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親子迷路 (風が強い日)  作者: 山口 浄
3/38

CHAOS

昭和四十年代前半に、大阪府の北部の公営住宅で私は生まれた。

物心ついた時には、両親の姿は其処には無く、祖母と伯母の二人の手で育てられた。

私を産んだ母親の顔は知らない。

私の生い立ちを貼る写真アルバムには、切り取られた写真が複数枚貼ってあり、きっとその切り取られた部分に私の母親が写っていたのだろう。


伯母は父親の姉で、ほかに父親を含めて五人の兄弟がいた。

父親は七人兄弟の末っ子で、私が生まれて直ぐに離婚。

そして二年後に再婚。

私の存在巡り伯母兄弟が、よく揉める様になる。

私が幼稚園に上がる少し前に、祖母宅で開いた親族会議で、次兄が「こいつが居るから話がややこしくなるんや!」と私の首を締めた。

苦しく、恐く、泣き叫んでいた所を、祖母か誰かは覚えていないが「この子が何をしたんと言うのん!」と、父親の次兄の手を身体で振り払った事だけは鮮明に覚えている。

その場には父親の姿は無くて、当事者抜きの親族会議。

この親族会議には、父親が呼ばれなかったのか、呼ばれたけど来なかったのかは全く知らない。


私は祝福されずに厄介者として、この世に生を受けたのかも知れないと常々そう思っていた。


父親は時折姿を見せるが、長居する事無く直ぐに帰ってしまう。

周りの人間が、何か私を好奇な眼で見て、「普通では無い存在」と言う位置に置かれたような感じは、子供心にも十分理解していた。


やがて小学校に入学。

私が小学一年生の時に伯母が遅い結婚をし、小さな公営住宅の我が家に見知らぬ叔父さんが同居する様になり、ますます狭く感じる様になる。


人見知りする私は、中々叔父さんに打ち解ける事が出来ず、結局私は叔父さんが亡くなる大学一年生迄、「叔父さん」とも「おっちゃん」とも一度も呼ばなかった。

いや、呼べなかった。


暫くして、私の実の父親は同時期に三度目の結婚をして私を引き取るべく、行動を起こした。


確か私が小学一年生の寒い冬の日。父親が酒を飲んで夜中に電話して来て、祖母と伯母を受話器越しに私に聞こえる程の大声で罵る父親。

「なんで俺を産んだんや!」

その言葉が今でも頭にこびりついて離れない。

漸く祖母が受話器を置くと、悲しい声で「来るで」と伯母に言う。

暫くすると自宅前に、乱暴に車を停める音が。

激しくドアを叩く音。

祖母が仕方無くドアを開けると、酔った父親が大声を上げ、怯える私の手を引き連れて行こうとする。

「嫌がって泣いてるやないか!」

「止めたりいな!」と祖母と伯母は止めようとするが、酔って興奮状態の父親の耳には入らない。

それは恐ろしい眼で、祖母と伯母を睨み付けている。

その眼が堪らなく恐い。

叔父さんはと言えば、どのような思いがあったのかは分からないが、知らぬ顔をして出ては来ない。

強引に父親の車に乗せられた私。

車の中でずっと恐くて泣いていた。


怖かった。あの時は本当に怖くて、殺されると言う意識は持ち合わせない年齢だけれども、今まで寝ていた状態から、叩き起こされて酔っ払った自分の父親が怒鳴り散らして私の手を掴み、半ば強引に自らの車に押し込んで、乱暴な運転で走り出す。


その時何故に親代わりである祖母と伯母が、身を挺して守ってくれ無かったんだろうと、この出来事から何年かして物心がついた時にそう思った。



強引に車に乗せられて、やがて父親の自宅に到着して応接間に通された私に、父親の新しい嫁さんが出て来て「此処があんたの本当の家やねんで。」と、私には訳の分からない事を平然とした顔で言う。

小学一年生の私にも、余りの不条理さに泣いて怒り、「此処に住むのん何か嫌や!学校も歩いて行かれへんし、友達とも遊ばれへんやん!」と必死で訴えた。

「お父さんが毎日、車で学校迄送ったる。友達と遊び終わったら、車で迎えに来るから。」と言う父親。


「そんなん嫌や!学校に車で登校したら、先生に怒られんねんで!絶対嫌や!」と声が枯れても泣いて大声で訴えた。

一体どれくらい時間が経ったのか全く覚えていないが、父親と新しい嫁さんがお互いの顔を見合せて、首を振った。

「分かった。じゃあお婆ちゃんの家に帰るか?」と聞かれ、思い切り首を縦に振った私。

祖母宅迄の車中、ほとんど会話が無く、父親の眼には涙が出ていた様に思う。


その涙の真意は何なのか。

私には現在でも、その時の父親の真意は解らない。

様々な解釈のしようはあるが。


何とか元の暮らしに戻った私だっだが、父親からの私の引き取り要請は終わらず、暫く経ったある日曜日に、伯母と叔父さんとでスーパーマーケットへ買い物に出掛けようとした矢先に、父親の車が自宅前に停まる。

昼間っから酒を飲んだのか、土足で自宅に上がって来て、祖母と伯母を大声で激しく罵る父親。

小学生の私には聞いた事の無い嫌な言葉を叫び立てる父親。

余りの事に見兼ねたのか、我慢が限界に来たのか、大工の叔父さん。仕事で使うノミを握り締めて関東弁で、「いい加減にしろよ!殺してやるよ!」と叫ぶ。

「やるんやったらグダグダ言うてんと、来さらんかい!」と父親。

「帰り!こんなんされたら此処に住まれへん様になるがな!この子が困るやろ!」と祖母も怒鳴る。

「じゃかましいわい!おどれ等に、わしの気持ちが分かってたまるか!」と捨てセリフを叩きつけて立ち去った父親。

呆然とへたり込む四人。


「あぁ恥ずかしいなぁ…。近所に恥ずかしいて住まれへんわと、私が内心で思っていた事と同じ事を言う伯母。

買い物に出掛ける気力も無くした私達。

ほんまに暫く呆然としていた。

其処へ再び父親の車が停まる。

私達全員が身構えていると、見たくもない車から出て来たのはお腹が大きくなった父親の嫁さん。

「お義母さん、お義姉さんすみません。」と謝っている。

「もうええから、来ささんといて。ほんまに堪らん。あんたも早よう帰って。」と祖母。

確かこの日を境に、父親が怒鳴り込んで来る事は暫くは無くなった。

だがそれは、ほんの暫くの日々。


現在となっては「たられば」でしかないのだが、この辺りからの私が身をもって感じた事が、これからの中々本心を言えない、常に一歩引いて遠慮をしてしまう性格の自分の始まりだと思う。


何故あの時、父親は泣いたのか?

そしてそれよりも何故あの時に、父親の車に乗せられて行く私を仕方無くと言った風に差し出せたのか。

現在三人の父親となった私にも理解したくはないエピソードである。


きっと、お互いが私には決して言えずに墓場迄持って行く様な思惑なんかが有ったのかと思うが、私にとれば迷惑な話だ。

お互いが、純白な発露で行った事では決して無いと信じる。


そしてこの頃の私の悩みは、私を育ててくれた伯母が結婚をした事。

まだまだ小学校一年生の私は、どのような仕組みで赤ん坊が産まれて来るのかは勿論理解などしておらず、ただ単に「結婚」をしたら自動的に赤ん坊が産まれて来ると信じていた。

なので伯母が結婚した事により、私が暮らすこの家にも赤ん坊が出来るんやろうな?と漠然と考える様になり、それと同時に「自分は伯母の子供ではない。」と言う事は理解していたので、「ボク、何処かへ捨てられるかなぁ…。お父さんの所は絶対嫌やし、あの新しい恐いお嫁さんが来て、もうすぐ赤ちゃんが産まれるって言うてるし…。何処かの親戚に預けられるんかな?それとも川とか山に捨てられるのかなぁ…。」と、毎日くよくよと悩んでいた。

それが本当に恐くて、深夜寝ている最中に魘されて目が覚めたら祖母と伯母が、私の顔を覗き込んでいると言う事もしばしば。


結婚した女の人は、お腹に赤ん坊が宿って段々とお腹が大きくなって、ある日突然にお腹からひょっこりと産まれて来ると信じていた私は、肥満体と言っても過言ではない伯母のふくよかな腹部を眺めては、くよくよと自分の行き先を想像しては「ボクの本当のお母さんって、どんな人なんやろ?死んじゃったんやろか?」等と考え悩む毎日。


この事から得た私の私自身への教訓は、「もし、揉め事が有って両者の言い分を聞いても、決してどちらにも寄らずに「足して二で割る。」の考えを得た。

人とは誰しも自分を庇う物だから、言い分にも必ず少しの脚色があるのではないか?と自らへ結論付けたのだ。


そんな頃、一つの大きな悲しい事件が起こる。

小学一年生だった私は、登校して授業を終えて友達と三人で下校。

一人は学校から近い場所に自宅が有り、私ともう一人の友人は学校からは離れた場所に住んでいた。

三人で「ランドセルを置いたら遊ぼう!」と約束して、私と近くの友人は自宅にランドセルを放り投げる様にして、学校から近い場所に住む友人の自宅へと向かった。

それぞれの家から持ってきたお菓子を食べたり、途中に在る川を覗き込んで、カエルを見つけては捕まえようと走り回ったりしながら漸く友人宅に到着。

インターフォンを押したが返事が無い。

友人と二人で何度も何度も押したが無反応。

「おかしいな?待ってるよって言ってたよね?」と、二人は顔を見合わせて、「聞こえへんかったんかもしれへんなぁ。庭に入って呼んでみよか?」と、門を開けて友人宅の縁側にある庭に向かった二人。

「あーそーぼーっ!」っと、二人声を揃えて大きな声で何回呼んでも返事が無い。

そうこうしている内に、隣に住むおばちゃんが塀越しに顔を出して「あんたら煩いなぁ!どないしたん?」と言うので、二人で事情を話すと、「ちょっと前に学校から帰って来てたから居る筈やで。どれ、ちょっとおばちゃんが呼んであげよ。」と、隣家のおばちゃんが友人宅の庭に入り、「テレビでも見てて聞こえへんのん違うか?」と言いながら縁側の硝子障子を覗き込む。

覗き込んだおばちゃん、「あれ?誰か寝てるわ。あぁ奥さんとボクが昼寝してるんやわ。」と言ったその時、覗き込んでいた隣家のおばちゃんが、「あれ?えっ?あんたら二人、ちょっと離れなさい!」と強い口調で叫んで、庭の洗濯物干しの横にある植え込みに置いていたブロックをいきなり持ち上げて、硝子障子に叩き付けたおばちゃん。

硝子が砕け散る派手な音がして、辺り一面に硝子片が飛び散る。


私と友人は驚き顔を見合わせた。「おばちゃん頭おかしくなったんや!」と恐怖に尻込みする二人。

すると、物凄く恐い顔をしたおばちゃんが「あんたら庭の隅の方迄行って、じっとしとき!おばちゃんええ言う迄絶対に動いたらアカンで!」と叫んで、隣の自宅へと走り戻った。

一体何が起こったのか全く理解出来ていない小学一年生の二人は、おばちゃんの剣幕と砕け散る硝子の派手な音に震えるばかり。


直ぐに戻って来たおばちゃん。友人の家に土足で上がり込み、何やら懸命に呼び掛けている。

暫くすると救急車やらパトカーのサイレンが鳴り響いて、私達の居る友人の自宅前に停まる。

警察官やら救急隊員が一斉に私達の周りに来た。

私と友人は驚き震え、「あのおばちゃんが硝子割ったからパトカー来たんや!ボク等も捕まるんやろか!?」とガタガタ二人で震えていると、一人の警察官が私達の所に歩いて来た。

「ボク等ちょっとええかな?」と笑顔で話し掛けて来るが、「捕まったら死刑にされるん違うか?」と勝手に私達二人は思い込み、泣きじゃくった。

困った顔をした警察官、「ボク等ちゃうちゃう!ボク等は何にも悪い事何かしてへんやんか。おっちゃんは何にもボク等に怒ったりしてへんねんで。ボク等は此処のお家の友達と遊ぼ思うて来たんやろ?そやけどな、今日はちょっと遊ばれへん様になったから、今日はボク等のお家に帰って勉強していてくれへんか?」と言う。

私達はガクガクと頷いた。「ボク等、お家は近いんか?」と聞かれたので、住んでいる町名を言うと「ちょっと離れてるなぁ、よっしゃ!今日は特別に、おっちゃんがパトカーでお家迄送ってあげよ。」と言う。

「パトカー!やっぱり警察署に連れて行かれるんや!恐い!」と再び泣き出した二人。

困った顔をした警察官は、「ちゃうちゃう、ボク等は今日な、ええ子で居ったご褒美に特別にパトカーに乗せたるんやがな!」と笑顔で言う警察官に安心した二人。


少し心を許した警察官に、「ボクの友達どうしたん?病気なん?」と聞いた私。

警察官の表情が少し曇り、「そうなんや。ボクの友達が急に病気になった言うて、あのおばちゃんから電話があったから、おっちゃん等が急いで助けに来たんやで。」と言われて、何となく「「病気になったんや。」と納得した様な出来ない様な感じだったが、パトカーの後部座席に乗せられた二人は興奮して「テレビみたいや!おっちゃん、そのピストル本物なん?」と言い合う。


暫くしてそれぞれの家に送り届けて貰い、伯母が丁重にお礼を言ってパトカーと優しかった警察官は去った。

「あんた等何があったんや?」と心配して声で説明を求めるが 、私も警察官から受けた話しか言えない。


そして伯母が夕飯の支度をしていた頃に電話が鳴って、電話口に出た伯母が驚いた声を上げている。

「ちょっと用事が出来て今すぐに行かないとアカンから、これ食べときと、支度をしていた夕飯のメニューでは無く、丼鉢に出来上がったインスタントラーメンが私の前に置かれた。

どうやら小学校のクラスの緊急連絡網で報せが入った様だ。


私は「友達と友達のお母さんが病気になった連絡かな?」と少し心配しながらも、「お見舞いの話何かな?」と至って軽く考えて、インスタントラーメンを食べながらテレビの漫画番組を見て笑っていた。

祖母にお風呂に入れて貰い、寝る準備をしていると伯母が帰宅。

祖母と、少し前に帰宅して来た伯父に遅くなった出来事を静かな声で話しているのを襖越しに聞いているうちに私は眠りについた。

翌朝伯母に起こされて、「今日は先生から大事なお話しがあるから、よう聞いときや。」と暗い顔で言われて登校。

集団登校の列では昨日乗ったパトカーの話を自慢気にする私と友人。「ええなぁ!カッコ良かったか?」等と無邪気な話をしながら教室へ。

いつもならまだ教室には来ていない担任の先生が、暗い顔をして教壇の椅子に座っている。

そして私の後席の、病気になった友人の机には花瓶に花が活けられている。

「どうしたんやろ?そんなに悪い病気なんかな?」と、ひそひそと話し合う私達が全員揃った所で先生が立ち上がり、「今日はみんなに、悲しいお知らせがあります。みんな良く聞いて下さいね。」といつもは優しい先生が、真っ赤な眼をして私達に話し出した。

「実はみんなのお友達が、昨日天国へ行かれました。とてもとても悲しい事です。お友達は、もう皆さんと一緒に勉強する事も遊ぶ事も、話す事も、楽しく給食を食べる事も出来ない遠い遠い世界に行きました。明日はお友達のお別れ会があります。皆さん全員で、先生と一緒にお別れ会に行きますから、今日はみんなで天国へ行くお友達に作文を書きましょう。一人で天国へ旅に出るお友達が喜ぶ作文を書きましょうね。一緒に遊んだり勉強した思い出を、みんなで一生懸命に書いてあげましょう。」と、担任の先生が涙を流しながら懸命に話す姿に、小学一年生の私達は息を飲んだ。


お昼には花が活けられた友人の机に給食が配膳されていた。 その一日、授業も無くなり作文と先生からの「命の大切さ」のお話しを聞いて終わり下校。

友人達と色んな話をしながらも、ふざけて遊んだりする事も無く帰宅して私達。


翌日は、お別れ会。

まず全員が書いた作文を、一人ずつ読んで行く。

涙を流しながら懸命に聴く先生。

今日は校長先生、教頭先生も教室に来ていて、私達は緊張して作文をたどたどしく読み上げる。

そして三時間目頃に、クラス全員がお別れ会に出発。

会場は友人の自宅。

色んな大人達が来ていて、友人の祖母、祖父が泣いていたのが頭から離れない私達。

お別れ会も最後になり、手渡された花を友人が居る筈のベッドみたいな箱に近づく私達。

友人が居た!寝ている。

未だ真実を理解していない私達。

クラス全員が何か言いながら、友人が寝ているベッドみたいな箱に花を入れる。

私の順番が来た。

「何を言おう?」

私が友人に言った最後の言葉。

「早く良くなって、また一緒に遊ぼうね。」

それきり友人とは会えなくなった。

私達が生まれて初めて直面した別れだった。

時間が経つにつれて、天国に旅に出た友人の話は出なくなった。

でも誰も住まなくなった友人宅の前を通る度に、友人の、あの日の最後になった「後から遊ぼうな!」と笑顔で手を振った姿が私の脳裏から離れない。

それから四十年以上経った今でも、折に触れ思い出す。


事の顛末は、「無理心中」

後から聞いた話によると経営に行き詰まった両親が、友人の帰宅を待ってガス自殺を計ったとの事。

そして、私と友人が遊びに訪れて応答の無いインターフォンに業を煮やして庭に廻って、大きな声を上げていたのを咎めた隣家のおばちゃんが異変に気付いて、救急車を呼び発覚。

発見が早かった為に、両親は一命をとりとめて、クラスメイトである若干七歳の友人が天国に召されて行ったとの事。


余りな不条理。

あの時カエルを追っかけて川に寄り道せずに、もっと早く友人宅へ行っていたなら、ひょっとしたら…。

私は小学生だったが、「命」と「運命」、そして「抗えない恐ろしい力」を、ずっと考える様になった。

そして、就寝中に急に発熱をして魘される事が頻繁に起こりだして学校を休む事が多くなり、その引き換えに自問自答をして、考えなくて良い事を思い詰める結果になったのか?

この時の出来事が、今の私の人格形成に繋がったのかも知れない。

嫌な事しかない、本当にくそったれた時期。



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