夕暮れの踏切
「お疲れ様でした」
「お先に失礼します」
「お疲れ。パチンコに寄ってかんけ?」
一日の仕事が終わり、帰り支度を始めた私に、同僚がそう問いかけてくる。
「悪い! 今日はダメ。それじゃあお先に」
私はそう答えると部屋を出る。そして退出口の下駄箱から黒いスニーカーを取り出した。
(‥ バタン!)
蝶番の留め具が緩んでいるドアが、後ろで大きな音を立てながら勢いよく閉まる。
私はその音を背中に聞きながら、事務所の裏手にある職員用の駐車スペースに回ると、停めてあったシルバーのハイラックスサーフの運転席に乗り込んだ。
事務所から市道に出ると、一級河川に掛かる橋の手前を右に曲がり土手の上の道に入った。職場までの通勤路は、交通量が少なく信号も無い土手道を使っていた。
その日の帰りもその土手道を、自宅へと続く幹線道路に向けて走っていた。
幹線道路に入る次の大きな橋の袂までの間には、JRの単線鉄道を横切る場所に、警報機と遮断機を備えた小さな踏切があった。
私の運転する車は、何事もなくその踏切のある場所へと差し掛かった。シートの位置が高い運転席からは、前がよく見えた。
前方に、左手の土手下に流れる一級河川の太い流れを渡る、緑色に塗られた鋼材が組み合わされた鉄橋が見える。鉄道は土手道と直ぐ前方で交わり、そこに黄色と黒が混じる踏切があるのが見えている。
その踏切は、土手道より幾分高くなり、踏切内の線路の大部分が太鼓橋状に盛り上がっていた。だから、手前からでも踏切内の状況をよく見ることができた。
「うんっ?…」
フロントガラス越しに前方を見る私の目に、踏切内に何かが丸くなっているのが見えた。
踏切に近づくにつれ、次第に踏切内の物が何であるかがはっきりと分かった。果して、それは人であった。
人が、踏切内の二本のレールの間に座りこみ、丸くうずくまっている。
「何で? ‥あんな所で?⋯⋯」
狭い土手道にある単線路線の踏切だったから、その踏切の幅は、普通の踏切よりもずっと狭かった。その踏切の、土手道と線路が十字に交わる場所に、その人は座っていた。
それは、踏切からまだかなり手前を走る車の中から見ても、かなり不自然な事に思えた。
私はゆっくりと、車を踏切へ乗り入れていった。
その時、踏切に接近してくる列車もいないと見え、直ぐに警報機が鳴り遮断機が下りてくる気配は無かった。
若干盛り上がった踏切内を、サーフの長いボディーが乗り越した時、前方の視界が途切れた。その時、そこにいるはずの人の姿が一瞬車体に隠れ、見えなくなった。そして間もなく前輪が踏切内の線路をまたぎ、運転席が線路の真上に来た時、その人は、私の右手下に見えている線路の真中に座っていた。
もう夕闇が迫ろうとしている時刻で、周囲は既に薄暗く、踏切は黄昏の帳の中に包み込まれつつあった。
その人は、薄暗い踏切の二本のレールの間に、両の膝を両手で抱える様にしてうずくまり、座りこんでいる。
首を下に曲げ、頭を両の膝の間に抱え込んでいてその顔は見ることはできないが、着ている服や黒く長いその髪型からは、それがまだうら若い女性であることが見てとれた。
「こんな時間に、こんな場所で⋯。何を?…」
私はギアをパーキングに入れ、そのまま車を踏切内に止めると、運転席の窓から顔を覗かせその人の姿を見下ろした。
だがその女性は、直ぐ横に突然サーフの大きな車体がエンジンを掛けたまま止まったにも関わらず、相変わらず顔を上げる素振りも見せずにそのままの姿でうずくまり続けている。
恐らくいつもの私だったら、直ぐに車を降り、その人に安否を尋ねる声を掛けていただろう。
だがその時、その踏切でうずくまる女性を取り巻く空気は、何かがおかしかった。既に周囲が夕闇に包まれ薄暗くなっていた事もあるのだろうが、どこかが日常とは異なっている気がしていた。もちろん、そこにうずくまる女性は顔が隠れて見えないだけで、見る限りでは普通の若い女性にしか見えなかったのだが。
だからその時、私はその女性に声を掛けることがはばかられていた。
この踏切を過ぎ右手側に伸びる線路は、その先の急行列車が止まる駅までは長く急な下り坂で、しかも見通しの良い線路が真直ぐに続く、この路線でも最も列車のスピードが上がる区間の一つであった。そのため、ここは地元でも有名な列車への飛び込み自殺が多い場所として知られていた。そして、この近くに勤める私は、当然この事を知ってもいた。
私はドライブレンジにギアを入れ、再びゆっくりと車を進めると、踏切を後にした。その時見えたバックミラーには、相変わらず同じ姿勢でうずくまる女性の姿が映っていた。
車窓の周りには夕闇が迫り、既に逢魔が時に染まっていた。
私の車は、土手道から幹線道路へと出る、その一級河川に架かる大きな橋の袂へと差しかかった。この橋とのT字路を右に曲がれば、そのまま道は家へと続いていた。
私はいつもの様に左右を確認しながら、ゆっくりと車を進めT字路内に進入した。そのT字路に一時停止の標識は無かった。
右側は橋に続く擁壁のため見通しが悪く、だからその日も、いつも通りに右側を確認していた。
と、その時、車のフロントグリルの正面に軽い衝撃が走った。
「ガシャッ!」
「 ‼ 」
ノーズの長いサーフの正面グリルに取付けられているカンガルーバンパーに、右側から猛スピードで車道を走って来た自転車が接触する様にぶつかった。そしてぶつかるとそのまま車の正面の車道に、自転車ごと乗っていた男性が弾き飛び、転倒した。
その自転車はロードバイクで、スピードがかなり出るタイプの自転車だった。乗っていた男性は黒いデイパックを背中に背負い、流線形をしたロードバイク用のヘルメットを被っていた。
多分、私の車は時速十キロメートルも出ていなかったのだが、逆にその自転車は、原付バイクよりは遥かに早いスピードが出ていただろうか。
その時の私の感覚では、正しく、猛スピードの自転車が勝手に車へと突っ込み弾け飛んだという感じで、その一連の出来事が運転席のフロントガラス越しに、私の目にはその瞬間がまるで動画のスローモーションの様に映っていた。
「 大丈夫ですか⁉」
私は車をT字路のその場所に停めると直ぐに車道に出て、倒れている男性を抱え起こしそう言葉を掛けた。男性は意識もあり、特にどこも怪我をしている様には見えなかった。その男性と自転車を橋の向こう側の土手に避難させると、携帯で119番と110番への通報をした。
『はい、110番です』
「ここは …」
やがて警察が到着し、事故の状況や、相手方の男性の怪我の状態などの確認があった。幸いにもその男性の怪我は軽そうで、その男性の指定する病院に私が車で載せて行き、受診して診断を受ける事になった。だから、その場での救急車搬送は行われなかった。
後日、管轄の警察署で、両者からの事故の状況確認の事情聴取が実施された。事情聴取は、二人別々の部屋で行われた。
『あのT字路は一時停止の義務は無く、貴方は徐行と安全確認もしていましたから…』
『‥ だから、人身事故として処理しますが、四点だけ我慢してもらえますか?』
『しかし、嫌な人を引っ掛けたものだね…』
私を担当した警察官は、意味深にそう、それだけを私に告げた。
それから暫く、私は事故の事も忘れ、普通の日常の中にいた。
そんなある日の午後だった。
『面会のお客様がお見えです』
庶務課の女性から、事務所に私への訪問客があった旨の電話を受けた。
事務所の応接室に通されていた来訪者は、あの事故の日、自転車に乗っていた相手方の男性であった。その男性の頭と腕には、傍目にも見るからに痛々しげな、それでいてどこか大げさで不自然にも見える白い包帯が巻かれている。
相手方の怪我の治療は、ディーラーを通じて全て保険会社に一任していたため、特に私が相手に会う事は無かった。ただ、相手方が事故後の怪我の治療を継続している事は、保険会社から来る毎月の治療費の支払い通知で知ってはいた。
その時、私は内心、相手のこれ見よがしのその格好を見て思った。そして同時に、警察であの日言われた言葉も、頭の片隅を過っていた。
「‥ 今頃、何を? ⋯ ⋯ 金か?」
私はその男の様子と、当事者として被害者と直接話をしてはまずいとの思いから、日頃懇意にしているディーラーの店長に電話すると、その状況を注げた。
「実は…。今、事務所に事故の被害者が…。
…ええ。大げさな包帯を巻いて…」
『⋯解りました。直ぐに伺いますから…』
そして間もなく、店長は私の勤務先を訪れると、一目でその場の状況を見て取り、有無も言わせずに相手の男性を一喝の元に追い返した。
その時、私は相手の男とは一言も言葉を交わさなかった。
ただ、保険会社からの治療費の相手への支払い通知は、それからも毎月届いていた。
そして、それが一年を過ぎた頃、裁判所からの、事故の因果関係を明らかにするための裁判の開催の告知と、当事者として私に了承と承諾を求める通知が私の元に届いた。
どうやら保険会社でも相手方からの再三に度重なる治療費用の申請に、事故との因果関係を明らかにする必要があるとの動きがあった様だった。
それは、その裁判を告知する通知があってから間もなくの事であった。
先の、ディーラーの店長が私に告げた。
「あの、自転車で跳ねられた人が、亡くなりました」
店長は私に、それだけを言った。
その時、私が更に詳しく問いただそうとしても、店長にはそれ以上私に話す気持ちが無いことが、彼の話す態度から自ずと私には知れていた。だからその時、私はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、店長が言葉を濁す中で、その男性の死亡原因が癌である風ではあったのだが、私にはそれが店長により後付けされた理由である様に感じられていた。
しかも、裁判の通知からの時間の経過からそれを邪推すると、相手方の自死という事も十分には考えられたから。今となっては全てが闇の中ではあるが、私に取ってそれは非常に後味の悪い結末となった出来事だった。
改めて思うと、あの事故の日、もしあの踏切で膝を抱えて線路にうずくまっていたあの若い女性に、一言だけでも声を掛けていたとしたら、その先のあの出来事はどうなっていたのだろうか。
もしという事があり得ない事は、十分承知している。だが、多分あの男性の乗る自転車と遭遇するタイミングはズレ、事故を起こす事も無かったのかもしれない。
そして、あれは本当に若い女性がそこにうずくまり座っていたのか、もしくは逢魔が時を迎えた夕暮れの帳の中で、その先の線路で列車に轢かれ亡くなった人の魂が、その姿を私の目の前に現したのか。
しかし何れにせよ、あの夕暮れの踏切にうずくまっていた若い女性は、私に取って『悪いモノ』ではなく、むしろ『良いモノ』だったかもしれないとも思う。
あの若い女性は、かつてまだ私が妻と付き合っていた頃、あるホテルの浴室で身の毛もよだつ様な恐ろしい泣き声を聞かされた、あの時泣いていた女性だったのではと思う事もある。
それは本当に何の根拠も無く、ただ何となくそう思うだけなのだが。
それからも、あの踏切を朝に夕にと、また深夜遅くに通る事も多々ある。だが、あの、踏切に膝を抱えてうずくまる女性の姿を見る事は一度もなかった。
(了)




