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はじまりの夜

 もう九時を五分ほど過ぎた時刻だった。

 綾子とのカラオケから帰宅した瑠璃子は、疲れ切った体を引きずりながらとぼとぼと自分の部屋に向かっていた。

 今日も歌って、歌って、さらに歌って。私がロックンロールだと言わんばかりに綾子と騒いだ。

 キッチンで夕食の準備をしていた母親に挨拶をし、やっとの思いで階段を上り、部屋のドアを勢いよく開け、一目散にベッドの上におもいっきり倒れこむ。

「つかれた」

 思わず声を上げた。まるで残業終わりの中年男みたいな台詞だ。瑠璃子はそんなことを思いながら、自室の見慣れた天井を仰ぐ。

 高校生にもなれば、さすがに親はもう門限がどうのこうのとは言わなかった。昔は門限をたった一分破っただけで口うるさく怒ってきた母親も、その隣で新聞紙に顔をうずめながらネチネチと叱る父親も、今ではすっかり大人しくなった。

「あー、あー、声枯れそう」

 まさか二時間も延長するとは。瑠璃子は綾子とカラオケに行く度に、決まってそう後悔する。こんなことなら、最初からフリータイムにしておけばよかった。

 だが、変な話ではあるが綾子とのカラオケに行った後の、この自分の部屋での一人反省会も含めて、瑠璃子はカラオケだと思うのだった。家に帰るまでが遠足、家に帰って延長に後悔するまでがカラオケ。若さゆえの過ちというやつである。

 聞き慣れた部屋の壁掛け時計の音が、だんだんと耳に馴染んでくる。

 メトロノームのように正確なテンポで奏でられる無機質な機械音の中で、瑠璃子はふと思い立ってベッド脇の勉強机の抽斗に手を掛ける。下から数えて二段目、その抽斗に入っているクリアファイルの中身。学校のプリントやら授業のレジュメやらが押しこめられたその中に、隠すようにして一枚の写真が挟まっている。

 瑠璃子はその写真をクリアファイルからひっそりと引き抜くと、その写真を片手に再びベッドにごろんと寝転んで、天井を仰ぐ。そして、部屋の照明にかざすようにして写真を掲げた。

 映っているのは、まだ小学生三年生の瑠璃子とその隣でなぜか泥だらけの綾子。学校の遠足で行った、動物園で撮られた写真だった。

 だが、その写真の中で瑠璃子が穴を開けるが如く見つめている部分は満面の笑顔の自分でも泥だらけの綾子でもない。写真の右端、つまりは泥だらけの綾子の右奥に、まるで綾子の肩から生えたかのように見切れている顔がある。

「中川くん……」

 そう、その顔面の正体こそあの中川秀一だった。

 思わず中川の名を声に出していた自分を急にこっぱずかしく感じ、瑠璃子は部屋で一人顔を紅潮させた。そして、その写真が撮られた時のことを思い返す。


 偶然だった。中川との出会いは、偶然でしかなかった。

 中川と瑠璃子が最初に出会ったのも、偶然である。中川は瑠璃子とは違う小学校だったが、たまたま同じ日、中川の小学校も同じ動物園に遠足に来ていたのである。瑠璃子の学校はクラスで作られた班ごとで行動していたのだが、中川の小学校では特に班などは指定されずに、自由に仲の良い友達と回れるようなシステムをとっていた。

 当然、瑠璃子と綾子は同じ班だった。当時の瑠璃子は前日眠れないぐらいにこの遠足を楽しみにしており、テンションは最高潮だった。そしてそれは綾子も例外ではなかった。

 二人の所属する班は、そのテンションを原動力として、まるでジェットコースターの如きスピードで目まぐるしく動物園を見学した。サル、ゾウ、シマウマ、キリン、ライオン、ペンギン、白クマと来てからまたサル……へと移動していく。とにかく沢山の動物が見たかった。常に駆け足で、汗で服がぴったりと背中に張り付いた。新たな動物を見つけては奇声を上げ、落ち着いたかと思えば、また新たな奇声が上がる。終わらないジェットコースターに乗った二人は、結局午前中をずっとこのテンションで乗り切った。

 そして、昼食の時間になった時、急に瑠璃子はこのジェットコースターから飛び降りた。

 つまり、財布を落としてしまったのである。

 大切な財布だった。この日のために少ないお小遣いをため、家族にお土産を買う金も入っていた。財布がないことに気付いた時、瑠璃子の背中はそれまでの汗とは別の汗で満ちはじめた。

 最初、綾子に言うべきかどうか迷った。今自分が財布を落としたと言ってしまえばこれからの盛り上がりに水を差してしまうことを、小学三年のガキなりにも瑠璃子は理解していた。だが、明らかに様子のおかしい瑠璃子の表情を、綾子が見逃すはずはなかった。

「どうしたの?」

 そう綾子に聞かれて、瑠璃子はいきなり泣き出しながら、ひっくひっくとやっとの思いで財布を落としたことを綾子に伝えた。

 綾子は、素早かった。

 すぐに、弁当を食べ終わったらみんなで探そうと他の班員たちにも提案した。もともとリーダー気質もあり、班長でもある綾子の言葉に、他の班員たちは何の遺憾もなく同意した。

 こうして、午後から瑠璃子の財布を探すための大捜査網が敷かれることになった。話を聞きつけた他の班の人間も協力し始め、ついには学校全体を巻き込んでの捜索活動になった。

 綾子は瑠璃子と共にとにかく走った。広い園内を何度も駆け巡った。途中でドジを踏んでこけても、膝をすりむいて血が滲み始めても、とにかく必死に財布を探した。だが、時間はいたずらに進んでいき、遂には真っ赤な夕日が園内を照らし始めた。

「もういいよ。ありがとう綾子」

 最初に言ったのは瑠璃子だった。だが綾子はあきらめない。

「だいじょうぶ。絶対見つかるから」

 綾子の顔も服ももはや泥だらけで、ちょうど動物園にいるシマウマの模様のような斑点が点在していた。ほら行くよ、再び綾子が園内を駆け出そうとした時、

「あの――君がさかじょうるりこさん?」

 男の子の声が背中から聞こえた。振り返れば、そこに見慣れない男の子が少し緊張した面持ちで立っていた。

「――これさ、さっきそこで拾ったんだけど」

 そう言うと男の子は右手に持っていた何やら可愛らしい財布を瑠璃子の前に差し出した。

 その財布にはやたら大きな字で「きたやましょうがっこう 3ねん2くみ さかじょうるりこ」と書かれていた。まぎれもなく瑠璃子が落とした財布である。

「あ――――――――――――!!」

 園内に幼い轟音がとどろいた。男の子は二人のあまりの声の大きさに一瞬飛び上がる。

 思わず、瑠璃子は泣き出した。泣いてその場にへとんと座り込んだ。それまでの緊張が解けて腰が抜けたのである。

「これ、どこで――?」

 男の子が照れくさそうに指を指して示したのは、瑠璃子たちが動物園に来て一番初めに向かったサルの檻だった。その檻の前の茂みに、この財布が落ちていたのだという。

「名前と小学校書いてあったから。それで他の子に聞いてみたら、ここにいるって」

 それだけ言うと男の子は急に踵を返し、「じゃ」とだけ言ってそこから足早に去っていた。その背後にぽつんと残された二人は、ようやく状況を理解して、それはもう大きな声で泣いて、そして笑い合った。

 それから動物園を去る前に、綾子が写真を撮ろうと言い出した。夕日が射して朱色に染まる動物園の空の下で、泥だらけの綾子と真っ赤な目で笑う瑠璃子は、抜群の笑顔で写真を撮った。

 そして、偶然にもその写真に写っていたのである。綾子の肩からにょきっと生えたかのように見切れて、あの財布を見つけて届けてくれた少年の顔が。そして、その少年の名が中川秀一というのだということを、瑠璃子はそれから八年後に同じ高校の同じ教室で知ることになるのだ。


 最初は小さな違和感だった。

 中川秀一を高校で見かけた時から、瑠璃子はその見覚えのある顔に心のどこかで引っ掛かっていた。綾子にそのことを聞いても、そもそも綾子は動物園での一件すら覚えていなかった。

 だから、今年中川と同じクラスになって、ようやくばらばらだった点と点がつながると、瑠璃子はようやく理解した。急いで家のアルバムからその写真を引っ張り出し、確かに中川がその少年であることを確認すると、急に顔が真っ赤になった。

「恋は突然やって来る」

 それは昔少しだけ流行ったラブソングの歌詞。当時はアホくさい歌詞だと思って聴いていた。しかしなぜかそのアホくさい歌を脳内でガンガンに再生しながら、瑠璃子は静かに、しかし突然に、気が付けば恋に落ちていた。あの日あの時あの動物園で財布を届けてくれたあの男の子は、今までずっと瑠璃子の中でささやかな白馬の王子様だったのだ。

 それが、いきなり目の前に現れた。最初向こうがこっちのことを覚えているのかどうか期待したが、中川と同じ委員会になってもそんな素振りを全く見せず、こちらにはまるで興味ないといった様子だったので、淡い期待は簡単に崩れ去った。

 でも、向こうが覚えていようがいまいが、瑠璃子の気持ちは変わらなかった。そしてそれ以降から、坂上瑠璃子の、中川秀一をひどく優しい目で見つめる日常が幕を開けたのだった。


 時計の音が跳ね返る自室で、ベッドに横になりながら自室で一人瑠璃子はその写真を見つめた。

 女々しい奴だ。瑠璃子はそう自嘲する。いつまでも過去の思い出にすがって、今でもこうして中川の写真を眺めているのだ。気になるのなら話しかければいい。せっかく同じ委員会なのだから、話もしやすいはずなのだ。でも、出来なかった。

 いつもあとほんの少しのところで、何か自分の心の中のマイナスな自分が邪魔をするのだ。

 いきなり話しかけて、その動物園の話をして、気味悪がられたらどうしよう。「嫌われたくない」と一心に思う自分が、「このままでいいじゃない」と変化を拒む自分が、感情の歯車の動きを止める。 

 だから結局、今日もこうして瑠璃子は自室で一人写真を眺めている。

 窓の外には闇が広がり、夏の空らしく星が瞬いている。

 いつもと変わらない、いつもと同じ贅沢な時間。こうして瑠璃子の何気ない一日は幕を閉じる。


 だが、今日だけはこれで終わらなかった。


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