4
シャンティの部屋を出たリンは大宴会の行われている食堂へ向かっていた。大股でずんずんと歩いていく彼は、非常に苛立っていた。思慮の足らない言葉でシャンティを傷つけた上、追い討ちをかけるように結婚の話までしてしまった自分がこの上もなく腹立たしかった。寝台の上で泣き崩れている少女が容易に想像できるだけに自分に対する怒りが募っていた。ろくに前も見ずに歩いていたリンが角を曲がった後に歩いてきた人物を衝突したのは、当然といえば当然であった。
「きゃあ!」
甲高い悲鳴と共に胸部に鈍い痛みを感じたリンは現実に引き戻された。見下ろすと、明るい金髪の持ち主がリンの胸に突っ込んでいた。
「申し訳ありません。」
リンは慌てて飛び退いて、謝った。
「いいえ。こちらこそ・・って、あら。リンじゃない。」
淑女らしくそつのない落ち着いた応対をした女性だったが、リンを目にすると、いくぶん気安い声色に変わった。
「ミーシャ。君だったのか。こんなところで何をしているんだ?」
リンもぶつかった相手が食堂の長テーブルの上座で夫と一緒にもてはやされているはずの花嫁であることに少なからずとも驚かされた。当然の質問にミーシャは肩をすくめて見せた。
「宴会の方なら、お父様のスピーチも終わったから、大丈夫よ。盛り上がっているから、主役の不在なんて誰も気にしないわ。それよりも、シャンティが倒れたのでしょう。心配だから、顔を見に行こうと思って。」
お色直しを済ませ、すみれ色のドレスに身を包んだミーシャは豊かに流れる金髪を払いのけると、あっさりと答えた。むしろ慌てたのは、リンの方だった。ミーシャの行く手を阻んで、しどろもどろな言い訳を始めた。
「い、今は、やめた方がいいんじゃないかな。シャンティも眠っていたようだし。」
妙に挙動不審な青年をミーシャは疑わしげに見上げた。普段から何事に対しても無頓着なリンが動揺する理由はほぼ一つしかないといってもいい。
「もしかして、またシャンティを泣かせたの?」
あさっての方向に視線を向けていたリンの眉がぴくりと動いた。ミーシャは思わず呆れたようにため息をついた。リンは苦い顔をしたが、ミーシャの腕を取ると、少し先にある談話室へと誘った。あまりに他人に聞かれたくないのだろう。
「イノシシみたいに突進してきたから、何事かと思ったわ。仲が良いのは結構だけど、繊細な子を刺激しないでと言っておいたでしょう。」
談話室にあるソファーに腰掛けたミーシャは責めるような口調で言った。リン自身も思うところがあったらしく、低い唸り声を発しただけで、自分も傍にあったソファーに沈み込んだ。
「今日は、一体何を言ったの?」
「例の光景をまた見たと言うから、もっと現実を見るべきだと叱った。あと、僕の縁談話もした。」
リンは渋々ながら答えた。
「縁談!それまた、急な話ね。」
素っ頓狂な声を上げた幼馴染を恨めしく見た。妹姫の妄想癖を大して深刻に捉えていないことはいいとしても、ゴシップ好きはほどほどにしておいてもらいたい。気高く淑やかな王女の実態に気づいている人間が城に一体何人いるのか恐ろしくて考えたくもない。
「君の本性を知った時のナイツ殿が実に気の毒だよ。」
「そんなことないわよ。彼は私を心から愛してくれているわ。運命の相手ですもの。」
恥ずかしげもなく言ってのけるミーシャに清清しさを感じるのは、彼女の苛烈な本質が常に一本気だからだろう。人前では、慎ましく淑やかな王女を演じるミーシャの本当の魅力は厄介なゴシップ好きに付随する大胆不敵な性格にあるのかもしれないと密かに思う。もちろん、相手にそれを受け入れるだけの器量があればの話だが。
(僕だって、ミーシャが本当の姉だったら、疎ましく思うかもしれない。)
気が強いけれど、いつもどこか自信なさげシャンティが頭に浮かんだ。内にも外にも眩しい姉に劣等感を持つなと言う方が酷なのだ。
「シャンティも早くそういう相手を見つけてくれれば、僕も安心して結婚できるんだけど。」
「あら。あなたはそれでいいのね。」
ミーシャは、長い睫毛をしばたたせると、意外そうにリンを見上げた。
「何のことだよ?」
「本当に分からないの?」
首をひねるリンを見つめながら、ミーシャは苦笑した。
「シャンティにあなたよりも大事な相手ができて、あなたは好きでもない姫と政略結婚する。それがあなたの望むことよね?」
「・・・そうだけど。」
一応頷いたものの、ずばり言い切られてしまうと、もやもやとした気持ちになった。ミーシャはむっつりと黙りこくってしまったリンを愉快そうに眺めた。
「面白くないのでしょう。」
ミーシャの試すような視線を居心地悪そうに受け止めていたリンだったが、やがて諦めたように両手を上げて降参のポーズをとった。
「オーケー。認めるよ。はっき言って、悔しいね。」
満足げな笑みを浮かべたミーシャだったが、追及の手を緩める気はないようだった。
「矛盾しているわ。シャンティに大事な人をつくれと言っておきながら、それを快く思えないなんて。」
「君は本当に意地悪だな。」
「素晴らしい褒め言葉だわ。ありがとう。」
ミーシャは、おどけたように目を白黒させる。昔から会う度にからかわれていると感じるのは決して気のせいではないだろう。
「君の父上のお気持ちと同じだよ。娘を他の男に奪われる時の不毛な苛立ちみたいなものさ。」
「そういうものかしら。」
クスクスと響く笑い声とさぐるような瞳はなおもリンを追い詰める。とうとう逃れられないことを悟り、大きく息を吐いた。
「矛盾してるよ。だけど、しょうがないじゃないか。結局、何を思おうが、僕は結婚しなければならない。シャンティに幼馴染の僕より大事な人ができようができまいが、それは変わらないよ。そこに恋という感情があれば、僕もシャンティもお互いを繋ぎとめておける理由になるだろうけどね。」
「あなた達の間に恋は存在しないの?」
やっと本題にたどり着いたとばかりにミーシャの声が妙に弾んだ調子に聞こえた。
「残念ながら、存在しないね。シャンティは、ご覧通り、まだ子供だ。それに僕に愛しい女性をつくるのは多分一生不可能だと思う。」
見た目は立派に成長しても、相変わらず辛気くささを漂わしている幼馴染にミーシャは鬱陶しそうな表情を隠さなかった。リンが自分に憧憬を持つと同時にどこか引いていることは幼い頃からなんとなく感じていた。ミーシャの許婚候補だった彼がシャンティと遊んでばかりいたのも、シャンティの持つ暗い部分に同調してのことだということも。
(わたくしにはきっと一生理解できないわね。)
無邪気に走り回る二人を眺めながら、仲間はずれされた気がしていたことは絶対に秘密にしておこうとミーシャは心に誓った。
「子供だって、いつかは大人になるのよ。愛する相手は自然に出来てしまうものなのに。」
「いつかはね。だけど、今じゃないし、シャンティを大人にさせる男は少なくとも僕じゃないよ。」
リンは静かに言った。ミーシャの目には何もかもを諦めてしまっているように見えた。
「あなたって、本当に淋しい人ね。結婚相手に選ばないで、正解だったわ。」
やや興醒めしたようにリンから視線を外した。
「よく言うよ。見向きもしなかったくせに。」
「何を言っているの。あなたこそ、わたくしに見向きもしなかったじゃない。小さなシャンティの手を引いて駆けずり回っていたあなたの姿しか覚えていないわ。」
「そうだったかな。」
責めるような口調で返されたリンは戸惑ったように呟いた。
「そうだったのよ。」
かみ締めるように言い、懐かしそうに目を細めた。リンも何か思い出したのか、少し照れたように頬を掻くと、改めてミーシャに向き直った。
「おめでとう、ミーシャ。幸せになってくれよ。」
「ありがとう。わたくしは幸せになるわ。でも、覚えていて。あなたも幸せにならなくてはダメよ。あなたもシャンティも。」
ミーシャはきっぱりと言い切った。
「努力するよ。」
リンは淡く微笑んだが、正直な言葉かどうか、彼の性格上、大いに疑わしかった。相手をなだめるためならば、いくらでも優しい微笑を浮かべることが出来るのが目の前の青年だった。
「頑張ってね・・・ああ、そうだ。あなたが結婚するというから思い出したのだけど、シャンティにも縁談の話が一つ来ているのよ。」
ミーシャが突然思い出したように声を上げた。
「縁談だって?シャンティが?」
「ええ。でも、まだシャンティ本人も知らされていないわ。まだお父様と先方の間だけのお話だからと、口止めされているの。」
そう言うと、ミーシャはリンをちらりと見た。話しでもいいかどうか、迷っているのだろう。それとも、また思わせぶりな態度でからかおうとしているのか。
「僕なら、誰にも言わないよ。シャンティにも。誓って言わない。」
どちらにせよ、黒髪姫のことなら、何でも知りたいリンは胸に手を当てて片手を上げた。
「そうね。あなたなら、心配ないと思うけど。それにわたくしはあなたもご存知だと思っていたのよ。」
「僕が?なぜ?」
不思議そうに尋ねると、ミーシャは少し言い難そうに押し殺した声で答えた。
「お相手はシエル殿よ。」
小麦色の髪と小馬鹿にしたような笑みが脳裏をかすめる。リンは信じられないという面持ちで瞬きを繰り返した。
「聞き間違いかな。君は今シエルと言った?」
口元をきつく結んだミーシャはかぶりを振った。その瞳は真剣そのものである。
「いいえ、聞き間違いではないわ。シャンティの縁談相手はシエル・ソマール・ムスカ殿。あなたの弟君にしてゲバルの第四王子。」
あまりの驚きにしばらく二の句をつなげることができなかった。いくらか落ち着きを取り戻したが、それでも上擦った声を出した。
「おかしいだろう。第一、シャンティとシエルは」
「そう。昔一度会ったきりよ。」
「しかも、シエルはシャンティを酷く傷つけた。黒い魔女と罵って。シャンティはたくさん泣いた。あの後、怯えたシャンティは僕でさえ一週間会ってくれなかった。」
リンは苦々しげに言った。
思い出すだけでも腹が立った。黒髪を切ってしまおうと、はさみを振り回すシャンティ。なんとか取り押さえられた後、エバの腕の中で泣き叫んで暴れるシャンティ。
ミーシャはその事については、何も言わなかったが、同じ気持ちのようで、リンの口ぶりに眉をひそめたが、特に咎めようとはしなかった。
「お父様にはおやめになった方がいいと申し上げたのよ。でも、シエル殿自身が乗り気だとおっしゃっていたわ。なんでも、昔の非礼は照れ隠しだったと謝罪していらっしゃったとか。それにお父様もゲバルと友好関係を強固に結んでおきたいらしくて、つっぱねることができないのよ。ほら、わたくしとあなたがダメだったわけだし。」
ミーシャ自身も信じてよいものか迷っているらしく、いつもの歯切れの良さが感じられない口調だった。
「僕は到底信じられないよ。あのシエルがそんなこと言うなんて。誤解しないでくれ。これはシャンティへの侮辱じゃない。シエルの本質的な問題だよ。兄として言わせてもらうけれど、あいつの性格は変わっていない。」
言うが早いが、リンは立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「ゲバルに帰る。父上とシエルにどういうつもりか聞いてくる。ごめん、ミーシャ。今日のところは失礼するよ。」
退出の挨拶もそこそこに駆け出していくリンの後ろ姿をミーシャは呆然と見つめていたが、しばらくして耐え切れなくなったように吹き出した。
「誰も愛せないなんて言って。馬鹿な人ね。あなたをそんなに心配させて悩ませているのはいつもたった一人なのに。」
笑っていると、ふいに視界が滲んできた。しょっぱい涙は初恋の仕上げの一つまみの塩のせいだろう。
(結婚式の夜に二人きりで元許婚候補と会うなんて、なんだかドキドキでいたけれど、損した気分だわ。とても幸せなのに切ない夜になってしまったじゃない。)
大陸一と名高い絶世の美女が幼い頃に淡い想いを寄せていたのが誰だったか、あの鈍感な青年はちっとも分かっていないのだ。
********
枕元に置かれたランプのオレンジ色の灯りが少女の白い横顔をちろちろと頼りなさげに照らしていた。ぷっくりと腫れた瞼は痛々しかったが、ミーシャが部屋に入ってきたことにも気づかず寝台の上に広げられた本を読み耽る様子を見れば、ひとまず立ち直ったようだ。
辛いことがあると、本の世界に現実逃避する妹を困ったものだと思いつつも可愛いと思ってしまう。部屋にふんわりと漂う甘い香りにも気づかないミーシャではない。小さな後姿に微笑を浮かべたミーシャがゆっくりと腰掛けた時、シャンティはようやく姉の存在に気がついた。握り締めていたカラフルな紙包みを咄嗟に隠そうとした手をやんわりと制した。
「姉様に一ついただける?」
肌が荒れるからと言って、チョコレートを控える姉の珍しい発言にシャンティは驚いた顔をしたが、やがておずおずとピンク色の紙包みを差し出した。
「ふふ。ありがとう。姉様の一番好きな色をくれるのね。」
「エバには言わないでね。」
共犯者を得て安心したような笑みをこぼしたシャンティにいたずらっぽく微笑むと、ミーシャは妹の隣に横たわった。
「もちろんですとも。本とチョコレートがあなたの大親友だってことはちゃんと心得ておりますよ。姫様。」
エバの口調の真似をしたミーシャを見上げて、シャンティはくすくすと笑い声を上げた。
「ナイツ様と一緒にいなくてもいいの?」
「いいのよ。心配しなくても、これから嫌になるほどの長い時間をあの方と過ごすのよ。初夜の数時間を妹と過ごしたって、問題ないはずだわ。」
「嫌になるの?」
すかさず、質問してきたシャンティの頭をミーシャは、軽く小突いた。
「いやね、言葉のあやよ。そんなに姉様がお嫁にいってしまうのが淋しい?」
シャンティはぎくりとした顔をしたが、やがて諦めて、ミーシャの胸に顔を埋めた。
「淋しいわ。でも、なんで分かるの?わたくし、あんなに立派にお祝いの言葉を言えたのに。」
温かく柔らかい感触をミーシャは強く抱きしめた。
「自分が幸福だということを真に理解している人間は周囲の人々のことがよく分かるものよ。それが幸せになってほしい相手なら、なおさら。」
シャンティが震えだした。
「リンも結婚してしまうって言っていたわ。」
「聞いたわ。」
「お姉様もリンもわたくしを置いていってしまうの?」
「置いていくわけじゃないわ。お嫁といっても婿取りだから、ナイツはこの国の王位を継ぐだろうし、私達はあなたのそばにいるわよ。リンだって、時々会いに来てくれるわよ。」
「でも、お姉様にはきっとすぐに可愛い御子ができて、わたくしなんか見向きもしなくなるわ。リンだって、そのうちにきっと。」
いかにも幼稚な発想にミーシャは呆れて吹き出しそうになった。ずっと子供だと言わんばかりのリンの見解もあながち間違っているわけではなさそうだ。
「わがままね。」
愛しさを込めてミーシャは優しくシャンティの頬を撫でた。
「姉様が良いことを教えてあげるわ。」
「なあに?」
(とことん悩みなさいよ、リン。)
怒鳴り込んでくる幼馴染の姿を思い浮かべながら、ミーシャは無垢な黒い瞳で見上げてくる妹の耳に口を寄せた。