おやすみ、オッピー
【第一章 降下】
火星は『宇宙船の墓場』と言われていた。
1960年代から現在までの、火星探査機の投入成功率はほぼ50%だ。ここ数年は成功例の方が珍しい。こと、地上探査機に関してはさらに難易度が上がった。
――2004年1月。
そんな火星に探査機を搭載した、二つのカプセルが火星に投下される。
探査機、と言っても人工衛星ではない。火星の地表に降り立ち、そこで様々なデータを収集する『火星探査車』だ。
地球よりはるかに薄い火星の大気圏を切り裂き、カプセルは赤々と燃えながら落下する。
パラシュートが開き、中にいた『スピリット』と『オポチュニティ』は急速なGに体を引っ張られた。2人が乗った着陸船は、葡萄の房のような形の巨大エアバッグが膨らみ、落下の衝撃を防ぐ準備を整える。
薄い大気で速度を落とすためにロケットが逆噴射し、急減速。
規定高度でエアバッグで包まれたスピリットとオポチュニティを切り離す。
「のわあああっ!!」
「おわわわわわ!!」
覚悟はしていたはず。シミュレーションしたはず。それでも物凄い感覚だった。
エアバッグを備えた着陸船は、バスケットボールのように、火星の地表で埃を舞い上げながら30回もバウンドした末に停止した。
厳重に固定し、綿密に計算されていると言っても、激しく荒々しい着陸。軟着陸とは程遠いように見えたが、中の2人は無事だった。さすがは技術のNASA、容赦のなさというべきか。
しばらくして、自動的にエアバッグが萎むと、台座がゆっくり広がり、目を閉じた2人の姿が露わになる。
双子の姉妹というだけあって、瓜二つ。装備までも一緒で、同型の高性能カメラを手にしていた。
2人は火星の大地のように赤髪をしており、そこには虹色のハイライトが入り込んでいた。
姉の『スピリット』は長髪で吊り目、妹の『オポチュニティ』は短髪で丸い目をしていた。
身長に差はなく150センチメートル。背には装備が詰まったリュックを背負い、白い探査服を着ている。足には火星の荒れ地に対応した厚底の登山靴を履いていた。
ただ、彼女たちはそれぞれ別々の大地に立っていた。その直線距離はゆうに10,000キロメートルはある。
――スピリットとオポチュニティに宿命づけられたのは、共に『90日間の命』であること。
火星の過酷な環境下では、彼女たちの命は到底儚いものだった。
激しい気性――もとい気象の火星において、長期間での運用は難しいと考えられていた。短命なのは、それを念頭に置いていたからだった。
……だから、彼女たちには悠長にしている時間はない。
異世界に着陸した余韻もなく、手短に身支度を済ませ、ミッションへと身を投じるしかなかった。
火星の夜明けが、刻一刻と迫る。
【第二章 赤い大地の二人】
火星の朝は、淡い青の光で始まる。
大気が常に塵を帯びていて、”ミー散乱”によって太陽は青く、空は赤く見える。
その太陽は地球の三分の一ほどのサイズにしか見えない。どこか頼りなく、儚く昇っていく。
MER-Aスピリットは岩だらけのクレーターの底に立っていた。ソーラーパネルを開き、大きな高精度カメラを持ち、重い精密機器を背負い、登山靴をつけて。
「ここは……グセフ・クレーター?」
着陸船で散々バウンドした上に、軽度の通信障害のせいで正確な位置が掴めない。
スピリットは、白いゲインアンテナを起こした。
この裏には、先の『スペースシャトル・コロンビア号』の空中分解事故で殉職した七人の名が刻まれていた。宇宙開発に殉じた彼らの想いを、裏切るわけにはいかない。
「ここは、『コロンビア・メモリアル・ステーション』と名づけよう」
スピリットは、そこにそう名前をつけた。
祈りを捧げてから、彼女は、ゆっくりと着陸船のスロープを降りた。
そこは永遠に続きそうなほど広大な砂漠だった。赤茶け、鉄臭さが漂う景色が広がっていた。
異世界情緒、と言えばそうかもしれない。
でも、どこか地球にもありそうな風景に、スピリットはありもしない懐かしさを覚えた。
彼女は瓦礫のような石を一つずつ調べ、手の中に置いては装備のマイクロイメージャーのルーペで確認し、モスバウアー分光計、α粒子X線分光を使って成分を測る。
石ころの正体は黒々とした火山岩だった。
「ここは……昔、火山があったのかもしれない」
今の火星は、ただ活動を終えて静かになった、赤い鉄の惑星に見える。
だが、以前は確かに激しい地殻の活動があったのかもしれない。地球のように。
「凄い旋風……」
スピリットは砂漠に巻き起こる茶色の旋風を高解像度カメラのファインダーに収める。連続写真として撮り、地球で動画化できるようにした。
「意外と起伏があるのね、火星って。クレーターも沢山ある」
彼女は独り言ちて、冷たい火星の風に髪を揺らした。
そして、小さな一歩を踏み出した。
火星の砂が、彼女の足跡を記憶した。
*
遠く離れた火星のメリディアニ平原では、妹の探査ローバーのMER-Bオポチュニティが、同じ火星の鉛色の空の下で、別の景色を見ていた。
広がる大地の上に並ぶ、層を成した岸壁。明らかに、”なにか”が堆積した形跡があった。
《『オッピー』、どうやら君はクレーターにホールインワンしたようだ》
通信によると『オッピー』ことオポチュニティは、エアバッグのバウンドの末にイーグル・クレーターという場所に、丁度落っこちたらしい。科学者たちはそれを面白がっているようだ。
オポチュニティは歯を見せて笑った。
「ナイスショット、だね! 幸先いいね!」
彼女は興奮するように足元の石を拾い上げ、目を輝かせる。
「お姉ちゃんこれ、隕石だ! 隕石だよ!」
返事はない。声が届くこともない距離。
同じ火星と言っても、スピリットとオポチュニティとの距離は10,000キロメートル離れているのだ。
それでも、スピリットには妹の声が不思議と届く気がした。
スピリットは空を仰いで呟く。
「……やっぱりオッピーは、明るいわね」
孤独な星に、2人は別々の道を歩んでいた。
けれど、その心はいつも繋がっている。姉妹は互いを想いながら調査を進めていた。
【第三章 沈む足跡】
火星を歩くのは容易いことではなかった。コンクリートの道を歩くのとは訳が違う。
ガレ場が延々と続き、時折あるクレーターや岩石をやり過ごして進まなければならなかった。
そんなある日。
スピリットは火星の荒地、岩石を踏んだ際に足をくじいてしまった。
「いたっ!」
痛みに思わず伏せる。
思いのほか重傷で、真っ直ぐに歩くことも難しいくらいだった。そこで彼女は管制と相談した。
「足を挫いた。どうすればいい?」
《前進すると痛むのか?》
「ええ。そうよ」
《なら、後ろ向きで歩いてみてはどうか?》
いかにも科学者らしい答えだった。スピリットは思わず苦笑する。
「くそ……後ろ向きでも、進めばいいんでしょ!」
色々と試した結果、後ろ向きで歩くと体の負担が少ないとわかり、後ろ歩きで前進することになった。そんな姿を、スピリットはみっともないと自嘲した。
「オッピーが見たら、爆笑するでしょうね」
――やがて、火星は冬に入る。
日射量が減り、スピリットとオポチュニティの太陽光パネルに塵が積もったせいで発電量は著しく低下していた。気温はおおよそ-120℃。バッテリーをヒーターで暖めて、どうにか現状維持できるくらいだった。
「寒いわね……」
「本当に寒いよ……」
2人は別々の場所で、節電モードに切り替えて、小さく活動していた。
寒空の下、彼女たちの声は厚く淀んだ大気に溶けていく。
それでも2人は耐え忍んだ。ひとりではないと、わかっていたから。
――その日も、スピリットは岩だらけのクレーターを歩き続けていた。
冷たい鉄の風が吹き抜け、赤茶けた砂を巻き上げる。
彼女は慣れたように、太陽光パネルの砂を払った。そして重い安全靴で足を進めた。
ここは『トロイ』と呼ばれる砂地。スピリットは一歩一歩、歩みを進めていく。
「……あれ?」
右足が、ふいに深く沈みこんだ。
砂は柔らかく、深く、底が見えない。
抜こうと力を込めれば込めるほど、脚がじわりと飲み込まれていく。
「だめ……動かない!」
心臓が早鐘を打つ。
何度も足を引き抜こうとするが、動くたびに砂がより深く彼女を捕らえる。蟻地獄のように。額に汗が滲む。喉が渇く。
自力での脱出は困難。理解した、理解したくはないが。
「まずい、このままじゃ……」
その瞬間、ふと耳に妹の声がよみがえった。
――「こんにちは、お姉ちゃん! 私たち、火星に行けるんだね!」
――「火星には宇宙人がいるのかな!?」
――「“水”ってあると思う?」
――「ねえ、90日間頑張ろうね!」
NASAのジェット開発推進部で出会ったときから、オッピーはそんな明るい子だった。
今。遠く離れているのに、まるで傍らで励ましてくれているようだった。
スピリットは残された力を振り絞り、必死に藻掻いた。
「こ、のっ!」
しかし、膝まで沈みこんだところで、ついに体は動かなくなる。
左脚で踏ん張ろうとしたが、今度は左脚も埋もれて、挫いてしまった。
彼女はそこで、足掻くのをやめた。
「……ここまで、か」
静かな声が、氷点下の火星の大気に溶けた。
彼女は虹色の目を閉じ、妹の顔を思い浮かべる。
「オッピー……ごめんね。私の分まで、歩いて」
そのつぶやきは誰にも届かず、ただ赤い大地に吸い込まれていった。
だがスピリットは強かった。
彼女は間際にあっても、自分がいた『トロイ』その場所を暴くように、ひたすらシャッターを切り続けた。そして残された電池を使って科学者にその記録を託した。
やがて。クレーターの片隅で、スピリットの体は砂に沈み、静謐の中へと消えていった。
予定寿命90火星日。
総活動日数:2,269火星日≒6年2ヶ月。
――55,900時間、スピリットは懸命に火星の探査プロジェクトをこなしたのだった。
遠く離れた平原で、オポチュニティは胸騒ぎを覚え、薄いピンク色の空を見上げる。
「……お姉ちゃん?」
返事はない。
けれど、彼女ははっきりと感じていた。
大切な誰かが、自分の背中に旅を託したことを。
火星の荒野で、たった一人の旅が続いていく。
【第四章 孤独な旅路】
それからの日々は、数えきれないほどの夜明けと黄昏の連なりだった。
オポチュニティはただ歩き、調べ、そして記録を地球へ送り続けた。
地球から届く声は遠く微かだったが、それが彼女の唯一の寄る辺だった。
《オッピー、今日も頑張ったね》
《君は本当に信じられないほど長生きをしているよ》
《聞いてくれ。君が集めたデータから、かつて火星に”水”があったことが確実になったんだ!》
「今日も沢山歩いたよ」
「えっと、打ち上げから何日だっけ? 65……68日? 70日? 100日?(考えるのをやめた)」
「やっぱり、水があったんだね! これでもしかしたら地球外生命体――『宇宙人』の存在が明らかになるかも!?」
返事をすることはできない。全て独り言。
けれど、その声を聞くたびに心が暖かくなった。
まるで地球を感じられた。同時に、スピリットの”魂”を感じられた。
――90日のはずの命は、1年へ。
――さらに5年へ。
――そして10年を超えても、彼女は歩みを止めなかった。
太陽光発電できない夜を、数え切れないほど超えた。
冬の寒さに震えながらも、彼女は何度も耐えた。
夏の砂嵐に視界を奪われても、また立ち上がった。
「お姉ちゃん、見てる? 私、まだ歩いているよ」
遠いクレーターに眠る姉へ、心の中で語りかける。答えはない。
いつの間にか経っていた15年という時間は、奇跡そのものだった。
地球の人々はオポチュニティのその姿を『英雄』と呼んだ。
だが、オポチュニティにとって、それはただの『約束』に過ぎなかった。
「――お姉ちゃんがいなかったら、私はここまで歩いて来られなかったよ」
ただ。姉『スピリット』の分まで歩く。それだけを胸に、孤独な旅を続けてきたのだ。
やがて15年目の夏。
火星の空に、これまでにない巨大な砂嵐が広がり始めた。
ただでさえ不鮮明な空には暗雲が立ち込め、太陽の光は急速に失われていく。
彼女たちの長い旅程は、静かに終わりに近づいていた。
【第五章 暗い空の下で】
砂嵐は、火星全土を覆いつくしていた。
赤い空は黒く沈み、昼も夜も区別がなくなった。太陽は姿を消し、光は完全に奪われる。吊られて気温も下降した。
ひたすらに火星の大地を歩き続けてきたオポチュニティは、足を止めた。靴底は既に擦り切れていた。
オポチュニティはそこで動きを止め、息をつくように呟いた。
「……空が……暗くなってきた」
息を吐くたびに白いモヤが広がる。
胸の奥の灯が弱まっていく。
冷たい強風が体を撫で、力と熱を少しずつ奪っていく。
「バッテリー……少ない……」
砂嵐のせいで、太陽光パネルは発電力を失い、火星の冷たい大気の中に機器は凍りつく。電力不足で、バッテリーを温めるためのヒーターさえも弱まっていた。
地球からの声も、遠ざかっているように聞こえた。
《……オッピー、応答して。頑張って》
その必死の呼びかけは、まるで家族の声のように温かかった。
彼女はカメラを太陽に向ける。恒星とは思えないほど薄い光の点。大気はもう、砂塵に支配されていた。
地鳴りのような音を立てて、巨大な砂嵐はうねる。無数の塵芥が彼女に降り注いだ。
もちろん、その原動力であるソーラーパネルにも。
《……オッピー、動けるかい?》
オポチュニティは回答できない。火星の猛々しい風が彼女の足を掴んで離さない。
異常事態に、管制塔から1000以上ものコマンドが送られてきた。
だが、もう答える力は残っていない。
コマンドを実行するだけの力は残されていない。
オポチュニティはゆっくりと砂漠に倒れ込んだ。
「お姉ちゃん、私……頑張ったよ」
暗闇の中、オポチュニティは微笑んだ。
「ちゃんと……歩いた。ずっと……」
その声は、風にかき消されていく。
視界は闇に溶け、音も色も、全てが遠ざかる。
「お姉ちゃんも、私も、よく頑張りました……」
オポチュニティは、最後に、そう呟く。
その瞬間、彼女は静かに目を閉じた。安堵の微笑みが浮かぶ。
長い長い旅路の果てに、ようやく訪れた安らぎ。
総日数5,111火星日≒14年4ヶ月。
総活動時間5,111火星日×24時間39分≒のべ126,000時間。
彼女は、90日の寿命を遥かに超えて生き抜いた。
火星の大地に横たわった小さな影は、砂に覆われていく。
彼女が辿った足跡さえも、火星の大嵐の前にかき消されてしまった。
けれども。
彼女が、スピリットとオポチュニティが歩んだ軌跡は、消えはしない。
二人が交わした約束とともに、その栄光――いや。足跡は、永遠に赤い鉄の星に刻まれている。
90日のはずが、2,000日。
90日のはずが、5,000日。
姉妹の旅は、限界を超えた先に咲いた奇跡だった。
――最後に聞こえたのは、地球からの優しい言葉だった。
《おやすみ、オッピー》
『おやすみ、オッピー』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
双子の火星探査機のお話、いかがだったでしょうか?
肉眼でも見える火星。そこには、スピリットやオポチュニティ以外にも任務を終えた沢山の探査機が眠っています。でも、必ずしも"みんな"眠っているわけではありません。
実は、現在進行形で火星調査を行っている探査機が、何基もあるのです。
キュリオシティ、パーサヴィアランス、その他様々な軌道衛星……火星探査は常に『アクティブ』な状態です。やはり地球の隣で、最もテラフォーミングできそう(?)な星だからでしょうか。
また、本作で触れているように"水"があるために、原始の火星は生命がいたのではないかとされています。或いは、現在進行形で……夢は尽きません。
本作は、宇宙探査機を擬人化した短編小説シリーズの三作目にあたります。
もし本作を気に入ってくださった方は、他の二作も読んでいただけると幸いです! ボイジャー1号、はやぶさ、を扱っております。