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「おーねーい!起きなよ!バイトに遅刻しちゃうよ。」
「う、うう。あと、ごふん。」
初実は掛け布団を頭の上まで引き上げた。階段を駆け上がる音がした後、セーラー服を着た少女が初実の部屋にずかずかと入ってきた。ベッドの前で立ち止まり、掛け布団ごと初実を床に引き摺り下ろした。
「つぐみちゃんてば、ヒドイ。お姉ちゃん、さっき寝たばっかりなんだよ。」
「夜更かししてたせいでしょうが。そんなんだから、いい年こいて、フリーターなんだよ。」
哀れっぽい声を出してすがりついてくる姉をつぐみは鬱陶しげに振り払った。
(つぐみちゃんは、可愛いけど、口うるさいな。誰かに似ているような気がする。誰だっけ?)
仕方なく起き上がった初実はのろのろした足取りで洗面所に向かった。洗顔と歯磨きを済ませて戻ってくると、ハンガーに掛っていたワンピースを手に取る。脱着しやすいワンピースは不精な初実の必須アイテムである。ワンピースを着たのを見届けるとつぐみは姉をドレッサーの前に座らせた。
つぐみの手にはドライヤーと櫛がある。
「頭ぼさぼさじゃん。ほら、あたしがやってあげるから。」
「しっかり者の妹を持って、あたしゃ幸せ者だよ。」
初実は、しみじみと言う。お気に入りのアニメに出てくるおっちょこちょいなおかっぱ頭の女の子の口調を真似た。
「おねいが頼りなさすぎ。放っておいたら、死んじゃいそうなんだもん。」
流行りのウォームブラウンに染まった短い髪にクセ毛直しのスプレーをしてから、ドライヤーをかける。仕上げに櫛で形を整えた。
初実に髪を切って色を染めるようアドバイスしたのはつぐみだ。
髪型を変えることで、常識はずれな姉が普通の女性に近づくかと思ったけれど、今のところ効果はない。でも、つぐみは姉が好きだった。中身が変わらなくても、綺麗になって彼氏でも作ってくれるといい。
「化粧もやってあげようか。」
「遅刻しちゃうから、いいや。ありがと、つぐみちゃん。」
初実はつぐみの頬に軽くキスした。いつものように照れて赤くなった妹に柔らかく微笑みかける。
たとえば、こんな瞬間につぐみは姉が普通の人とは違うように感じる。まるで、外国で育った人のような、異文化の匂いを嗅ぎ取るのだった。姉は自分と血がつながっており、ずっと同じ家で育ったはずなのに。
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初実は鮨詰めのバスに揺られて、職場に向かった。
東丸書房という小さな出版社が初実のアルバイト先である。主に海外のファンタジー小説やSF小説を扱っていて、吹けば飛んでしまいそうな弱小出版社だが、社長が大層なお金持ちなので、時々赤字を出して生きながらえている。
その社長というのが初実の叔父である。つまり、コネで雇ってもらっている。もうすぐ二十七歳になろうというのに初実はフリーターなのだ。
「おはようございます、社長。」
「おはよう、初実ちゃん。」
社長室に顔を出すと社長の東丸一生が人の良さそうな笑顔で迎えてくれた。
一生は、初実の父親の弟で、四十歳の若社長である。小さな会社なので、スケジュール管理など細々した身の回りの事は自分でやっていたようだが、現在では初実が彼の秘書兼雑用係をしている。
「また、社長の方が早かったですね。秘書は、社長よりも早く出社すべきなのに。」
「おっと。初実ちゃんからそんな殊勝な台詞を聞けるとは思わなかったよ。どこから仕入れた知識だい?」
「ロマンス小説です。横暴な社長が美人な秘書に向かってこう言うんですよ。『僕は、完璧な秘書を求めているんだよ、ナタリー。夜遅くまで男と遊んでいて、ボスよりも遅く出社するような秘書は必要ない。出て行きたまえ!』って。」
「ナタリーが寝坊したのは、弟が高熱を出して一晩中看病していたせいだったんだろう。俺も間宮に無理矢理押し付けられてその本を読んだ。うちの会社でもロマンス小説を出したらどうかってしつこいのなんのって。せっかく美人なのに、あんな小説ばかり読んでいるから、彼氏できないんだろうな。そういえば、初実ちゃんは彼氏いるの?」
「いませんけど、そういう質問はセクハラです。」
むっつり答えると一生は鷹揚な笑い声を上げた。
「失礼。でも、社長としてじゃなくて、叔父として聞いたんだよ。彼氏いないんだったら、お見合いしてみないか。」
「へ?」
寝耳に水だった。初実はポカンと口を開けた。
「初実ちゃん、もうじき二十七だろう。いつまでもおっとりしているから、兄さんが心配しているみたいだ。初実ちゃんは、お嫁さんになる方が向いているんじゃないかって話になったんだよ。堅苦しく考えずにとりあえず会ってみるだけでいいからさ。」
来週の日曜日を空けておけよ、と社長命令が下った。
「はああ・・・」
初実はコピー機の前でため息をついた。
初実には異性を特別好きになった経験がない。恋愛小説を読むのは好きだし、男嫌いなわけでもないが、いざ彼氏だお付き合いだとなると腰が引けてしまう。
大学生の時、一度だけお付き合いをしてみたが、キスするらおろか手をつなぐことすらできなかった。 手をつなごうとする度、この人ではない、と頭の奥で警告する声が聞こえるのだ。その彼とはすぐに別れてしまい、以来、初実は誰とも付き合っていない。元々十人並みの容姿なので、特に男性にもてるわけでもなく、浮いた話題ひとつない人生を送ってきた。
(間宮さんみたいに王子様を待っているわけじゃないんだけどな。)
初実は、デスクで堂々と他社のロマンス小説に読み耽る女編集者を振り返った。間宮は「王子様」を待ち続け、早三十八年経ってしまったそうだ。
一生と間宮は大学で同じサークルに所属していた。一生が会社を起こすと聞きつけた間宮はわざわざ大手の出版社を辞めて駆けつけた。
容姿端麗な一生が四十になっても独り身なのは間宮が原因なのだろう。
間宮はそのことに気付かない。きっと近すぎるから。ずっと傍にいることが当たり前になっているから。王子様がすぐ隣にいることに気付けない。
(わたくしもそうして失った。彼を・・・彼って誰だっけ?わたくし?)
頭にふと浮かんできた言葉を理解できず、初実はしきりに首を捻った。