探偵もどき
多分彼は、どこかの三流小説家が書いた物語の登場人物なのだ。
巨大な書斎の中央で、背を丸めて本を読みふける彼を見るたびに、私はいつもそう思う。
「お夕食をお持ちしました」
そう声をかけたって聞きやしない。それどころか本が汚れるのが嫌だからと常に持参している漆塗りの箸でポテトチップスを器用につまみ上げ、それを欠片ひとつこぼさず、つまり酷く行儀の悪い食べ方で咀嚼するという非常に腹立たしい行為まで見せつけて、彼は私の声を無視する。
いや、多分本人は無視している自覚すらないのだろう。そしてそれが一番の問題だ。
「ご飯が食べられなくなりますよ」
しかたなく、夕飯の載ったお盆を片手に、私は入り口に積まれた本の山を突き崩す。
そこでようやく悲鳴を上げながら、彼は私を振り返った。
「気を付けろと何回言わせるのだ、これは全て貴重な…」
「古本屋で集めてきたがらくたでしょう。ほら、食器が片づかないからさっさと食べてください」
「腹は空いていない」
「そんな物食べてるからでしょう」
そう言ってポテトチップスの袋を取り上げれば、女々しい悲鳴が彼から上がる。
「それでどうします? いらないなら下げますけど」
「…さっきのは君が不作法だからかっとしていったのだ、腹が空いていないのは確かだが、君が作った物は食べる」
「じゃあ5分以内にお願いします、もう食器洗浄機のタイマーかけて来ちゃったんで」
「機械を使うなら後でも良いではないか!」
「いらないなら片付けます」
彼は急いでそばの本をどかし、私から受け取ったお盆を膝に載せる。
「せっかく楽しみにしていた食事を5分で終えろとは…」
「楽しみにしていた割にポテチ食べてたじゃないですか」
「だって、いつもより2時間も早い」
「今日早くあがるので」
「用事か?」
「デートです」
本を汚さないようにと様々な工夫を凝らすこの男が、あろう事か米を吹き出した。
「ちょっと、汚いんですけど」
「デートなんて許した覚えはない」
「あなたとは雇用関係を結んでいますが、その手のことまで誓約される覚えはありません」
「なぜだ、なぜデートなどするのだ」
「SEXしても良いかなって男に出会ったんです」
「今の説明には私の本能が承知しない!」
意味不明なことを叫んで、彼は食器をお盆に叩き付けた。
それから私は彼の側に落ちている彼の愛読書に目を落とし、ため息を重ねる。
「またなりきりシャーロックですか?」
この男は古今東西の本の中でも、あの推理小説が大のお気に入りなのだ。それ故感情が高ぶるとあのきざったらしい本の登場人物の台詞を引用する癖が出るのである。
「今また、我が愛読書のことをきざったらしい本とか思っただろう」
「私って、そんなに考えが顔に出ます?」
「私は以前から、細かなことこそ何よりも重要なのだという言葉を格言にしているんだ」
「つまり、私の些細な一挙一動を観察して考えを読んでいると? 凄くキモイですよ」
「ホームズの言葉を卑しく解釈するな!」
「仕方ないでしょう、使っているあなたが卑しいのだから」
私がそう言って、空いた皿を片づけ始めると、彼は突然私の腕を掴んだ。
「…本当に行くのか?」
「当たり前でしょう。私欲求不満なんですよ」
「……なら私を使えばいい」
あまりの一言に思わず言葉を失っていると、言った本人が動揺し始めた。
「いや、すまん。今のは忘れてくれ」
「……」
「頼む、お前にそんな目で見られると、さすがの私も恥ずかしくて死ぬ」
「じゃあ死んでください」
いつもの調子でそう言って部屋を出れば、閉じた扉の向こうから激しい倒壊音が響いた。
あの本の虫が、何よりも大事な本を崩しているのは信じられなかったが、ああ見えて意外と恥ずかしがり屋なところがあるので、自分の言葉を後悔しながらのたうち回っているのかもしれない。
とはいえなぐさめる理由はない。けれど彼の微妙な一言に萎えてしまったのも事実で、私は食器洗浄機のタイマーを止め、それからデートの相手に断りの電話を入れた。
久しぶりに食器を手洗いしてみるかと腕をめくれば、そこに現れたのは彼だった。
どこかに出かける様子だとわかったのは、敬愛する探偵そっくりの外套を手にしていたからだ。
今夜は冷えるからマフラーもと声をかければ、彼は驚愕の表情で私を見ていた。
「デートは?」
「キャンセルです。食器洗浄機の調子が悪くて」
「嘘だ!」
そう言う否や、彼は外套を脱ぎ捨て私の体に抱きついてきた。暑苦しい。
「どうしてこんな事をするんですか?」
「知らないのは、心で見ないからだ」
「告白する度胸がないのを、本の台詞で誤魔化さないで下さい」
私の指摘に彼が物凄く焦っているのを感じていたが、肝心な気持ちを自分の言葉に出来ないのは昔からの癖だ。
だから不確かで、まるで小説の登場人物のように思えていたが、触れてみると意外と彼はただの男だった。
「とりあえず離れて貰えますか? 食器を片付けないと」
「片づけたら行ってしまうのか?」
「次はあなたの部屋の片づけです。ずいぶんと荒らしていたようですので」
「そのあとは?」
「少なくとも朝まではかかるでしょう」
「でも明日は?」
「明日はお休みなのでここには来ません」
「……時給を2倍にするから、毎日来て欲しいと言ったら困るか?」
困るに決まっているが、名探偵を気取っている癖にそう言うところにこの男は気付かないのだ。
「だめです、明日は家に友達を呼ぶので」
「男だな」
「よくわかりましたね」
「君には女の友達がいない。と言うかそもそも友達がいないからな」
「いますよ」
「どこに?」
腕の中から彼を見上げれば、探偵気取りはようやく私の体から腕を放し、真っ赤な顔を手で覆った。
「この苦難と暴行と不安の循環は何の役をはたすのだ」
「人のお誘いを暴行呼ばわりですか、そうですか」
「だって今まで、いくら私がその気を見せても君は無視してばかりいたじゃないか」
「私、回りくどい男嫌いなんで」
「……好きだ」
「じゃあ寝ますか?」
「君は直球過ぎる!」
恥じらい方が乙女のようだと思ったが、乙女でなかったら今の一言を言うのに5年もかかっていないだろう。
彼が私に一目惚れをしていたのは、会ったその瞬間にわかった。何せ人の顔を見るなり真っ赤になって階段下の倉庫に飛び込み、扉越しに「お前を雇う」とか言ってきたのである。
何処の中学生だと突っ込みたかったが、さすがに30も過ぎた男にそれは失礼だとやめた。今だったら確実に突っ込んでいるけれど。
「とりあえず、腕を放してください。何をするにしても」
「……まずは、デートとかから始めないか?」
「いいえ、片づけからです」
私の言葉に、ようやく彼が腕を放した。