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Parallel Universe  作者: すずめ
第一章 黒髪姫
7/10

5

 繊細なガラス細工のワイングラスを日光にかざすと、七色の光の帯が床に伸びた。短く儚げな虹を少年は愛しげに眺めた。灰色かがった紫の瞳は磨かれた水晶のように高貴な光を宿している。事実、彼の生まれは他に追従を許さないほどに高貴であったし、陽気で美しい貴公子だと誰もが認めていた。ただ、彼の紫色をした水晶が曇る瞬間を目にするような稀な人間がいたとしたら、間違いなく自分の思い違いに気づいただろう。そして、もう二度とあのねじれた狂気を隠した水晶を見たいと思うまい。

 太陽の下で輝くものが彼は好きだった。光を浴びると、透き通ったすみれ色になる瞳や小麦色の巻き毛は彼のお気に入りだった。金髪と高貴な紫は初代ゲバル国王の容姿の特徴であり、王族の証である。その両方を兼ね備えているのは四人いる王子の中でも彼だけであった。もっとも、金髪と紫の瞳のどちらも持たないのは彼の一つ上の兄である第三王子だけだった。ふてぶてしいオリーブ色の瞳を思い出した少年は苛立たしげに舌打ちをした。

(あんな男と血がつながっているなんて、まったく忌々しい。)

 厩の方が騒がしいのは、あの男が帰還したからだろう。大きな瞳を怪訝そうに細めたシエル・ソマール・ムスカはワイングラスを置いて部屋を出て行った。

「キャップ。メアリ。ジャンバルジャン。ただいま、僕の可愛い子馬ちゃん。」

 もはや子馬とは呼べない巨体を並べる馬達にとろけそうな笑顔で話しかけていると、厩番のバズが口笛を吹きながら、干し草を片手に入ってきた。恰幅の良い老人はリンの姿を見止めると、慌てて口笛を吹くのを止めて、若草色のベレー帽を脱いだ。

「リン様。お早いご帰還で。」

幼い頃から見慣れている気の良い笑顔にリンも上機嫌で答えた。

「帰ったよ、バズ。ポニーのキャンディーは元気かい?あの子は特に足が短いからね。」

「元気ですとも。もう柔らかい草なら、自分で食べていますよ。それにポニーってのは短足な生き物ですよ。」

「それは失敬。でも、誤解しないでおくれ。僕はあの短い足とぶきっちょな体つきが好きなんだから。」

「分かっておりますよ。リン様がこの子らをどれだけ可愛がってくだすっているか私が一番分かっていますから。」

リンは整った顔に親愛を込めた微笑を浮かべた。ゲバル国には四人の王子がいるが、古株の厩番は厩に入り浸りぎみな第三王子と一番仲が良かった。

「ポリーナはどこだい?麗しのレディーに帰還の挨拶をして栗毛のたてがみを撫でてやらなくちゃ。」

バズの顔が急に曇ったと思うと、少し口ごもりながら、答えた。

「その、ポリーナは、シエル様が・・・」

血色が良く張りのあるバズの顔が珍しく二日酔いのように青くなり、唇が微かに震えている。

「シエルが?」

ただ事ではない様子にリンも眉間に皺を寄せた。帰ってきて早々、一番耳にしたくない名前が出てくるとは心中穏やかではない。

「足が遅いから、殺してしまえとおっしゃいまして。」

 リンは息を呑んだ。やっとのことで絞り出した声はひどくしゃがれていた。

「それで、殺してしまったというのか?」

「申し訳ありません。」

 嗚咽交じりですすり泣くバズは呻くように答えた。リンはしばらく無言で悲痛に歪んだ顔を隠すように手を当てていたが、やがて膝を折るように泣き崩れている老人の肩を慰めるように軽く叩いた。

「すまない。辛いことを言わせてしまったね。あなたのせいではないのに。」

今まで誰も言ってくれなかった哀れみの言葉をかけられたバズは、悲しみと情けなさでますます泣いてしまった。

 猛烈な怒りに駆られたリンは自室に寄らず、サロンへとまっしぐらに向かった。幸いにも、肩を怒らせたリンが、ロンの扉を乱暴に開いた時、そこにいたのはピアノを弾く第四王子のシエルだけだった。美貌の王子は入ってきたリンをちらりと横目で見ただけで、涼しい顔のまま、鍵盤の上の指を休めようとはしなかった。母親譲りの白く滑らかな肌や長い指を持ち、どこか中性的な容姿をしている少年はリンと少しも似ていなかった。

「お前という奴はいったいどこまでむごいことができるんだ。」

近寄ってきたリンの怒りを抑えた低い声を聞いたシエルはやっと手を止めた。

「何の話かな?」

歌うような声がリンの神経を逆撫でした。

「ポリーナのことだよ。何も死なせることはなかっただろう。足が遅くても、子供は生めるんだから。」

シエルは本当に何の話をしているのか分からないといった顔をしていたが、やがて「ああ」と言った。

「あのとろい牝馬のことか。忘れていたよ。でも、驚いた。この期に及んで馬の話とは。もっと違う話をしに来るものだと思っていたからさ。」

「反省する気はなさそうだな。」

「反省?なぜ?」

愉快そうに響く声がリンを苛立たせる。

「気に入らないから、簡単に命を奪うなんて、どうかしてるじゃないか。」

「リンこそ、どうかしているよ。動物の方が、大切なんて・・・まあ、仕方ないか。愛されなかったあなたが人を愛することなんてできるはずない。愛情の欠落をペットで補おうとするのは心が弱い証拠だよ。」

リンは背筋が寒くなるのを感じた。恐れではなく、怒りのせいだろう。

「シャンティのこともそんな風に傷つけるつもりなのか?」

僅かに眉を動かしたシエルは手を止めて、リンの方へ向き直った。

「やっと、黒髪姫の話か。人間に興味がないのかと思ってしまったよ。」

「そんな調子で、シャンティを傷つけるつもりだろう」

シエルは、心外だという表情を浮かべた。

「そんなつもりはないよ。僕だって、変わったのさ。あの子を可愛いと思うし、大切にして幸せにしてあげる自信もある。」

「お前のような人間にシャンティを幸せにできるとは思えない。」

「随分な言い草だね。じゃあ、聞くけれど、僕以外の他の誰が幸せにするの?彼女は臆病で人前に出られないじゃないか。面識があるのは僕とリンだけ。リンはあの子を受け入れることができる?人を愛することができないあなたに。」

痛いところを突かれたリンは黙りこくった。人を追い詰める冷酷な言葉は昔から変わらない。シエルはにこりと笑った。

「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。シャンティなら、絶対に泣かせない。大体、僕の方が身分もつり合うはずだよ。庶民を母君に持つあなたと違って、正室を母に持つ僕の方が大国ユサビアの王女に相応しい。」

リンは返す言葉もなく俯いた。勝ち誇った笑みを浮かべて、シエルは通り過ぎていった。



********



 降り続いた雨も止み、汚れを洗い流されたような真っ青な空はどこまでも澄み切っていた。夏もいよいよ間近に迫り、暑い日々が続いていた。城の使用人が里帰りをする姿もちらほらと増え始め、ついこの間までのけん騒がきれいさっぱり失せ、パズマ城は静けさを取り戻しつつあった。

 めっきり人の姿を見かけなくなった広い廊下を夏らしい淡い水色のドレスに身を包み、真珠をあしらった白い靴を履いた小柄な少女が走っていた。城のほぼ中央に位置する謁見の間を全速力で通り抜けたシャンティの耳に午後二時を知らせる時の鐘が聞こえた。

(まずい。完全に遅刻だわ。やっぱり、徹夜で『ジュバの乙女』を読んだのがまずかったかしら。いいえ。悪いのはエバよ。今日は謁見の間ではなくて、温室だってことをきちんと伝えておいてくれないのですもの。いつも通り謁見の間だったら、間に合ったわ。ああ、今日はなんて言えばいいかしら。)

 遅刻の言い訳をあれこれ考えながら、シャンティは温室へ急いだ。

 パズマ城は城の東側にいくつかの小さな温室を所有している。ガラス張りの丸い建物の中で南方から取り寄せた極彩色の花々や珍しい植物が栽培されている。水堀や上下水道など、水に関する管理の行き届いたユサビアの都では、これらの温室のように他国に見られない特殊な設備があった。

 シャンティは父親が自分をいつもの謁見の間ではなく、温室に呼んだ意図をいまいち分かりかねていた。花の咲かない冬に訪れるのなら、色彩鮮やかな花々が目を楽しませてくれる愉快な場所である。しかし、灼熱の太陽が密封されたガラスのドームを蒸し風呂状態にする夏にわざわざ好き好んで足を運ぶ価値のある場所ではない。

(お父様って、暑がりじゃなかったかしら。)

 走ったせいで、吹き出してきた汗をハンカチで拭うと、シャンティは一番手前にある赤い花専門の温室のドアを開いた。

 想像通り、むわっとした熱気がシャンティを包んだ。それでも、狭い温室を埋め尽くさんばかりに咲き乱れた情熱的な赤い花々を目にしたシャンティはしばし暑さを忘れてうっとりと見とれていた。シャンティが感受性豊かな少女でなければ、おそらく自分に背後から近づく人物が国王でないことに気がついただろう。

 しかし、シャンティは花々に夢中だった。おかげで小麦色の髪の少年は久しぶりに会った少女の容姿を間近でじっくりと眺めることができた。シャンティが彼の存在に気づいたら、すぐさま脱兎の如く逃げ出したに違いなし、実際、数分後にそうなった。十分観察したと思った少年は少女に話しかけた。

「綺麗になったね、シャンティ。赤い花達も強烈な美しさがあるけれど、君の可憐な美しさの方が、僕の好みだな。」

 突然、耳元で囁かれた甘い褒め言葉にシャンティは飛び上がりそうになるほど驚いた。声の主を見たシャンティは驚きと恐怖で固まった。幼い日の記憶が彼女に押し寄せてきた。

「シ、シエル殿?」

少年はすみれ色の瞳を細めて微笑んだ。

「覚えていてくれたんだね。うれしいよ。」

少年らしいはにかんだ笑顔を浮かべるシエルからシャンティは後ずさった。

「ど、どうして?」

「どうしてって、聞いていないのかい?僕は、君にプロポーズしに来たんだよ。」

 恐ろしく決定的な言葉にシャンティの顔は色を失った。シエルもそのことに気がついて戸惑った表情になった。

「あの、昔のことは、本当にごめん。君を傷つけたことはずっと後悔していたんだ。でも、聞いてくれ。あれは・・・」

「やめて!」

 悲鳴のような声でシエルの謝罪をはねのけたシャンティは踵を返すと、温室を飛び出した。走っている足が今にも崩れそうに揺れていた。世界中があざけるように彼女を取り巻き、全てが敵のように思えた。

 柔らかそうな小麦色の髪。水晶みたいな紫色の瞳。快活で明るい笑顔。陽気な笑い声―――突き刺すような視線。悪意のこもった言葉。見下したような含み笑い。相反するフラッシュバックが怒涛のように流れ込み、シャンティは走った。力強い腕に掴まれるまで、走り続けた。相手が誰であるかも確認せずに突然現われた腕を振りほどこうと、シャンティは暴れた。しかし、シャンティをしっかりと捕えた腕は、離すどころか、シャンティを包み込んだ。

「僕だ。リンだよ。怯えないで。」

耳慣れた低音に抵抗するのをやめて、自分を抱きしめている人物を見上げた。リンはどこか淋しげな表情を浮かべていた。

「リン。」

安堵したせいで、シャンティの瞳から大粒の涙が溢れた。リンはあやすようにシャンティの背中を優しく叩き続けた。

「シエル殿がわたくしにプロポーズするって。」

シャンティはリンの胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。

「うん。僕はシエルの付き添いで来たんだ。」

シャンティはぎょっとして、リンから離れた。

「リンも知っていたの。どうして、言ってくれなかったの?」

裏切り者を見るような目つきで見上げてくるシャンティを見て、リンは苦しげに顔をゆがめた。

「言ったら、君は逃げるだろう。」

「当たり前よ。だって、あの人は!」

「昔のことだよ。シエルは君のことを可愛いと思っている。君にだって、謝っただろう?」

「でも、」

「一度でいい。逃げないで、話をしてみるんだ。あいつと向き合って、それから決めても遅くはない。」

 救いを求めるようにもう一度リンを見上げた。けれど、リンは諭すように穏やかな笑みを浮かべただけだった。リンの表情を見た時、シャンティは自分の中に言い表すことの出来ないどろどろとした気持ちの悪い感情が広がっていくのを感じた。

「あなたを失って、代わりに得るのがあの人なの?」

低い声で呟いたが、リンはあえて答えようとはしなかった。

「リンがいいの。ずっと一緒にいてほしい。お姉様とリンが一生そばにいてくれれば、退屈な城も黒い髪も瞳も不細工な顔も我慢できるのに。」

 リンは何も言わなかった。

「誰かと結婚するなら、リンがいい。そしたら、リンとずっと一緒にいられる。」

 結婚という言葉を聞いたリンは急に頭が冴えていくのを感じた。黒髪姫の背後に見え隠れる彼女の姉の姿を恨めしく思う余裕さえできた。

「僕との結婚を入れ知恵したのは、ミーシャだろうね。」

我ながら、冷たい声だと思った。シャンティは驚いたようにリンを見た。

「ナンセンスだよ、シャンティ。僕は君の王子様になれないと何度も言っているじゃないか。」

 シャンティは耳まで赤くなったが、恥ずかしさで震える声でとぎれとぎれに気持ちを伝えようと努力した。

「愛してほしいと言っているわけじゃないわ。け、結婚しても、何も変える必要はない。ずっとそばにいる親友のままでいいの。」

 シャンティの申し出は実にありがたかった。リン自身でさえ、うっかり頷いてしまいたくなるほど、魅力的だった。けれど、リンは甘い誘惑を振り払うように頭を振った。

「勘違いしているよ、シャンティ。確かに僕らは親友だ。子供だった時間を共に楽しく過ごしてきた。だけど、これから僕と共に生きていくのは君じゃない。だいたい、愛し合えない者同士が一緒にいるなんて、不自然だと思わないかい?最初はよくても、後で絶対に辛くなる。お互いにね。」

 信頼していた相手にこれほどまで強い拒絶を受けるとは。シャンティは涙を必死に堪えていた。

 黒髪姫を心の底から大切に思っているリンはもっと傷ついていた。

(仕方がないんだ。僕は誰も愛せないのだから。それに気がついた時に傷つくのはシャンティなんだ。)

「いいかい。君は今まで与えられる愛情を受け入れてきただけなんだ。国王夫妻、ミーシャ、エバ、城の人々。彼らは無条件で君を愛している。だけど、生きるって、そういうことじゃないだろう。大人になることが必要なんだ。愛されたい相手を見つけて、愛を勝ち得なくちゃいけない。そのためにも他人と向き合うんだ。君なら、出来るから言うんだ。エバだって、城の人々だって、血のつながらない人でもちゃんとシャンティのことを愛してるじゃないか。」

重い沈黙がどれほど続いたのだろうか。ふいに、シャンティが、顔を上げた。

「私が好き?」

リンは頷いた。世界一好きだと胸を張って言える。

「ありがとう、リン。」

「え?」

 思いがけない言葉に驚いた。シャンティは、笑っていた。照れくさそうだが、いつものように白い歯のこぼれる笑い方だった。

「わたくし、シエル殿と向き合ってみる。昔のこともきちんと理由を聞いてみるわ。許せるかもしれないし、もしかしたら、愛せるかもしれない。お姉様やリンが変わっていくようにシエル殿も変わったのかもしれないわね。わたくしも認めてみようと思うの。変わっていく自分自身を。」

 言葉を注意深く選びながら話すシャンティは吹っ切れたようにさっぱりとした顔つきをしていた。

「リンは、いつもそうね。あなたは確かに私の愛情を勝ち取った。こんな私とずっと向き合ってくれた。だから、淋しいのね。リンから離れるのが苦しいのね。」

 声がくぐもり、瞳は濡れていたが、シャンティは微笑んだ。リンの見たことのない表情だった。

 瞳だ、とリンは思った。彼を真っ直ぐに見据える黒い瞳に強い意志があった。

 大事なものを失ったような気がした。シャンティを説得することに成功したはずなのに、リンの心は空洞になってしまったようだった。

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