道が未知でも
話しは大きく逸れたけど、和食料理店を退職後に就職した私。
先ずは店舗管理職を目指して、店舗主任となる事が出来た。
試用期間三ヶ月が終了した時点での内示に戸惑いながらも、仕事に対して更に意欲が湧く。
少し調子に乗っていたのも、また事実。
付き合う彼女とも順調で全てが明るく、このまま真っ直ぐに行けたらな。と考える余裕も出て来た。
今から考えると、恐いもの知らずの極みだと思う。
まだ短大生の彼女。
全く何処へ行くのも一緒だった。
時間が合えば会っている。
よく飽きないなと周りから言われる程だ。
彼女も短大二年生になり就職も近づいて来たので、お互い話し合って、私が将来飲食店を独立経営したいので、将来それに役立てる様な仕事に就きたいとの彼女の希望を聞いて、前述した私の大学時代の友人の紹介で、デパートの経理部への就職が決まる。
やがて結婚の時期などを彼女と二人で話し合う様に。
「短大を卒業して一年目の冬位に出来たらいいな!」等と、夢の中での決まり事が進む。
あくまでも夢の中での話だけど。
そしていよいよお互いの家族と会おうと話し合い、先ずは私にとって唯一の不安要素である父親と会う事になる。
先ずは私一人で父親と会い、酒を飲みながら事の話を切り出す。
特に違和感無く、一度会いたいから時間の調整をしてくれと。
翌週に彼女を伴って父親宅へ行く事に。
そして当日。
彼女と二人で父親宅に。
出さないようにと構えて居た私を察したのか、至って明るく前向きな話が進む。
食事を摂り私と父親は酒が進む中、時間は過ぎて行く。
かなり長居をして父親宅を辞した二人。
彼女と色んな話をしながら電車に乗り込む。
「お父さんと顔がそっくりやね。頭が良くて優しいお父さんやと思う。」と彼女は言う。
「まだまだ解って無いな…。あれは仮面や。ホンマの姿は違うんやで。」と心の中で呟きながら、「そうかなぁ」と当たり障りない返事をする。
暫くして仕事の早帰りの時に 、父親宅へ向かった私。
行くと常に出されるのが、お茶では無く「ビール」人が歩いて来ようが車で来ようが全く関係無く「まずはビール」だ。
アルコールに耐性のある私は良いが、そうでない人は災難だとつくづく感じながらビールを飲む。
先ずは他愛ない話から進み、そろそろ本題にとなった頃には瓶ビールがそれぞれ四本は空く。
空きっ腹の私には結構堪える。
そろそろかな?と、私の予想通り「ちょっと外へ行こか?」と犬の散歩に連れ出される。
半時間程の散歩で、彼女との事やらを話し出す父親。
「賛成や。相性も良さそうやしええと思う。嫁も同じ意見や。話を進めたらええんやないか?」と言う。
少し拍子抜けした私に、「あの子やったら大丈夫や。あないに見えて頭の切れる人間やと思うよ。ちゃんと地に足付けて物事を見てる。お前とはえらい違いや、大事にしたらなアカン。」と付け加える父親。
「ほっとけや。」と内心と毒づきながら聞き流す私。
更に少し構えている私に、「今、お前が思うてる事言いたい事は解ってる積もりや。」と言われては、次の言葉が出ない。
そこで「よっしゃ。犬連れて帰って次行こか。」と歩き出す父親。
二頭の犬を繋いで、近くの焼鳥屋へ向かう平然とした父親と構えた私。
ビールを注文して飲み出す。
焼鳥についての訳の解らん講釈が終わり、そして本題に向かう父親。
この日は、私が以前から持っていた物とは違う一面をこの時見せた。
焼鳥屋で一時間程飲んで、そこから歩いて寿司屋へ。
寿司屋ではビールと熱燗を大量に飲む。
飲む程に食欲が増す私と父親。
寿司屋にとれば上客極まりない。
たいがい飲み食いした所で、父親が「歌でも歌いに行こか」と突然言った。
これは初めての事なので、驚き興味深く頷く私。
寿司屋を出て少し歩いた所に昔から在るスナックへ。
古びた引き戸を父親が開けると、これまた骨董品みたいなママさんが「あら社長いらっしゃーい。」とファンデーションを塗りすぎて崩れ落ちそうなうな顔に満面の皺を寄せて笑顔で言うママさん。
少し酔いの醒めた私。
そして父親が、「酔い醒ましに来たんや。」と凄まじい事を言う。
「別嬪のママの顔見たら、嬉しいて酔いも飛んで行くがな!」と適当にはぐらかす父親。
「このアホ、儂の息子やねん。」とママに紹介する。
「誰がアホやねん!お前が作ったんやろ!」と内心毒づきながら知らん顔を決め込む。
「あらーっ!社長に似てえらい男前さんやないの!」と、やはり骨董品のママさんも適当な事を言う。
「あほんだら!儂の男前が宇宙としたら、このアホは地球上のバイ菌みたいなもんやがな!」と、「ボトルで頭をしばいたろか?」と思わせる程の事を笑いながら言いよる。
「ちょっとこのアホと話があってな。」と遠回しに、少し離れてくれとママに伝える父親。
ママさんも理解したのか、二人の酒を作ると他の席へ。
そして父親は話を切り出した。
「何で前の話の時に、儂がええ顔をせんかったか解るか?あの子は決して悪い子や無いのは良く解る。そやけどな、お前も今になって良く解ると思うんやが、見た目やら世間体が先ず先に来るんや。あの子の父親は立派な男やと思う。そやけどな、金で物事を納めようとしたんや。それは儂の考え方とは違う。それやしお前の為にもならん。何でか解るか?その金はお前等二人が稼いだ金や無いからや。たった何時間程の結婚式の為に何百万も遣こうて何がおもろい?見栄か?思い出か?そんなもんは親がわざわざ作らんと、お前等二人が作って行くもんや。それが夫婦やと儂は思う。金は生きた使い方をせんと腐る。溜まった水と一緒や。」
神妙に聞き入る私に、「今回お前が儂に紹介した子はな、まだまだ若いけどそれがないんや。さっきも言うたけど、ちゃんと地に足付けて考えとる。お前は物事を一足飛びに考える癖がある。そんな事をあの子はフォローして力になってくれる筈や。そやから儂は何にも言わん。そう言う事や。解るか?」
暫く返答に躊躇した私。
うまく言葉が出ないのだ。
「近いうちに、あの子のご両親に会うて来い。あの子の親や、しっかりした人やと思うわ。」
と言う父親に、「そのつもりや。来週の休みにでも行く予定なんや。」と私。
「お前を産んだお母さんと儂が、何で離婚したんか解るか?それはな、儂の兄弟連中の妨害が有ったからや。儂が稼いで来た金全てをあてにしよる。其処からぎくしゃくして来たんや。」と、初めて父親から私の実母に対する話を聞いて、私は驚き興味深く聞いた。
「ママ!一曲歌うわ!」と、急に笑顔でリクエストする父親。
イントロが流れ出した時、「この歌は、お前のお母さんと知り合った頃に流行っていた曲や。と、少し涙声で言う父親。
父親が歌った曲は私が全く知らない曲だったが、真剣に歌う姿を新鮮な気持ちで見ていた。
やがて歌い終わった父親は少し照れくさそうにしていたが、私にも一曲歌えと言うので、私が選んだ曲は「the mods 激しい雨が」「何もかも変わり始める!」と歌い終わった私に、「お前も早よ変わらんかい。」と憎まれ口を叩いた後に父親は「ママおあいそして!」と勘定を済ませて店を出た。
「やっと帰って寝れる…。」と思っていた私に、「ラーメンでも食いに行こか。」と歩き出す。
「まぁ確かに飲み過ぎて小腹は空いたよな。」と思い直して続く。
ラーメン屋で取り敢えずビールを注文して、それぞれが餃子やらラーメンを注文した。
結局ラーメン屋でも瓶ビールを五本程空けて、漸く帰路に。
そのままタクシーに乗って帰りたかったのだが、カバンを父親宅に置いていたので父親宅に向かい二人で歩く。
「よう飲んだ。」と当たり前過ぎる事を呟きながら歩く父親。
父親宅に到着して、カバンを持って帰ろうとしたら「酔い醒ましにコーヒーでも飲んで帰れ。」と、嫁さんを起こしに行こうとするが、さすがに気の引けた私が「ええよ。腹がちゃぽちゃぽやわ。」と言うや否や、黙って私に缶ビールを渡す父親。
「このオッサン大丈夫かいな?」と結局プルタブを開ける私も私だけど。
それから半時間程で漸く解放されタクシーに乗って帰宅。
翌日は仕事が公休日で良かった…。
翌週はいよいよ彼女の自宅へ。
ご両親共に社交ダンスが趣味で、酒は殆ど飲まずに甘い物が好き。仕事は精密技術系と言う。
私の父親とは真逆だ。
いよいよ当日、彼女宅へ到着した私。
彼女は三人姉妹の三女。何だか三女には縁がある。
彼女に部屋を案内され部屋に入ると、彼女のご両親と二人の姉が揃って居るのには少し驚いた。
彼女の父は、少し緊張されている様だ。
自己紹介を終え、私の現況や将来への展望等を話して、これから先は彼女と二人で道を切り開きたいとの思いを率直に話して、「どうか結婚する事をお許し願いたいのです。」と話し、彼女のご両親も「良く解りました。食事に気を付けて、お酒が好きと娘から聞いてますが身体を大事にして将来に備えて下さいね。」と好意的な時間が過ぎて、食事を頂いて彼女宅を後にした。
それから半月程して、彼女のご両親を父親宅に招いての顔合わせが。
以前の様に危惧していた事も起こらず、友好的な雰囲気の中で話しは進む。
しかし父親が相手に酒を薦めるのは相変わらずで、彼女の父は沈没。
これだけは変わらない…。
結婚式は年が明けてからの一月下旬と決まり、お互いの家族と友人での簡素な式とし、式場や新婚旅行も決まる。
目の前の事全てが進み出して、仕事にも熱がはいる。
年末となり飲食業はバタバタしはじめ、それが一層結婚式迄の時間を短縮させる様な事気がした。
そして新年を迎え、元旦に彼女を連れて父親宅へ新年の挨拶に。
案の定、大量に酒を飲む父親と私。
少しふらふらしながら父親宅を辞して、彼女のご両親宅へと挨拶に向かう二人。
「朝九時過ぎから夕方近く迄、延々と熱燗を飲んでからの移動は拷問やな…。」と、ぐるぐる廻る頭で考えながら彼女宅へと到着。
新年のご挨拶と、一月下旬に執り行う結婚式のご挨拶も兼ねて神妙に頭を下げる私。
此処でもビールと熱燗を頂き、更にふらふらしながら、次は近くに住む彼女の祖母宅へご挨拶に。
ご先祖様を祀る仏壇に手を合わせて、これからのご挨拶をおこなう。
彼女の祖母が私の帰り際に、私に向かい手を合わせて「ありがとうね。至らん事が多いけど、その時はしっかり言うてあげてね」と仰り、深々と頭を下げて祖母宅から再び彼女の自宅へ。
そして更にお酒を勧められて酩酊した私。
「泊まって行ったら?」と言われたが、照れ屋さんの私はタクシーを呼んで何とか帰宅。
挙式少し前の慌ただしい正月も過ぎて、いよいよ新居への引っ越し準備に取り掛かる事になる。
これからに必要な様々な物を買い物して回るのは新鮮で夢や希望が拡がる毎日だった。
一月も半ばとなり、いよいよ挙式がカウントダウンに。
引っ越しは一月一四日。
荷造りも終え、後は搬出を待つだけ。
引っ越しの当日は生憎の雨模様。周囲からは「雨降って地固まるやな」等と無責任な事を言われながら、神戸市は須磨区の新居へと引っ越し屋さんのトラックと共に出発。
挙式の日である一月二十二日迄は、私独り暮らしだ。
新居のマンションへと到着すると、彼女のご両親が買い揃えた家具やら家電、様々な物を搬入している最中だ。
先に到着していたご両親と彼女に挨拶して配置やら整理をする。
小高い丘の上に建つ3LDKのマンション。
これからの生活を営む場所を感慨深げに見回す二人。
あらかた整理やら掃除も終わり、近くの寿司屋で寿司を買い求めて新居で食事を摂り、彼女とご両親は帰路に。
新居に独りになり、何故だか急に感慨深くなった私。
「あぁ。俺も遂に結婚するんやな…。」と、今までの事が走馬灯の様に頭の中をぐるぐると廻る。
そんな思いを心の中で断ち切って、「これからは彼女と二人で前に行こう。」そう心に誓った二十八歳になった私。
まだ荷物が入りきっていない箪笥やクローゼット。
私が独り暮らしの家から持って来た海水の熱帯魚が泳ぐ水槽を眺めながら、片づけを放ったらかしてビールを飲む。
その日はそのまま深い眠りに落ちた。
翌日の一月十五日、十六日と出勤して、十七日から十二日間の有給休暇。
十六日の勤務が終わると暫く会社にも迷惑を掛けるので、勤務終了後に店舗の店長を始め同僚社員達と飲みに行く事に。
気が付けば最終電車の時間は、とっくに過ぎており店に泊まるかタクシーで帰るか悩んだ挙げ句にタクシーでそれぞれが帰宅を選んだ。
午前二時頃に新居に帰宅した私は、シャワーを浴びて布団に飛び込んで熟睡。
何時間か経った時に、いきなり凄まじい轟音と突き上げる様な揺れに「アッ!」と言う間も無く私が眠りにつく布団目掛けて荷物がまだ入りきっていない箪笥二台が倒れて来た。
この季節が真冬では無く、タオルケット一枚で寝ている夏場であったなら、きっと私は身体に大変なダメージが有ったと後日落ち着いてから、つくづくそれを感じた。
凄まじい重量の圧迫。身体が挟まって身動きが取れない。
そんな状態の中で、「一体何が有った!?酔っぱらって箪笥をひっくり返したのか?」と考えていたら、再び凄まじい轟音と縦揺れ。
身体が浮き上がる程の凄まじい突き上げ。
その揺れの瞬間に、挟まっていた身体が抜けた。
「地震や!」硝子は飛び散りテレビやら家具全てがひっくり返っている。
そう。「阪神淡路大震災」が発生した瞬間。
「これはあかん!」と、取り敢えず頭から布団を被って比較的物が少ない部屋の隅に移動。
揺れは断続的に続いている。
熱帯魚が泳いでいた水槽はひっくり返って魚が跳ねているが、全くどうしようも出来ない。
周囲からは悲鳴が聞こえて来るが、これもまたどうしようも出来ない。
断続的に揺れ続いている。
新居内はまるで廃墟の様な状態になっている。
取り敢えず玄関先迄這うように行き、靴を履く。
部屋中が硝子やら様々な物が飛び散っているので危なくて歩けないからだ。
聞き覚えていた災害時のマニュアルを思い出して、電気のブレーカーを落としてガスの元栓を閉める。
浴槽に栓をして水を全開で出しっぱなしにした私。
まだまだ断続的に揺れ続いている。
ここで初めて南側に面したバルコニーの割れた硝子のドアから外を見ると、揺れの為か建物全てがぶれて見え、土埃が舞い上がっていて、全く違う景色を見ているかの様。
小高い丘の上に建つマンションなので、普段なら見張らしは良いのだけど、今はいつもの半分も見ることが出来ない。
「確か彼女の父親から貰った懐中電灯付きのラジオが有ったよな!?」と、まだ開封してたいない段ボール箱を幾つか抉じ開けて、漸く発見。
ラジオのスイッチを入れると、アナウンサーが興奮した声で「淡路島北部を震源とする地震が発生しました!淡路島及び、神戸市、明石市、芦屋市、尼崎市、伊丹市、川西市、大阪府でも大きな揺れを観測しております!厳重に注意して下さい!」と叫んでいる。
「えらい事や!」と初めて事の重大さを悟った私。
電話をしようと受話器を取るが不通。
「ここでじっとして居ても仕方がない。」と判断して、私は彼女や独り暮らしの伯母、父親達が気になり大阪へ向かう事を決意。
携帯可能な本当に大事な物だけを、リュックサックに詰め込んで新居から飛び出した。
新居から飛び出してはみた物の、外は混乱の極み。
車で向かおうと考えていたが、「この分じゃまともに道は走れないな。」と感じて、「何とかなるやろ。」と、意を決して自転車に飛び乗った。
自転車を夢中で漕ぎ出し、眼に写る物は全てが混乱と崩壊、
怒号と悲鳴が交差する。
南側へと走る度に被害が大きい。倒壊している建物や火災が始まっているが、消防隊も到着出来ずに打つ手は全く見当たらない。
更に先へと進むと、「手伝ってくれ!助けてくれ!」と叫び声が方々から上がっている。
倒壊した家屋の下敷きになった人を助ける為の声。
自転車を放ったらかして手伝う。
木造家屋は何とかなるのだけど、鉄筋コンクリート造りのマンション等が倒壊している現場は、一体何処がどうなっているのか手の施し様が無い。
変わり果てた姿になってしまった家族にすがり付いて泣く人。
泣き叫ぶ子供や、懸命に探す人の名を叫びながら走る人達。
その都度、自転車を停めて少しでも力にと手を貸すのだが、中々思うようには結果が出ないのが腹が立つ。
正に地獄。今もって、他に当てはまる言葉は見当たらない。
道路も至るところで寸断されており、特に神戸に引っ越して間も無く土地勘が皆無に近い私は、中々先に進めず道路標識も倒れたり乗用車やトラック等が横転したりしているので、迂回の連続で現在地も全く把握出来ない状態。
乗っている自転車も、いつタイヤがパンクしたのか気付かなかったが、歩くよりはましだろう程度の考えで暫く走っていたが、ホイールからタイヤが外れて走行不能になった時点で乗り捨てた。
歩を進める毎に、様々な状況に出会いながら少しずつ前に向かう。
やっとの事で勤務先である、三ノ宮に到着。
働く店舗は気掛かりだったが立ち寄りは断念、三ノ宮駅近くに建つ神戸市役所が真っ二つに折れて横倒しになっている姿に言葉を失い、南側に走る阪神高速道路が崩れ落ちている光景に恐怖を感じた。
ビルが多いこの街は、道路の至る所に砕けた窓ガラスの破片が飛び散り、軽装で逃げる多くの人達の足を傷つけている。
瓦礫に埋もれ、助けを呼ぶ声をかき消す無情なヘリコプターの爆音には周囲の人達からも怒りの叫びが上がる。
何度も立ち止まり手伝いながら、ゆっくり大阪へと歩を進めるけれども、「一体どれ程の被害が、何処まで続いているのか?」不安感と戸惑い、やり場の無い歯痒さと、ぶつけ様が無い怒りを感じながら障害物だらけの道を少しずつ前に足を出す。
真冬とは言え、長時間歩いたり助けを手伝ったりすると喉が渇くが、ほぼ全ての電気が停まっている為に自販機で飲み物が買えないのには参った。
道中に在ったコンビニエンスストアも閉店しており、緊張感で腹は減らないし脚も痛くは成らなかったのだけれども、喉の渇きだけが苦痛を感じた。
やがて神戸市を過ぎて芦屋市に入り、暫くして西宮市に入った私。
漸く行程の半分少し過ぎた計算になる。
不動産会社に勤務していた頃は、尼崎市の営業所に勤務していたので隣接する西宮市にも土地勘が有り、少し心が弛む。
私が歩いた国道二号線周辺も甚大な被害が出ており、「一体どこまでが地震でやられたのか?」と暗澹たる気持ちで西宮市と尼崎市の境に流れる武庫川を渡る。
武庫川に架かる橋を渡り、尼崎市内へ入ると、被害は有るが武庫川以西の様な凄まじい被害は少ない様に感じた。
しかし倒壊した建物や標識、隆起した地面が見られる。
尼崎市に到達した時点で陽は暮れかかっていて、新居を飛び出した時から半日程時間が経った事を暮行く陽を感じて、この時初めて知った。
尼崎市内で漸く公衆電話で彼女宅、父親宅、伯母宅や親しい友人等に連絡を取る事が出来た。
連絡を取った全ての人が私の安否を気遣っていた。
私としては皆さんの安否が心配で新居を飛び出したのだが、結果はどうであれ胸を撫で下ろし、一気に力が抜けて道端にしゃがみこんだ。
漸く見つけたタクシーに乗り込み、先ずは独り暮らしの伯母宅へ。
伯母も大変私を心配しており、ずいぶんと話しをしたがったのだけども、安心と疲労で私は風呂から出ると直ぐに熟睡して翌朝早くに父親宅へ向かう。
父親宅へ到着しても父親は不在で、どうやら今回の震災での対応に出掛けた様なので、彼女へ電話を入れて私の勤務する会社の本社へと向かう事に。
被災した阪神間に多くの店舗展開する会社なので、本社に到着して無事と神戸市内の現況報告を行い、従業員名簿を取り出して、勤務する社員やパートさんやアルバイトの皆の安否を気遣って電話連絡を始める。
しかし本社内の固定電話では全く繋がらずに、本社社員達からテレフォンカードをかき集めて、すぐ近くの公衆電話かられたを行ったが、呼び出し音が鳴るばかりの家が多い。
暫くして社内へと戻り上司達と打ち合わせをするが、「神戸方面の現況把握と、社員の安否確認を急務として万全の体制で個別に対応して行こう。」と決まった。
後日に被災した方々から聞いた話では電気やガス、水道は止まり、自らが置かれた状況把握が出来ない状態の中で一番の救いが、「ラジオ」だったと。
インターネットが普及した現在でも、それは当てはまると私は思う。
パソコンでもスマホであっても、電源とバッテリーが切れたらお手上げだからだ。
ラジオであれば電池だけで、長時間の聴取が可能である。
倒壊して孤立した被災者が、身動きの取れない状況において、朝の家事をしながら聴いていたラジオがそのまま鳴り続けていて、「大変勇気付けられ、励みになった。遠くの身内より近くのラジオ。」と言った程、安価であり携帯可能な小さなスピーカーから話し出されるパーソナリティやアナウンサーの一つ一つの言葉に「希望と勇気」を貰った人は、少なくない筈だ。
それはロックであれ演歌であれ、歌う人から受け取る感動や
勇気と同義であると感じる。
何故なら、「言葉」これが人の原点だからではないか?
「聴くと見る、文字を眼で追う。」似たように見えて、意味合いは真逆だからだと考える。
それと、被災者への支援。
なんと言っても近隣住民の方々の相互支援が一番だったと言う話を良く聞く。
それと同時に、警察や消防、自衛隊の不眠不休の活躍が有りがたかったと言う話を良く耳にした。
不明者の捜索や救出、瓦礫の撤去作業や炊き出しに怪我人の搬送。
「して貰って当たり前」と考える方々も居る様だが、決してそんな「愚にも付かない言葉。」は、全くの少数意見だと感じた。
当時の政権が「何しろ初めての事だから。」と、理解しかねる事を言って、対応が後手後手に回り被害を拡大させた事に較べて、現場の方々は本当に命懸けで任務に当たり、被災者への心と物質の支援を行われたと私は断言できる。
ある政党の議員等は、「自衛隊は違憲集団ですから、そんな集団からは物資を貰わないで下さい!」と避難所で叫び、避難されている住民から詰め寄られて、逃げ帰る場面も有ったと聞く。
後年に起こった「東北大震災」の時もそうだが、政権運営能力の無い政党が政権を運営している時に不測の事態が起こってしまうのも、全く皮肉な話かも知れない。
私個人的には、政治家とはイデオロギーの差異は有れ、「先ずは被災した住民、ひいては国民の安全と利益を守る為に選出された人達では無いかと首を捻るばかりなのだけどなぁ…。」とは愚考するのだが…。
自らの主義主張の優先。それは先ず、己への利益を求めた行動かとも思える。
出来の悪い私の頭の中では、そんな事を平気で被災地のど真ん中で話せる事自体、犯罪レベルの行為ではないか?と勝手に考えたりもする。
あくまでも私個人的な思いだけれども。
そして勤務する会社の本社を夕方頃に後にして、父親宅へ向かった私。
そこで仲人さんが被災され、ご家族が亡くなったとの事実を知らされ驚き、悲しみに包まれる。
御葬儀等全くの未定であり、混乱の極みな御様子に胸が痛む。
そこで、彼女と彼女のご両親と緊急に打ち合わせを行い話し合った結果、「この様な緊急事態か発生して人を呼んで結婚式をしている場合では無いやろ。」と、予定していた結婚式場と新婚旅行等は全て中止して、近くの神社でお互いの家族だけで結婚式を挙げて、事態が落ち着いてから、後日お互いの友人達を招いて披露宴形式のパーティーをしたら良いのではないだろうか。と言う私の提案で結論に達した。
仲人さんのご家族の件も勿論だけども、隣接する都市から被災現場を歩きながら目の当たりにした私は、その数日後に華やかな式を挙げる気分にはなれずに、全く持って不謹慎だと思ったから。
予約していた式場と旅行会社に、「震災の為に、キャンセルしたいのですが。」と、それぞれに連絡すると、「この様な不測の事態ですので、十分理解しております。勿論キャンセル料等は頂きません。また落ち着かれましたら、どうぞ宜しくお願い致します。」と両社共に、そう言ってくれた。
そう決まった後は、結婚式に出席される方々への連絡が大変。
連絡の取れない方もいらっしゃり、心が傷む。
二日間を要して何とか結婚式の予定変更を伝え、近くの神社へ「急な事で大変申し訳ありませんが。」と事情を話して、「此方で結婚式をしたいのです。どうかよろしくお願い出来ますでしょうか?」と神主さんに話すと神主さんは快諾してくれ、私と彼女は胸を撫で下ろした。
そしていよいよ一月二十二日。
結婚式の日を迎える。
私側からは、父親と後妻さん。そして腹違いの弟と妹の五名。
彼女側からはご両親と二人の姉の五名。
私と彼女二人共和装姿。
その紋付き袴姿を見た父親が、「貫目の足りんチンピラみたいやの。」と、どう見ても極道者にしか見えない父親が言う。
そしていよいよ、小さくも無いが大きくも無い神社の本殿に上がり、神主さんの祝詞が始まる。
私も儀式に則り榊を神前に捧げ、これからの気持ちを引き締める。
ただ唯一気になったのが、本殿の後ろには賽銭箱等がある為に、一般参拝者が普通に参拝している事。
流石に遠慮を皆さんされて、鈴を鳴らす方はいらっしゃら無かったのだけれども、私達に向かい二礼三拝されて賽銭を投げ入れる音や柏手を打つ音や姿等が妙に恥ずかしいやら照れ臭いやらで顔を赤らめる純な私。
厳かな式が終わり、本殿前にて神主さんを交えて記念撮影。
わざわざ父親が、この日の為にカメラマンを呼んで撮影していた。
後日出来上がった結婚式でのアルバムを観ると、両家には全くの
違いがある事が解る。
嫁さん側の家族は全員自然な感じの微笑み。
私側と言えば、何やら全員目線がきつい。
この写真を嫁さんと二人で見た時に、「お互いの生きてきた道の違いが眼に出るな。」と笑い合ったものだ。
そして式全てが終わり、両家での会食の為に料亭へと向かい、震災での此れからの事や、私の仕事等の事を約二時間程話しをしながら食事をして解散。
私と嫁さんは、父親宅へ。
「どないや、疲れたやろ。そやけど儂の方がよっぽど疲れたわ。」といらん事を相変わらず言う。
神戸市の新居が建物自体は大丈夫そうなのだけど、交通は遮断されライフラインは復旧していない状態なので、それまでの間は父親が所有する賃貸マンションに仮住まいする事になっていた。
私の職場である、神戸市の三ノ宮の店舗も営業再開の目処が立たないので、有給休暇を返上して大阪府茨木市の店舗へ主任として仮配属となる。
仮住まいに職場の仮配属。
何だか何もかもが落ち着かないが、被災された現場に留まり困難な日々を送られている方々を考えれば、申し訳ない気持ちで一杯だ。
職場へは原付バイクで通い、嫁さんは神戸市三ノ宮の職場へ転勤する予定であったのだけれども今回の震災で延期になり、以前と変わらぬ職場へ電車通勤。
子供の頃からの住み慣れた街だが、生活環境が一変し「護るもの
」が出来た事もあって、何やら初々しい様な浮かれた様な気持ちで日々を過ごす。
独身時代の、爛れた様な荒んだ生活とは逆転した思い。
私の仮配属された職場も、私が被災して結婚したばかりで、有給休暇も返上しての出勤と言う事に、えらく気を遣って頂いた様で残業無しで帰らせてくれるのだけれども、それはそれで私も気を遣うのだが…。
二人の公休日を出来るだけ合わせて連休を貰い、大きなリュックサックと大量の荷物を持って神戸へと出発。電車はまだまだ復旧していないのだが行ける所迄電車で行き、其処から代替えバスに乗って、新居である神戸市は須磨区のマンションへと二人で向かった。
復旧作業の工事トラックや支援車両で混雑する道を、迂回に迂回を重ねながらバスはゆっくり進む。
バスの車内も満員で、震災前の四倍程の時間を掛けて、漸く私達の新居であるマンションに到着した。
新居のマンション周辺は、海側から離れて小高い丘の上と言う立地の為か、バスで見た光景とは違い意外な程の平静さ。
しかし倒壊した戸建て住宅や崩れ落ちた塀や瓦礫は、まだまだそのままの状態。
被災地を初めて訪れる嫁さんは、兵庫県内に入った時から声を失い青ざめている。
新居のマンションのドアの鍵を開け、ブレーカーを上げると電気が点いて水道の蛇口を開けると水も出た。ガスはまだ復旧していなかったが、そんな贅沢は言ってはいられない。
早い復旧に驚き感謝をする二人。
まだまだ被災地中心部では、断水が続き給水場に長い行列が出来ていると聞いていたのだが、広くは無い神戸市でもこの様に差があるのかと驚いた。
土足のまま室内に入り、大阪から持参した片付け清掃道具を取り出して、ぐちゃぐちゃに変わり果てた室内の掃除を二人で始めたが、中々に大変な作業。
先ずは足元に散らばる硝子片を取り除く作業に数時間を要して、倒れた箪笥や様々な家具を引き起こして、気がついたら陽は完全に暮れていた。
張り詰めていた気も少し緩み、私達は空腹を覚え、持参して来た弁当を食べた。
漸く嫁さんにも笑顔が戻って、私も「ホッとした気分」になる。
食事の最中に嫁さんが、「私ら、ほんまに幸せやな。まだまだ見付かっていない人や避難所で不自由な思いをしてる人が、ぎょうさん居てはるのに、大阪に仮住居は直ぐに用意してくれて仕事にも直ぐに行けて、部屋の中はぐちゃぐちゃやけど、片付けたら直ぐに住めるんやもん。有り難い事やなぁ。」と言う。
私は「ほんまにな。有り難い事やな。」と、深く頷き、嫁さんの肩を抱いた。
翌朝早く起き出して、再び住居内の片づけを進める。
時折起こる軽い余震が何とも言えず気持ちが悪い。
嫁入り道具として購入してきた箪笥や冷蔵庫等、様々な家具や家電品が傷だらけなのが切ない。
愚痴を言っても始まらないので、努めて明るく振る舞う二人。
部屋の掃除をしながら、「子供が出来たら、この部屋が子供部屋になるんかな?」等と、お互いが明るく前向きになる様な会話が続き、心の中に暖かい物を感じながら片づけが進む。
午後三時頃になり、ある程度の片づけが終わって疲れはてた新婚夫婦は近くで食事をしようとするが、開いている店も無く、最寄り駅のショッピングセンターへ向かい数少ない商品を購入して空腹を満たして、大阪の仮住居に戻る事にする。
帰りは置きっぱなしにしていた車での帰宅。
阪神高速道路は倒壊しており、復旧の目処は立っておらず、国道二号線や四三号線は復旧作業車や緊急車両優先かつ、所々が通行止めになっているので、私達は神戸市北部から迂回に迂回を重ねながら漸く帰宅。
約四時間。通常の四倍掛かった計算になり、帰宅後は昨日は入浴出来なかったので早速二人で風呂に飛び込んだ。
入浴後に、「ガスが復旧した時点で、神戸に戻ろう。」と結論付け、その日を待つ事にする。
しかし、二人が考えていたよりも早く復興のスピードは早く、翌週にはガスも復旧したと聞いて驚いた。
早速再引っ越しに向けての準備に取り掛かり、二人の会社の調整が始まるが、私の元来の所属先がまだまだ立ち入り禁止区域で有り、復旧の目処は立っておらず今少しの間、待つ事になる。
鉄道もゆっくりと開通して行くが、まだまだ神戸には通じてはいない状態。
震災当初は大阪止まりだったのが、少しして尼崎駅へ。そして西宮駅、そこからが時間が掛かり暫く経って芦屋駅。
それから先が更に時間が掛かり、住吉駅迄開通した三月に私達は本来の住居である神戸市は須磨区の住居に引っ越しをする事が決まった。
勿論それまでの間は休日毎に新居へ赴き、色んな物を運んだり神戸市内で買い物をしたりしていた。
買い物をするには大きな被害の無かった大阪で買う方が、よっぽど物が揃うのだけど、少しでも神戸市内で買い物をして復興の役に立てればとの考えから。
私の元来所属する店舗も、いよいよ四月半ばには営業再開の目処が立って、引っ越しの半月程前から復旧作業に向かう事になる。
お世話になった仮配属先の店舗に別れを告げて、元居た店舗への復旧作業に心を踊らせる私。
嫁さんの職場は、もう暫く再開に時間が掛かるので休暇願いを出して引っ越しの準備を始める事に。
神戸三ノ宮店舗の復旧作業の出勤初日。
出勤時間は、「昼前頃迄に。」と言う果てしなく曖昧なもの。
何故なら、到着時間の予測が立たないのだ。
私は大阪から電車での通勤だが、途中代替えバスに乗り換えて暫くは徒歩。そしてまたバスに乗っての通勤だから。
電車内から見る風景は、心が悲しくなるものばかり。
当初は倒壊した建物が目に写ったが、今では其処が更地に。
車窓からそれを眺めて、時の経過の早さと無情さ。
「あそこに住んではった人達は、どないしはったんやろう?」
と、気持ちが暗くなる。
代替えバスの停留所まで歩く道で随所に存在する、未だ手付かずの倒壊した建物跡に供えられた御花を見る度に、両手を合わせて首を垂れる。
暫く振りに、元来の所属店舗である三ノ宮店に到着した私。
店舗周辺の光景は一変しており、悲しいかな見る影もない。
つい三ヶ月程前迄は、人で賑わい明るく活気が有り、洒落た街だったのだけど無残にも瓦礫に埋もれた廃墟の街並み。
それでも復興に向けての工事が盛んに行われ、営業を何とか再開した店も数件見受けられる。
店のドアを開けると店長が先に出勤しており、私の顔を見るなり「久し振りやな!しかし一体どこから片づけの手を付けたらええんやろ?」と、呆れ顔で言う。
私も店内を見て溜息が。
「自分の家も片づけで疲れまくって、店に来ても片づけの仕事からか…。堪りませんな…。」と、到着早々に愚痴を言い合う。
「まぁ、取り敢えず入口からボチボチ片づけて行かんと中にも入れんな…。」
私達が入ったのは、店の正面入口ではなく裏口の従業員や配送された品物を運び込む通用口。
先ずは入口ドアの鍵が以前の様に、すんなりと開かない。
地震の影響でドアが歪んだ為か。
そしてドアから入ってすぐに並ぶ大型の業務用冷蔵庫二台が、対面の壁にもたれ掛かっている。
第一の作業は、大型冷蔵庫の引き起こし。
完全に倒れてはいないので、意外とすんなり引き起こしが出来て、調理場内が見渡せた時に二人は同時に「めちゃめちゃやがな…。」と口を揃えて言う。
ほとんどの機材が、ひっくり返ったり、あらぬ方向を向いていたりする。
休暇室内に入ると何故かテレビはそのままの状態なのだが、ロッカーは横倒しで、休暇室奥のドアを開けると大きな金庫はひっくり返っているのだが、これまた不思議な事に丼鉢やら皿類が全てでは無いが、無事なのが理解に苦しむ。
やがて私と店長を含めて六名いる社員の内、当日出勤出来た五名が揃って作業がゆっくりと進む。
冷蔵庫を開ければ凄まじい事になっており、思わずドアを閉めてしまう程。
全ての電源が落ちて、季節は冬とは言え三ヶ月程そのままにしていたのだから…。
タッパーやステンレス製の容器を一瞥したが、「最早洗って使う気もしない。」と勝手に判断して、全てを容器ごと廃棄した。
それほどの、えげつない状態。
廃棄物集積場へ手分けして運び込む。
凄まじい香りが私達の鼻を突き上げる。
つい最近迄、この辺り一帯が立ち入り禁止区域であり、その間は飲食店や食品販売関係の店は勿論閉店しており、各店舗の冷蔵庫や冷凍庫から廃棄される物で溢れかえっているのだから。
その集積場で作業される方々も大変だな…。と思いながら、我々は次々と廃棄物を運び込む。
運び込む都度に鼻が慣れて行くのは不思議な事で、徐々に匂いも気にならなくなって来る。
時間が経つ毎に店内の片づけ効率も上がる。
作業開始当初は触るのも嫌だった腐敗した食品も、苦に成らず扱える様になって来た。
「三日か四日で、何とか形になるんと違うかな?」と意見が出始め、妙に明るい気持ちになった私達。
客席の椅子やテーブルは、若干の損傷はあるが何とか使用に耐えられる範囲内。
食器類が半分が大丈夫。予想と見た目よりも被害は少ない感じだ。
調理場の方が被害は大きく、大型のコンロ台や釜、シンク設備等が移動していたり排水管から引き離されていたりと、復旧に時間が掛かりそう。
そう言った設備関係は我々の手には負えないので、本社から早急に手配して貰う事に。
一週間後の営業再開を目標に、懸命に片づけ作業に取り組む。
日を追う毎に、周囲の店が再開し始めるのが嬉しく心強い限りだ。
そして片づけも終わり、いよいよ営業再開の日を迎える事に。
通勤する従業員の交通機関の問題や、一般客があまり見込めずに対象を復旧作業員の方々にした為、営業時間を、元来の午前11時から午後9時30分迄を変更して、午前11時から午後7時迄に当面の間は短縮営業となった。
電気ガスは問題ないのだが、水道が常時出ないので肝心の麺が上手く茹でる事が出来ない為に、水道の完全復旧迄は麺以外のメニューで対応する事となる。
再開当日は、全員出勤して備えていたのだが、呆気にとられる程の暇さ。
ある程度予想はしていたのだけど、「ここまで暇か!?」と開いた口が塞がらない程の売り上げ。
何しろ震災前の一割程の売り上げしかないのだから…。
「まぁ暫くの辛抱や。近いうちに人も戻って来るやろな。」等と言い合い、営業をする傍ら掃除やら細々した雑用を進める毎日。
神戸市内では一番の繁華街であるので、予想通りに半月後には直ぐ近くの映画館やデパート等、様々な施設が再開して一般客が徐々に戻って来て、以前程では無いのだが、ゆっくりゆっくりと賑わいを取り戻して来た頃に、私は一つの大きなヘマをやらかす。
映画館再開の日。以前よりは忙しくなっては来た物の、まだまだバタバタする程では無くて、休憩中に同僚社員やパートさん達と話していたら「休憩室に居ると何だか痒い」と言う。
確かに私もそれは感じていたので納得して、自腹で「ダニ退治バルサン」を購入。
薬局のおっちゃんに、「火災報知器は大丈夫?」と問うと「これは反応しないタイプなので大丈夫ですよ。」と答えるので購入。
店に戻り、早速休憩室にバルサンをセットしてダニ退治開始をした。
「これで快適な休憩時間が取れるで!」と嬉しがっていた私は、その数十秒後に顔面蒼白になる事になる。
その時が来た。
凄まじい音量の警報音が鳴り響き、私達は呆気にとられ身動きすら出来ない。
「え?嘘やろ?何でや?」と自問自答するが、鳴り響く警報音がその答えを出し続ける。
阪急電鉄高架下の管理員が店に駆け付けて来て、「どうしました!?火災ですか!?」とドアを閉めた休憩室から漏れ出る煙を見て、そう叫ぶ。
そう…。
震災以前ならば個店からだけの報知器が、震災以降は全店舗連動型の警報装置に取り替えられていたのだ。
数十店舗と映画館、デパート、そして阪急電鉄の駅一帯に火災警報が鳴り響き、再開初日の映画館では百人程の観客が避難する事態に…。
幸い阪急電鉄には影響が出なかったのが救い。
「何て事をするのですか!大変な事になってますよ!」と、こっぴどく説教される私。
その日は、店長は公休で私が責任者。「申し訳ございません…申し訳ございません…」と平身低頭する私。
直ぐ近くの映画館前では、避難誘導された観客が待機しているのを見て私は、頭を抱えて込む。
散々管理員から説教されて、私は先ずは本社総務部へ連絡。
総務部でも判断しかねて、常務が電話口に…。
事の顛末を説明すると、溜め息が聴こえて来た。
「取り敢えず明日、そっちへ行くから。」との言葉が帰って来た。
「本当に申し訳ございません。明日は御足労お掛け致します…。」と会話が終わる。
「いったいどないなるんやろ…?」と、後ろ向きな事ばかりを考えてしまう。
そして翌日。絶望的な気分で出勤した私。
先ずは店長が出勤して来た。どうやら未だ何も聞いて無かったようで、「えらい事してくれたなぁ…。そやけど、薬屋のおっさんが大丈夫や言うたからバルサン焚いたんやろ?そんなもんしゃあないと違うんか?」と名言を述べる店長を少し見直す私。
そして店の営業が始まり、ランチタイムが終わって暫くした頃に、社長と常務が店に。
社長と常務、そして店長と私の四人で、問題の休憩室で話を始める。
お茶を持って来てくれるパートさんは伏し目がち。
まぁ、そりゃそうだ。
社長と常務は店に来る前に、管理事務所へ赴き話合った様で、事の結末から話が始まる。
映画館は上映中では無くて、入れ換えの時間だったので避難誘導だけの事で済み、阪急電鉄は直ぐに誤報と解った為に運行に支障は無かったので、両社共に賠償の話は無かった。と聞いて、私は安堵の余りに社長と常務に抱きつきそうになる。
「しかしな。他の店舗に一軒ずつ頭を下げて廻るのは骨が折れたよ。これからは二度とこの様な事の無い様に。震災からの再開で大変だった事は感謝している。この休憩室にダニが発生して何とかしてやろうとした気持ちも解る。そやけどな、うちの会社も震災の影響で大きな損失を出しているのだ。もし今、電車が遅延したりしての損害賠償の話になったら、ただでは済まん。下手したら会社の命取りになるからな。」と言われて、下を向きすぎる程向く私。
店長と二人して、頭を下げに下げて漸く事無きを得た。
この事件後に付いた私のアダ名は「バルサン君」…。
様々な方面に多大なご迷惑を掛けてしまった「バルサン事件」も何とか終わり、漸く通常の日常業務が戻って来た。
店の営業は本当にゆっくりとだけど回復しつつあり、心にも張りが出て来る。
そんな中、四月の中頃に研修を終えた新入社員三名が、私の所属する店舗へ配属される事になり、本来ならば店長が本社へと迎えに行かねば成らないのだけど、「どうせ近いうちに店長へと昇格するやろから一緒やろ。行って来て。」と言う。
ええ様にも聞こえるし、ただ単に横着なだけな気もするが、翌朝大阪の本社へと向かう事に。
到着すると他店の店長達が、「誰やねんコイツ?」みたいな顔をして私を見る。
近隣店舗の一部の店長は面識があるが、大阪方面の店長達とは初対面だから仕方がない。
「店長はどないしたん?」と周りから聞かれ、私も同じ様な質問ばかりに辟易して来たので、「朝早いんは眠たいから代わってくれと言われましてん。私は今日早番なんで昼過ぎに店に到着したら後は休憩回して帰れるんで、楽でええですわ。」と全く適当に答える。
「しゃあない奴っちゃな…店長も君も、楽する事しか考えて無いがな…」
「まぁ雰囲気ですわ。エネルギーは貯めとかんと。」
その店長は、プッと笑いだして「君も早よ店長なりや。待ってるで。」
「その時は是非よろしくお願いします!」と頭を下げる。
そして新入社員配属式が始まり、高卒女子社員二名と大卒男子社員一名と体面。
先日大変ご迷惑を掛けてしまった社長や常務達の長い話の中、緊張する三名の新入社員の顔を見る。
不謹慎な私は退屈しのぎに三名をそれぞれ見て、心の中で私なりに彼等にニックネームを付ける。
先ずは大卒男子。
よく見ると、ドリフの「志村けん」さんに似ているので「だっふんだ」
そして高卒女子の一人目。やんちゃそうな小柄な子。
直感で「お猿」
最後の女の子。可愛らしい顔をしているが、やや頬のエラが張り顔が四角い様に感じたので、「コインロッカーのドア?」いや違う…「顔面90°」これもしっくり来ない…暫く彼女の顔を眺めていて「四角いジャングル」と考え付いた瞬間に、自らのツボに入ってしまい「プッ」と噴き出してしまった…。
こみ上げる笑いを押し殺し下を向く私。
肩が震えるが、突き上げる笑いを中々抑えられない。
どうにか抑えて赤らんだ顔を上げると彼女の顔が眼に入り、「ヴッ」とまた噴き出してしまう。
カタカタと震える私を不審に感じた、横の席の顔見知りの店長は小声で「どないしたん?」と私に問い掛ける。
何とか息を整えて、私も小声で経緯を話す。
最後に「四角いジャングル」の話をして、新入社員の可愛らしい顔を見た顔見知りの店長。
「ヴッ」と私と同じ様な噴き出しをして下を向く。
釣られて私も再びツボに入り肩を震わせた。
笑いの拷問の様な配属式が漸く終わり、それぞれ私達は新入社員を引率して配属先である、神戸三宮店へと電車に乗り向かう。
九州や中国地方からの出身の新入社員達は、車窓から見る被災地の光景に息を飲んでいる。
復興は着実に進んでいるが、まだまだ倒壊した建物が多く見受けられる。
三宮駅に到着した私達四人。
時計を見ると正午過ぎ。「予定より少し早かったな…。今新入社員を連れて行くと、ランチタイムを重なって大変やろう。腹も減ったしな。」と果てしなく自分に優しい拡大解釈をして、駅前の飲食店で食事をしてコーヒーを飲んで時間潰し。自腹で四人分のランチ代はキツかったが一時間程ゆっくりして、彼等がこれから配属される三宮店に到着した。
先程迄の時間潰しで、少しリラックスしたような三人だったが、配属先の入り口を潜った瞬間に、緊張した顔に変わるのが初々しい。
ランチタイムも一段落していたので、先ずは店長に紹介をして私は着替えて通常の勤務スタイルに。
新入女子社員はホール接客社員へ仕事の流れの説明を託して、新入男子社員は調理等の仕事の流れを説明する。
そして店長に本社での配属式の出来事のあらましを話し、私が笑いのドツボにはまった事を話すと、店長は何気にホールを見て噴き出した。
ひとしきり説明と打合せを終えて、気が付けば私の退社時刻に。
後の業務を店長に託して私は店を後に。
全く良く笑った日だ。
原付バイクで帰宅して、先ずは入浴して先に戻っていた嫁さんとビールを飲みながら、今日の出来事を話して笑いのツボに陥った話をすると、「それは新入社員の女の子に失礼やで。可哀想やわ。」と嗜められた私。
しかし瞬間の閃き。いや、思い付きだけはどうしようもない。
確かに新入社員の女の子には大変失礼な事をしてしまった事は、動かぬ事実である事に変わりはない。
ビールを飲みながら、少し反省して明日からの所帯の増えた職場に思いを巡らせる私。
振り返れば、今までの社会人生活の中で一番のんびりと過ごして、言いたい事ややりたい事が出来た様な空間だったのかも知れない気がする。
そんな生活が、その後約二ヶ月程続いたある日。
私に転勤の知らせが入る。