて、それが背中のチクチクした痛みの原因だった様だ。
スーツも脱いで上半身裸になって鏡で背中を見ると、至る所に傷が出来て血が滲んでいる。
拳も傷だらけ。最初の兄ちゃんの顔面を殴った時に、兄ちゃんの歯などで出来た傷。
滲みる痛みを堪えながらシャワーを浴びて、「ほんまにえらい目におうたな…。」と貼れる範囲にネット包帯や絆創膏を貼り、「明日は仕事が半ドンで良かった…。」と少し仮眠をしていると、電話の呼び出し音で眼が覚めた。
「何やねん!今寝た所やのに…。」と、内心毒づきながら受話器を取ると、義母からの電話で「たった今、分娩室に入りました!」と。「えっ!解りました!今から直ぐに行く様にします!」と私。
すると義母が、「今日はお仕事と違うの?仕事を優先して下さいね。娘には私が付いてますから!」と。「今日は土曜日で昼過ぎ迄の営業なんですよ。営業が終わったら直ぐに行くか、人の手配が出来たら向かいます。」と答えて電話を切った。
こうなればじっとして居られない私。
様々な事を普段は出来ないスピードで考えて、他店の社員シフトを頭の中で繰って「あっ!あいつ今日は公休日の筈や!」と夜明け前であるにかかわらずに、後輩社員に電話をする私。
案の定寝ていた後輩君。
寝ぼけた声で、「おはようございます…。どないしはりました?」と。「朝早ようごめんな…。実は今、嫁さんが分娩室に入った言うて、義母から電話あったんよ。ほんまにごめんやけど、今日の昼過ぎ迄俺の店を見とってくれんかな?」
「そら大変ですやん!僕、店行きますから直ぐに奥さんの所へ行ってあげて下さい!」と後輩君。
「ほんまにありがとう!ごめんな!ほんなら今から病院行って来るわ!」と心から後輩君に礼を言って、家を飛び出した。
午前七時頃に、嫁さんが入院する病院へ到着。
案内された病室へ駆け込むと、嫁さんがベッドに寝ていて義母が付き添っていた。「産まれたよ!元気な女の子!今は新生児室に居るよ。一緒に見に行こう。そやけど一体どないしたん?その顔と手の傷……?」
「いや…。ちょっと人助けを…。」「どんな人助けしたん?」「六人の柄の悪い若者からオヤジ狩りに遭っていた先輩店長を助けたんやがな…。」と詰まりながら答える私。
嫁さんと義母は、顔を見合わせ苦笑いしながら私と共に新生児室へ。
いよいよ第二子との初対面の時。
「とうとう俺も二児の父親か!もっとしっかりせんとあかん!」
と、少し切れて腫れた顔を両手でパチンと叩いて新生児室のベッドで眠る第二子と対面。
長女も色素が薄いのか、眼は茶系で髪は茶色だったのだが、次女は更に金髪だ。「これは全く嫁さんからの遺伝やなぁ」と感心しながら、産まれたばかりの次女の顔を覗き込み、「おはよう。初めまして。あなたのお父さんです!お父さん、これからもっともっと頑張るからね。君も頑張って一杯食べて遊んで、明るく元気で大きくなってな!」と囁くのが精一杯。
人前で泣いたらあかん。と思うのだが、堪えきれずに流れる涙はどうしようもない。
嫁さんに「ありがとう、ほんまに御苦労様。身体は大丈夫か?」と言うと、「こんなに安産やとは思えへんかったわ。あっ!陣痛が来た!と思って看護師さんに連絡しようとしたら、これはアカン!と思って分娩室へ手で押さえながら走って、慌てて分娩台に乗ったら、ずるっと産まれたよ!」と、長女の時と比べて余りの安産に驚いたように話す嫁さん。
私もその様子にホッとして、「良かった!」と嫁さんの手を握る。第二子、体重は2850グラム。
長女の時よりも少し体重は軽いが、真っ赤な顔をした健康そのものと言った感じの赤ちゃん。
病院には二時間程滞在して、仕事の事もある為に大阪から神戸に戻る。
勤務する店に到着して、私のピンチヒッターに来てくれた後輩君に礼を言って、本社に連絡をして直属の上司に連絡。
「月曜日からは通常通り出勤させて頂きます。急にご迷惑掛けてしまいまして申し訳ありませんでした。」と報告して帰宅。
嬉しさと寝不足が動じに私にのし掛かり、そのまま熟睡。
年月が経った今でも、当時の皆と飲む時には話しに上る「大乱闘事件」
新たに次女を加えて四人となった私達家族。
自身の命よりも大事な人間が三人になった事で、ますますの責任感と幸せが私を包み、その為にはますます仕事において前に向かって歩を進めなくては成らないと、改めて決意をした私。
そして次女の命名を。
長女は父親の考えた名前がぴったり来たので、今回は私が約二ヶ月の間悩みに悩んで考えた名前。
春に生を受ける次女に、今から暖かくなり山や海全てが色づき、動植物の命が息吹くと言った感じの名前にしようと考えに考えて名付けた名前。
漢字では何かしっくり来なかったので、ひらがな三文字の名前に決定した。
この頃の私は、以前からの夢で有り目標であった飲食店の独立開業から、「このままこの会社で、上を目指すのも悪くは無いかも知れないな?」とも考える様にもなっていたが、当初からの夢である独立開業の道も捨てがたく、二股の道の岐路に立っていた。
次女の誕生から二ヶ月。すくすくと健康に育つ次女。
長女も片言ながらも言葉を話す様になり、毎日仕事から帰って寝顔を見る事が最大の楽しみ。
休みの日には相変わらず、近くの海の砂浜で子供たちと遊ぶのがお決まりだ。
家族と一緒に潮の香りを吸い込みながら海を眺めていると、何とも言えない安らいだ気分になれる。
私が勤務する会社は第二金曜日が、定例会議が大阪の本社で開催される。
次女が産まれた日の明け方に起こった乱闘騒ぎも、この会議が終わった後、飲みに行った帰りの事。
そして今回もまた…。
本社での会議は午後三時から始まり、全体会議から各地区毎に別れての二部構成の会議を午後六時半頃迄行い、その後は仲の良い各店長やら本社社員達と飲みに行く。
私は毎回参加組だ。
だいたいいつもは午後九時頃迄飲んで、それぞれ家路に就くのだけれども何軒か回る事もある。
その日は大阪の本社近くで一軒、そして神戸方面の仲の良い店長と神戸三宮で一軒に飲みに行き、仕事の話が中心だったので、そんなに深酒もせず酔っ払いもせずに解散。
ほとんどが仕事の話で余り箸も進まなかった私は、解散して電車に乗った途端に空腹を覚えてJR神戸駅で下車して、一人でラーメン屋に行く事にした。
ラーメン屋に向かって高架下の道を歩いていると、悲鳴と怒鳴り声が。
「一体なんやろ?」と、声がする方へ歩いて商店街へ入る角を曲がると、中年の男が仰向けになった女性に馬乗りになって、大声を出しながら殴り付けている。
私は驚き眼を凝らすと、男は片手に包丁を握っている。
「これはアカン!大変や!このままやったら女の人が殺されてしまうがな!今から警察呼んでも間に合わんやろうし、一体どうしたらええんかな?そうや!あの男は、俺に気付いてへんから、後ろから周り込んで包丁を取り上げたろか?」と考えて、男からの死角に周り込んで近付く。
その間も男は、何か訳の解らない怒鳴り声を上げて女性の顔面を殴り続けている。
背中を向ける男迄、後三メートル程迄に近付いた私。
「よっしゃ!もうちょっとや。今助けたるからな!」と思いながらゆっくり近付く私の姿を認めた、殴られている女性が突然「助けて!」と私の方を向いて叫んだ。
その瞬間殴り続けている男が手を止めて、私の方を振り返った。
「えらいこっちゃ!どないしよ?走り込んで包丁を奪うには距離あるな…。飛び蹴りも避けられたら悲劇しか無いし…しゃあない。こっちに向かわせたれ!」と考えて、「こらおっさん!何を女の顔を殴っとんねん!情けない奴っちゃの!」と男を挑発すると、男は一気に立ち上がり、訳の解らない事を叫びながら包丁をかざして私の方に走って来た。
ここで初めて男の顔面を見た。眼の焦点はあっていずに口からは泡の様なものを吹いている。
そして私を目掛けて、包丁の刃先を向けて走り出した男。
「この男、クスリか何かやってるのか?眼が尋常ではないな!」と思いながら身を避けた私。
男は包丁で私を突き刺す様に突進して来る。
「こらアカン!真剣に刺す気や!振り回すだけなら大して脅威や無いけど、突くのはアカン!一端離れなえらい事になるがな!」と、持っていたビジネスバッグを力一杯、男に投げつけて首の辺りに命中。
その間に私は走って商店街の入口から出て、停車しているタクシーに飛び乗った。
「えらい事件や!包丁持った男が暴れとる!直ぐそこの商店街の入口迄行って!」と叫びながら携帯電話を取り出して110番に電話。
タクシーの中から見ると、男は倒れている女性に再び馬乗りになって、包丁を持ったまま女性を殴り付けている。
「商店街の入口で、包丁持った男が暴れて女性に馬乗りになって投げつけてる!あっ!今包丁を持ったてで殴り出した!刺してるかも知れん!私もさっき止めに入ったけど、包丁で刺しに来たので走ってタクシーに身を避けたんです!早くお願いします!」と携帯電話に叫ぶ。
警察来る迄に女性が殺されたら大変やと、タクシーの運ちゃんに千円渡して、タクシーを降りて男に再び近付く私。
「こらおっさん!」と叫びながら挑発して身構える。
男は相変わらず意味不明な事を発しながら、私には気付かないのか女性を殴り付けている。
其処へ七~八名の警官が、長い棒状の物を手にして駆け付けて、一斉に男に飛び掛かった。
あっと言う間に絡め捕られた男。身動き出来ない様に固定されている。
通報者でもある私が状況説明を始めた頃に救急車が到着。
女性は顔から血を流しているが意識ははっきりしている様だ。そして警官と救急隊員に何かを叫んでいる。
「勝手な事せんといて!なんやのんアンタ等!」その様子を見て「可哀想に、何が何だか解らなくなっているんやろな。」と眺めていたが、どうも感じが違う。
女性が救急車で搬送される迄に警官が双方からの話を聞いた結果、「お互いが泥酔した上での夫婦喧嘩」である事が判明。
男は包丁を振り回し私に向かって来た為に、「銃刀法違反、傷害容疑」で連れて行かれた。
この夫婦、現場すぐ近くで理髪店を営んでいるらしい。
私に事情を聞いていた警官が、「大変でしたね。どう見ても夫婦喧嘩には見えないですね…。」と、えらい同情されて、「後日また、事情をお伺いするかも知れません。その時はご協力お願いいたします。」と言われたので、私の身分証を出して漸く一件落着。
既に電車も無くなり、仕方無くタクシーで帰宅。えらい散財だ。
約十日後に警察から私に電話が有り、「先日の件で当事者夫婦が謝罪と私のビジネスバッグ等の弁償及び最終確認をしたいので、御都合の良い日に警察署迄御足労願えませんか?」との事。
「邪魔くさいなー」と思いながら数日後を指定して、仕事の早番上がりに警察署へ。
部屋に通されると、担当警官二人と問題の夫婦が。
先日の狂乱している時とは見違える程の神妙さに、人格を疑う私。
美麗字句を並べて謝る夫婦には溜息しか出ない。
もともと事を大きくする気はなかったのだが、取り敢えず「おたく等見てたら、気軽に散髪にも行けませんわ。何とかに刃物言いますわな。」と軽く挑発。
男の顔面がひきつり、頬が痙攣しているが如何ともし難い様子。
警官に当時の事情を聴かれるがままに話して、ビジネスバッグの弁償だけをして貰い、後の謝罪の品は、警官に断りその場でグチャグチャにして「私の気持ちですわ。お返ししますんで持って帰って下さい。」と男に言った。
振り回していた包丁は、銃刀法違反に触れる刃渡りよりも一センチ足りないらしいとの事で、やるせない気持ちで一杯だ。
「もう帰っても宜しいですか?」と言って足早に警察署を後に。
しかしまぁ本社での会議の後の飲み会に参加した後は、難儀な事に巻き込まれてしまう私だ。