あるいは、邂逅
それからまだ時間は十分と経っていない。昼休みにしては妙に静かな屋上で、中川は一人体を強張らせていた。今にして思えば中川は鮫島たちにハメられたのだ。十秒と十二秒の妙に統率のとれたチームワークと屋上の鍵を開ける手際の良さを目の当たりにして、中川はようやく理解した。
何故こんなことになってしまったのか。あいつら余計なことしやがって。しかしそんな鮫島たちを鬱陶しく思う感情の中に、どこかで期待している自分がいることにすでに中川は気づいていた。思えばこれまでの十七年間、恋愛経験など当然なく、青春らしい青春を謳歌できないくそったれの人生だった。しかしそんなクソとティッシュまみれの高校生活に、ようやく春が訪れるのかもしれないのだ。当然の如く、期待は胸を高鳴らせている。いや、期待どころの話ではない。なんと中川は、坂上と告白して付き合ってデートしてその後にそういう関係になった時のことを想像して、股間を隆起させてしまっていたのだ。思春期真っ盛りの高校生の想像力というのは、まったくとどまることを知らない。体中を駆け巡る、イカ臭いリビドー。
おれは阿呆だ。中川はしばし自己嫌悪に陥った。屋上で一人、何を舞い上がっているのだ。
「静まれ」
ささやくように、中川は自分に言い聞かせた。
生暖かい風が、屋上を洗うように吹き抜ける。もうすぐここにあの坂上瑠璃子がやって来る。
一目惚れだった。入学式で初めてその姿を見たとき、中川の股間はもう爆発しそうだった。
坂上は、可愛かった。とびきりに可愛くて、長い髪はつやつやで、目の前を通り過ぎるとわずかにいい匂いが香って、その度に硬くなった。
だから、二年生になって坂上と同じクラスになった時には中川は死ぬほど喜んだし、その坂上と同じ放送委員になった時なんて、喜び過ぎて一回死んだ。
ごくり。唾を飲んで、中川は己が炎を静かに燃やした。この告白の勝算などあってないようなものだ。そもそも坂上と委員会の話題以外ではまともに話したことなどないし、下手すれば顔見知りですらない。廊下で会って挨拶も交わさない。成功率は多く見積もっても一割にも満たないだろう。万が一成功したとしても、「実は小便のキレを競う勝負に負けて告白した」という事実はいずれ必ず坂上にバレる。そうなれば、結局は失恋一直線だ。だが、涙ぐましくも中川はとにかく成功しか考えていなかった。
「いい機会じゃねえか」
先程の鮫島の言葉を反芻する。そう、これはいい機会ではないか。どんなに負け戦だろうと、そこに一欠片でも勝利、すなわち告白が成功する可能性が転がっているのなら。泥まみれになろうと必死でその可能性を探り当てる。中川は決意をより一層固めた。
腕時計を確かめる。十二時半を過ぎた所だった。そろそろ、坂上がやって来てもいい時間である。そして、これから告白するのだ。人生で、この世に生を受けてからの十七年間で初めての体験である。改めてそう認識した瞬間、中川の脳裏をさきほどの鮫島の意地の悪い笑顔がよぎった。
「がんばってなー」
もはや、中川はこの機会を与えてくれた鮫島に心から感謝していた。
当たって砕けろ、とは今この時のためにある言葉である。
でも、砕けるつもりは毛ほどもない。中川はそう思って、そっと空を仰いだとき、
がちゃり。
屋上のドアが開いた。心臓は爆発しそうな勢いで運動を始める。鼓動が耳にまで伝わる。顔は熱く、目玉をそのまま飛ばすような勢いでそのドアの先を僥倖した。
人影が、ゆっくりとドアを開けて入ってきた。
大人だった。
坂上じゃなかった。
中川の周りの時が一瞬止まる。その直後に押し寄せるように深いため息が襲った。
「ビビらせんなよ」
心の底から口の中でそう呟いて、がっくり肩を落とす。見れば入ってきた大人は女性である。夏だというのに暑そうなコートを羽織っていた。身長は中川と変わらないぐらいで、顔立ち的には三十代ぐらいに見える。その女性は屋上に入ってきたかと思うと、ひっきりなしに首を回して何かを探すように周りをきょろきょろしていた。
あっ。
中川と目があった。と思ったら物凄い勢いでその女性は中川めがけて走ってきた。その女性の顔が近づくにつれ、中川はあることに気が付いた。
「泣いてる」
思わず口にした。そう、なぜかその三十路の女は顔面をくちゃくちゃにして泣いていたのだった。泣きながら、鬼気迫る勢いのまま中川めがけて思いっきり抱きついた。頭から抱きしめられた。胸のあたりに硬いブラジャーの感触を感じる。女性は中川の肩に顔をうずめながら、
「うえええええええええん。あいだがったよおおおおおおおおお」
中川は、理解しようとするのを止めた。