プロローグ再び
さて、ではここで唐突だがいったん話を一週間前まで巻き戻そう。
一週間前。すなわち九月四日。夏休みが明けてからまだ間もない頃である。
「おねがいるりっ! 宿題終ってないのよおお!」
坂上瑠璃子に昼休みの教室でそう懇願しているのは、瑠璃子の友人である松本綾子だった。
「だからって綾子、今更手伝ってくれなんて――」
「おねがいっ! 一生のお願い。これ聞いてくれたらもう来世でしかお願いしないから!!」
来世とは大きく出たものである。だが、この一生のお願いがもはや普段からの綾子の口癖であることを知っていた瑠璃子は、涙目の綾子を冷たく突っぱねた。
「駄目よ。私だって暇じゃないんだから」
「今度アイスおごる!!」
「他をあたって」
「シュークリームも二つ付けるから!!」
「どれを手伝ったらいいの?」
往年の夫婦漫才のようなテンポで交わされるその会話には、クラスの一部の男子から定評があることを、当然瑠璃子は知る由もない。
「さっすがるり! じゃあ早速この数学のテキストを」
瑠璃子のことを「るり」と呼ぶのは、世界広しといえどこの世には松本綾子ただ一人である。幼稚園の頃からの幼馴染みである二人は、普段から何をするのにも一緒だった。
「同じ高校に行こうね」と言い出したのは綾子だった。瑠璃子は二つ返事で綾子の後に続いた。
ふと、綾子から手渡された数学のテキストをパラパラと繰りながら、刺すような目つきで夏休みの日誌を凝視する綾子を眺める。
綾子は私の光だ。瑠璃子は日常のふとした瞬間に時々そう実感することがある。綾子がいなければ、私の人生はさぞつまならないモノになっていただろう。綾子は、いつだって私を私が知らない世界へ連れて行ってくれるのだ。瑠璃子は馬手にシャーペンを握りながら、自分が初めてカラオケに行った時のことを思い出していた。
小六だった。
周りの友達は、さも当たり前のようにカラオケを経験していた。瑠璃子だけが、時代の流れに取り残されていた。だから、クラス会でカラオケに行くと決まった時、瑠璃子はどうしようもなく不安だった。
「るり、今日カラオケ行こうよ。二人でさ」
そう誘ってくれたのは、綾子だった。門限の厳しい親を持つ瑠璃子は、日頃から学校帰りに友達と外で遊ぶことが極端に少なかった。そんな瑠璃子を気遣ってか、はたまた単に一緒に過ごしたいだけなのか、綾子は毎日のように瑠璃子の家に通った。友達が家に来るとなれば、門限などどうでも良いルールに成り下がる。坂上家の夕食の席に、綾子が加わることも珍しいことではなかった。
「大丈夫。門限までには帰れるからさ」
そういうわけで、瑠璃子と綾子は学校帰りにくたびれたランドセルを背負って、学校から一番近くにあるカラオケボックスへ向かった。そこで感じた衝撃を、今でも瑠璃子は忘れていない。
そして、とにかく歌いまくった。歌って、歌って、歌った。
気が付けば、門限はとうに過ぎていた。
でも、もうどうでも良かった。とにかく、楽しかったのだ。
その後親にはこってり絞られたが、瑠璃子は後悔しなかった。次の日の教室で瑠璃子は、抜群の笑顔で綾子にこう言った。
「ありがとう綾子。とっても、楽しかった」
綾子は「また行こうね」と白い歯を見せて笑った。
「るりー、るりってば。こら、るりこおおお!!」
完全に回想シーンに没頭していた瑠璃子は、はっと我に返った。目の前に煙草一本分の距離で顔を近づけ心配そうに見つめる綾子の顔がある。
「だいじょうぶ?」
「ごめんごめん。ちょっと昔を思い出しちゃってて。あと顔近いから」
「むかしい? 昔っていつぐらいの?」
事実を言うのが恥ずかしかった。瑠璃子は誤魔化すように笑い、
「どうでもいいでしょ。ほら、それより今のうちにテキスト終わらせとかないと」
腑に落ちない目つきの綾子を尻目に、瑠璃子は握っていたシャーペンにさらに力を込めた。