【短編SS】運命の糸 再び
夏の日、木漏れ日の境内
蒸し暑い夏の午後、木漏れ日がまだら模様を描く小さな神社の境内。蝉の声がけたたましく響き渡る中、幼い悠人は、少し背伸びをして古びたおみくじの箱に手を伸ばした。隣には、白いワンピースを着た、少し年上の優しいお姉さんが、柔らかな日差しを浴びて立っている。彼女の長い髪が、そよぐ風にほんのりと揺れた。
二人で引いたおみくじは、どちらも中吉。ざらりとした手触りの紙には、墨の匂いがかすかに残っている。「隣にいるものが運命の人物でしょう」と書かれた文字を、幼い悠人は懸命に目で追った。意味はまだよく分からなかったけれど、お姉さんが優しい笑顔で彼の顔を覗き込むのを見て、心がほんのり温かくなった。彼女のその笑顔が、木漏れ日のように、彼の幼い記憶に優しく焼き付いた。
夕暮れ、引き裂かれる日常
数日後の夕暮れ。茜色の空が西の空を染め上げ、境内には昼間の喧騒が嘘のように静寂が訪れていた。悠人は、いつもの神社の裏手の空き地で、お姉さんが帰ってくるのを待っていた。草の匂いが鼻をくすぐり、遠くの家々の灯りがぽつぽつと灯り始める。
だが、やがて現れたのは、見慣れない黒塗りの車と、そこから降り立った厳つい顔つきの男たちだった。彼らは無遠慮に辺りを見回すと、一人の男が掴みかかるように、お姉さんの腕を掴んだ。お姉さんは、買い物袋を抱えたまま、驚きと恐怖で顔を歪めた。
「きゃっ……!」
悲鳴にも似た小さな叫び声が、夕暮れの静けさを切り裂く。お姉さんの白いワンピースが汚れ、彼女の華奢な体が男たちの力に抵抗しても無力だった。悠人は、物陰に隠れ、息を潜めてその光景を見つめることしかできない。足は地面に縫い付けられたように動かず、喉はカラカラに渇き、声を出そうとしても震えるばかりだった。
男たちは、お姉さんを無理やり車の後部座席に押し込んだ。彼女の必死の抵抗も虚しく、ドアが重々しく閉められる。車のエンジン音が響き、黒い車体は茜色の空の下、無情にも走り去っていく。
後に残されたのは、夕闇に包まれた神社の境内の静けさと、悠人の胸に残った、凍り付いたような無力感と、 胸を締め付ける絶望だけだった。あの時見た、恐怖に歪んだお姉さんの顔が、彼の目に焼き付いて離れない。幼い彼の世界は、その瞬間、音を立てて崩れ落ちた。
金への固執
あの夜から、悠人の人生は一変した。彼の心には、あの時の無力感と、大切なものを守れなかった後悔が深く刻み込まれた。二度と、あのような理不尽を許すまい。そう誓った彼は、ひたすらに**「力」を追い求める**ようになった。それは、社会の「表」の正義や倫理では決して手に入らない、金という絶対的な力だった。
彼は、学業でずば抜けた才能を見せ、やがて投資の世界へと足を踏み入れた。数字の羅列が、彼にはまるで生き物のように見えた。そこには感情が介入する余地はなく、ただ純粋な力が支配する。彼は、昼夜を問わず情報とコネクションを貪った。
東京の夜景を見下ろす、高層ビルの最上階。遮光カーテンで閉ざされた薄暗い執務室で、悠人はいくつものモニターの光だけを浴びていた。画面には、世界中の株価や為替レートが秒刻みで点滅し、膨大な数字が目まぐるしく変化していく。カップに注がれたカフェインレスコーヒーの湯気が静かに立ち上るが、その香りを嗅ぐ余裕もない。冷めた目で世界中の金が動く様を眺め、彼は淡々と指示を出す。
彼の言葉は常に短く、明確だった。「買い」「売り」「決済」。相手が誰であろうと、目的のためには手段を選ばない。倫理観や道徳は、彼の辞書から消え去った。薄暗い雑居ビルの個室で、刺青を覗かせた裏社会の男たちと平然と向かい合い、冷徹な目で交渉を進める。煙草の煙が充満し、空気は淀んでいるが、彼の表情筋は微動だにしなかった。常に相手の弱点を探し、金を最大限に引き出すことだけを考えていた。その中で、彼は莫大な富と、裏社会の深い場所にまで通じる強大なコネクションを築き上げていった。彼の行動は、金を増やすこと、そして支配力を広げることのみに集中していた。
風俗館にて
ある夜、悠人(当時32歳)は、いつものように虚無感を抱えたまま、雑多な街の明かりの中を歩いていた。東京の歓楽街、歌舞伎町のネオンがけたたましく瞬く通りから一本入った路地裏。そこは、彼の持つコネクションの末端にも連なる、薄汚れた風俗館だった。けばけばしいピンクのネオン看板が薄汚れた壁を照らし、甘ったるい香水の匂いが漂う。彼はその扉をくぐった。
館内は、安物の香水と煙草の臭いが混じり合い、薄暗い照明がだらしないカーペットを照らしていた。廊下の奥から、気の抜けた笑い声や嬌声が微かに聞こえてくる。彼は案内された部屋で、一人の少女と対面した。まだあどけなさの残る顔立ちだが、その瞳は、人生の全てに絶望し、生気がなく虚ろだった。少女の名は、望月燈(当時18歳)。
燈は、何の感情も込めないまま、彼の指示を待っていた。だが、悠人は彼女に触れることができなかった。彼は、この少女が、単なる商品として扱われることに強い嫌悪感を覚えた。
「君の母親は?」悠人は問うた。
燈は、ぼんやりとした様子で、部屋の奥にあるもう一つの扉を指差した。
悠人は、燈から、彼女と母親である望月咲良(当時33歳)が、この場所で長年にわたって働かされてきた過酷な人生を聞いた。彼は目の前の少女とその母親をこの場所から出すことを決意した。
すぐに、悠人は館の支配人を呼び出し、破格の金額を提示した。
「この二人を、今すぐ解放しろ」
支配人は、最初こそ怪訝な顔をしたが、悠人の持つ圧倒的な財力と、彼が背後に持つコネクションの圧力にやがて顔色を変えた。青白い顔で額に汗を浮かべながら、彼は震える声で条件をのんだ。交渉はあっという間にまとまり、膨大な金銭が動いた。悠人は咲良と燈という二人の女性を、その場所から買い上げ、連れ出した。
保護された日常と、凍てつく心の融解
悠人は、咲良と燈を風俗館から連れ出し、東京の高層マンションの一室へと案内した。そこは、彼の住むフロアとは別の、だが同じセキュリティレベルの最上階に近い部屋だった。窓からは東京の夜景が一望できるが、二人の女性の視線は虚ろで、その光景に何の感情も示さない。部屋は広々としており、清潔で、家具も上質なものが揃っていたが、彼女たちにとってはただの無機質な空間に過ぎなかった。
保護直後:沈黙と観察の数週間
最初の数週間は、沈黙が支配した。悠人は、彼女たちに過度な干渉はしなかった。食事は、温かく栄養のあるものを定期的に部屋に運び入れさせた。高級なレストランのテイクアウトや、専属シェフが作った和食や洋食が日替わりで届けられた。咲良と燈は、無言でそれらを口に運ぶだけだった。食欲がないわけではなかったが、味を感じているようにも見えなかった。
悠人自身も、あえて頻繁には部屋を訪れなかった。彼の滞在時間はごく短く、必要最低限の確認と、何か必要なものがあるかの問いかけだけだった。彼が部屋を訪れると、二人は微かに体を硬くしたが、それ以上の反応はなかった。咲良は常に燈の傍らに寄り添い、燈は咲良の背中に隠れるようにして、外界への警戒心を露わにしていた。言葉は交わされず、表情も乏しく、ただ時間が過ぎていくだけだった。まるで、深い海の底に沈んだ二つの魂が、外界との接触を拒んでいるかのようだった。
悠人は、彼女たちの様子を冷静に観察していた。焦りはなかった。彼らが長年置かれていた環境が、どれほど彼らの心を蝕んだか、彼には想像に難くなかった。時間をかけ、安心できる環境を提供し続けることが、彼らにとって最も必要なことだと理解していた。
微かな変化の兆し:3ヶ月後
約三ヶ月が経過した頃、微かな変化が訪れた。
ある日の夕食時。悠人が部屋を訪れると、燈が、テーブルに置かれたフルーツバスケットの中のリンゴに、じっと視線を向けていた。彼女の指先が、その赤く艶やかな表面に、おずおずと触れた。まるで初めて見るかのように、彼女はリンゴをじっと見つめ、ゆっくりと手に取った。
「……食べますか?」悠人が静かに問うと、燈は小さく頷いた。
その夜から、燈は食事の際、それまでよりも少しだけ目を輝かせるようになった。特に、彩りの豊かなサラダや、見た目にも美しいデザートには、わずかだが興味を示すようになった。咲良もまた、そんな燈の変化に呼応するように、僅かに表情が柔らかくなった。燈が食べ残したものを、咲良がそっと片付ける姿が見られるようになったのだ。それは、彼女の中に残る「母親」としての本能が、ゆっくりと息を吹き返し始めている証だった。
悠人は、その変化を見逃さなかった。彼は指示を出し、部屋に雑誌や絵本、シンプルなパズルなどを置かせた。当初、それらは触れられることもなかったが、ある日、悠人が部屋を訪れると、燈が絵本のページをめくっているのを、咲良が傍らで見守っている光景を目にした。二人の間に、わずかながらも「繋がり」が戻りつつあることを、彼は感じ取った。
関係性の深化:半年後〜1年後
半年が過ぎた頃には、状況はさらに改善していた。
燈は、悠人が部屋を訪れると、以前のような警戒心を見せることなく、彼の顔をじっと見つめるようになった。悠人が「何か必要なものはある?」と問いかけると、彼女は首を傾げたり、小さな声で「……ない」と答えるようになった。言葉は少なかったが、その声には、以前にはなかった微かな感情が宿っていた。
咲良もまた、悠人への対応が変化した。以前は無表情だった彼女の顔に、稀に困惑や、あるいは微かな安堵のような表情が浮かぶようになった。彼女は、悠人が部屋を訪れると、燈を自分の後ろに隠すような仕草をすることがなくなった。それは、彼に対する信頼の芽生えを示していた。
悠人は、彼女たちとの接触を少しずつ増やしていった。彼が部屋に滞在する時間も長くなった。読書をする悠人の隣で、燈が絵本をめくり、咲良がそれを眺めていることも増えた。彼は、彼女たちに無理強いすることなく、ただ「存在」することで、安心感を与え続けた。
ある日、悠人が部屋で資料を広げていると、咲良が彼に近づいてきた。
「……あなた、いつも、それ……何をされているのですか?」
彼女の声は、かすれていて、まるで何年も使われていなかった楽器のようだった。しかし、それは、彼女が「自分から」悠人に問いかけた、最初の言葉だった。悠人は、彼女に投資の仕組みを簡単な言葉で説明した。咲良の表情は依然として乏しかったが、彼女の瞳の奥には、微かな興味の光が宿っていた。
内面の変化と「甘え」の芽生え:1年後〜2年後
一年が過ぎた頃には、二人の女性の生活には、確かな活気が戻りつつあった。
咲良は、悠人から与えられたタブレットで、投資関連のニュース記事や経済指標を見るようになった。難しい専門用語には戸惑うものの、彼女は「考える」ことに、かすかな面白さを見出し始めていた。時折、悠人が部屋を訪れると、彼女はたどたどしい言葉で質問をするようになった。
「……これは、なぜ、上がるのですか?」
「……あの会社の、価値とは……何ですか?」
それは、彼女が自身の「身体」以外の価値を見出し、自己を取り戻し始めている証だった。
燈は、悠人に明確な「甘え」を見せるようになった。彼が部屋にいると、傍に寄り添い、時には彼の服の袖をそっと引く。彼が読書をしていると、無言で彼の膝に頭を乗せてきたり、手を握ってきたりするようになった。彼女は、悠人への試し行動としての性的なアプローチを繰り返すことはもはやなく、彼の揺るぎない優しさに触れることで、無条件の信頼と安らぎを得ていた。それは、彼女が悠人を、唯一無条件に受け入れてくれる安全な存在として、無意識のうちに認識した証だった。
悠人自身も、彼女たちとの日々に、これまでの虚無感が薄れていくのを感じていた。彼の執務室の窓からは、相変わらず東京の夜景が広がっているが、その景色は以前よりも、どこか温かく見えるようになっていた。
二年間という歳月は、悠人の献身と、彼らの深い傷をゆっくりと癒やす、かけがえのない時間となった。咲良と燈は、言葉は少なくても、確かな人間らしさを取り戻し、悠人という存在を、心の拠り所として受け入れ始めていた。彼らの心は、凍てついた状態から、ゆっくりと、しかし確実に融解し始めていたのだ。
リハビリテーションと外界への第一歩
保護から約一年半が経った頃、悠人は彼女たちの本格的なリハビリテーションを計画した。まずは、心身の健康を取り戻すことが最優先だった。専属の医師とカウンセラーが定期的に部屋を訪れ、健康状態のチェックと心理的なケアが始まった。
咲良は、特にカウンセリングに抵抗を見せた。過去の経験がフラッシュバックするのか、話すことを拒み、体を硬くすることが多かった。しかし、燈は徐々に慣れ、言葉を選びながらも自身の感情や過去の断片を語るようになった。彼女が外界への関心を示すようになると、悠人は専門家のアドバイスを受け、部屋の外へと誘い出した。
最初の外出は、悠人が運転する車でのドライブだった。東京の街は、彼女たちがいた場所とはあまりにもかけ離れた、広大で情報量の多い世界だった。目を丸くして窓の外を見つめる燈の横で、咲良は依然として硬い表情のままだったが、その視線は確実に外の世界へと向けられていた。デパートの食品売り場や、小さな公園を訪れるなど、人との接触が少ない場所から慣れさせていった。燈は公園のブランコに興奮し、悠人に「もっと!」とねだった。咲良は、そんな燈の姿を、まるで初めて見るかのようにじっと見つめていた。
女ヤクザの「授業」
二年間が経過し、咲良と燈の精神状態は、保護当初とは比べ物にならないほど安定していた。特に燈は、悠人との外出を心待ちにするようになり、幼い子供らしい笑顔を見せることも増えていた。
しかし、悠人には気がかりなことがあった。彼女たちが外界に触れるにつれ、社会の「常識」や「危険」をどう教えるか、という問題だった。特に、彼女たちが体験してきたような裏社会の人間関係や、その中で生き抜くための「勘」は、悠人自身が真っ当な方法で教えられるものではなかった。彼は、自分の持つ「ドブラックなコネ」の人間性を見極める冷徹な目を頼りに、一人の人物に協力を仰ぐことにした。それが、かつて彼を助けた、あの女ヤクザだった。
女ヤクザは、悠人のマンションの一室に招かれると、二人の女性を値踏みするように眺めた。彼女の鋭い視線に、咲良は身をすくませ、燈は悠人の背後に隠れた。
「……で、あたしに何をさせたいんだ?」女ヤクザは、紫煙をくゆらせながら尋ねた。
「彼女たちに、社会の裏側を教えたい。特に、危険な人間がどう動くか、どう見極めるか。そして、自分たちを守る術を」悠人は、率直に答えた。
女ヤクザは、フッと鼻で笑った。
「あんたも変わったことを考えるね。真っ当な教育じゃなくて、あたしみたいなのに裏を教えろってか」
「あなたしかできない」悠人は断言した。
数日後から、女ヤクザによる「授業」が始まった。それは、一般的な学校教育とはかけ離れたものだった。彼女は、裏社会での経験談を淡々と語り、人の心理の裏を読む方法、危険な兆候を見抜く目、そして時には、身を守るための最低限の護身術のようなものまで教え込んだ。
最初のうちは、咲良も燈も戸惑いを隠せなかった。女ヤクザの言葉は、これまでの彼女たちの常識とはかけ離れていたからだ。特に咲良は、過去の記憶を刺激されるのか、時折顔を強張らせた。しかし、悠人が側にいて見守ることで、二人は徐々に女ヤクザの話に耳を傾けるようになった。
女ヤクザの言葉は、時に荒々しかったが、そこには不思議な説得力があった。彼女は、世の中には善人ばかりではないこと、そして、自分たちを守るためには、甘い言葉の裏にある「本質」を見抜く力が必要だと説いた。それは、彼女たちが経験してきた過酷な現実と直結する内容だった。咲良は、女ヤクザの言葉の端々に、自分たちが生きてきた世界の現実と、そこでの生き方を教えようとする、ある種の「優しさ」を感じ取っていた。燈は、物語を聞くように、女ヤクザの話に聞き入っていた。
女ヤクザの「授業」は、咲良と燈に、社会の光と影の両面を認識させ、今後、自分たちが生きていく世界で必要となる「賢さ」を育む、重要な役割を果たすことになった。
女ヤクザの警告から、自己嫌悪の淵へ
女ヤクザの「授業」が始まって数ヶ月が経った頃。悠人は、咲良と燈が社会に適応できるよう、彼自身の「真っ当な」コネクションを築こうと奔走していた。彼女たちの心は少しずつ回復し、外界への関心も高まっていた。しかし、同時に悠人の心には、拭いきれない焦燥感が募っていた。彼の表情には、以前には見られなかった疲労の色が濃く滲んでいた。
彼は、自分がこれまで築き上げてきた力が、社会の「裏」でしか通用しないものであることを痛感していた。学歴も職務経験もない咲良と燈を、彼が持つ「ドブラックなコネ」を使って社会の表舞台に立たせることは不可能だった。どれだけ金を積んでも、人を動かしても、彼女たちが一般的な生活を送るための「資格」や「信頼」は、金では買えないと知った。それは、彼の絶対的な信念を揺るがす、決定的な事実だった。
東京の夜景が見下ろせる高層ビルの最上階、彼の執務室。いつもは冷徹な数字が並ぶモニターの光が、この夜は彼の疲弊しきった顔を青白く照らしていた。床に散乱した書類の山、飲みかけのカフェインレスコーヒーのマグカップ。ソファに深く沈み込み、握りしめたグラスの中の氷が、カラン、カランと虚しく音を立てる。悠人の視線は、虚空を彷徨っていた。焦点が合わず、目に光はなかった。
「同級生のよしみだからいうけど、あまりこっちのコネ使うなよ」
数日前に女ヤクザが発した言葉が、脳裏に響く。あの時、彼女の言葉の真意を完全には掴めなかったが、今なら分かる気がした。彼女は、彼のこの焦燥と、その根源にある「個人的な執着」、そしてそれが彼自身を蝕んでいることを見抜いていたのかもしれない。自分の持つ力は、結局、あの日の無力感を埋めるためだけの、自己満足に過ぎないのではないか。彼女たちを救い出したのは、本当に彼女たちのためだったのか? それとも、自分自身のトラウマを癒やすためだったのか?
この思考が、彼の胸を激しく締め付けた。まるで、見えない鎖で心臓を鷲掴みにされたかのように、呼吸が困難になる。これまで絶対だと信じてきた「金と力こそが全て」という信念が、ガラガラと音を立てて崩れていく。彼は、自分自身の無力さに、これまで感じたことのないほどの深い自己嫌悪を覚えた。自分が彼女たちを救い出しておきながら、結局は真っ当な幸せを与えられない。自分がいることが、彼女たちの足枷になっているのではないか。このままでは、彼女たちも自分と同じ闇に引きずり込んでしまうのではないか。
彼の呼吸が浅くなる。喉の奥がひりつき、全身から血の気が引いていく。額には冷たい汗がとめどなく流れ落ち、指先が痺れて感覚が遠のく。激しいめまいに、視界が歪み、世界が回転し始める。
「……っ、くそ……!」
悠人の意識は、急速に遠のいていった。握りしめていたグラスが、床に落ちて鈍い音を立て、砕け散る。ガラスの破片が散らばる音が、彼の意識の終焉を告げるかのように響いた。彼の体はソファから滑り落ち、そのまま冷たい大理石の床に倒れ伏した。意識が途切れる寸前、彼の脳裏をよぎったのは、あの日の夕暮れ、黒い車に押し込まれていく「お姉さん」の、絶望に歪んだ顔だった。彼は、またしても、大切なものを守ることができない自分を呪った。そして、深い闇の中へと意識を失った。
覚醒の刻、そして愛の成就
悠人が倒れ伏してどれほどの時間が経っただろうか。部屋を訪れた咲良は、床に広がるガラスの破片と、意識を失って横たわる悠人の姿に、息を呑んだ。
「悠人さんっ!」
彼女の口から、今まで上げたことのないほどの、切迫した声が漏れた。駆け寄る足は震え、膝から崩れ落ちるように彼の傍らに座り込む。冷たくなった彼の頬に触れると、全身に悪寒が走った。これまで感じたことのない、突き刺すような胸の痛みが彼女を襲う。それは、かつて風俗で客に屈服させられた時の、屈辱や絶望とは全く違うものだった。この人は、自分を救ってくれた人。光を与えてくれた人。その人が、今、目の前で失われようとしている。この耐え難い喪失感は一体何なのか。彼女の心臓が、激しく警鐘を鳴らすように脈打った。
その時、女ヤクザが部屋に入ってきた。彼女は冷静に悠人の脈を取り、救急隊員に指示を出す。
「助かるよ。あたしが手配した医者がもうすぐ来る。あんたは、そいつが運び出されるまで、ちゃんと見てな」
女ヤクザの言葉で、咲良は我に返った。彼女は震える手で悠人の額に触れ、冷たい汗を拭う。彼の顔は青白く、眉間には深い皺が刻まれていた。そんな彼を、自分はただ見ていることしかできない。この無力感は、あの頃の自分と同じではないか。だが、その時の絶望とは異なり、彼の命を繋ぎ止めたいという強い衝動が、彼女の胸を焦がした。
数分後、運び込まれた担架に乗せられた悠人は、すぐに別の部屋へと運ばれていった。女ヤクザもそれに付き添い、部屋には咲良と燈だけが残された。部屋に残されたのは、割れたグラスの破片と、彼の苦悩の痕跡だけだった。
「恋」の自覚と、絶望への挑戦
数日後。悠人は一命を取り留め、同じマンション内の医療設備が整った部屋で、意識を取り戻した。彼は深い疲労と、自己嫌悪から来る絶望の中にいた。
彼の病室に女ヤクザが訪れた際、悠人は顔を歪めながら言った。「俺じゃ、駄目だ。あいつらを真っ当に幸せにできない。俺が、俺の汚れた力が、あいつらの足枷になっている……」
「同級生のよしみだからいうけど、あまりこっちのコネ使うなよ」女ヤクザは、紫煙をくゆらせながら、以前と同じ言葉を繰り返した。だが、その言葉には、どこか彼を案じる響きがあった。
その言葉を、偶然、病室の外で耳にした咲良は、彼の深い苦悩を理解した。そして、同時に、彼女の胸を突き刺すような痛みの正体を明確に自覚した。彼を失うことへの恐怖。彼が自分を否定することへの悲しみ。それは、間違いなく**「恋」**だった。20年間、感情を殺して生きてきた彼女にとって、それは初めての、そして激しい感情の覚醒だった。
咲良は決意した。彼を救うのは、自分しかいない。
夜。悠人の病室には、わずかな明かりだけが灯っていた。彼の顔は青白く、深い疲労の色を浮かべていた。咲良は、音もなく彼の傍らに歩み寄り、ベッドの縁に腰掛けた。
「悠人さん……」
咲良の声に、悠人はゆっくりと目を開けた。彼の虚ろな瞳が、咲良の姿を捉える。
「……咲良、なぜここに……」彼の声は、乾いていた。
咲良は、震える手で彼の頬に触れた。その手は、冷たい彼の肌に、じんわりとした温かさを伝えた。
「大丈夫……私、もう……」
彼女の言葉はそこで途切れた。「汚れてなんかいないから」。そう言おうとした唇は、微かに震え、音を紡ぐことができなかった。20年間の地獄のような日々が、鮮明な映像となって脳裏を過る。自分は、決してきれいな存在ではない。この身体は、あらゆる人間の欲望に晒され、踏みにじられてきた。そんな自分が、彼のような、自分を救ってくれた「尊い」存在に触れていいのだろうか。彼の絶望の根源が「汚れ」であるならば、自分もまた、その「汚れ」の一部になってしまうのではないか。
その自己否定が、彼女の心を深く抉った。しかし、それと同時に、彼を救いたいという、抑えきれない純粋な衝動が、彼女の身体を突き動かした。彼女は、その深く傷ついた身体で、ゆっくりと悠人の身体に覆いかぶさるようにして、その唇を彼の唇に重ねた。それは、かつて彼女が「商品」として差し出してきた行為とは全く違う、純粋な愛と、彼を救いたいという切なる願いが込められた口づけだった。
悠人は、その行為に激しく抵抗した。疲弊した体で、なんとか彼女を押し戻そうとする。
「やめろ……! 俺は……俺は、お前を汚すわけにはいかない……!」
彼の声は、自己嫌悪と苦悩に満ちていた。しかし、咲良は怯まなかった。彼の抵抗を、まるで幼い子供をあやすかのように受け止める。
燈の言葉と愛の受容
その時、病室のドアがわずかに開き、そこに一人の女性が立っていた。望月燈だった。彼女は、母と悠人のただならぬ状況を、幼い情緒ながらも敏感に察していた。女ヤクザから、社会の裏側や、人と人との複雑な感情について教えられていた燈は、二人の間に流れる張り詰めた空気を、純粋な目で捉えていた。
悠人が咲良を押し戻そうともがく姿を見て、燈は、少し首を傾げた後、無垢な声で言った。
「いやよ嫌よ、好きのうちだよ、お母さん」
その言葉は、凍り付いていた悠人の心を打ち砕いた。彼の抵抗が、ピタリと止まる。そして、咲良の目からも、大粒の涙が溢れ落ちた。燈の言葉は、彼女自身の愛を肯定し、悠人の自己否定の壁を打ち破る、決定的な一撃だった。
咲良は、その確かな覚悟と、燈の言葉に背中を押されるように、再び悠人に顔を近づけた。彼女の瞳は、愛情と決意に満ちていた。悠人の抵抗は、もはや微かなものだった。彼は、咲良の愛を受け止め、その身体を彼女に委ねた。咲良は、その唇で彼の唇を塞ぎ、彼の心を「喰らい尽くす」ように深く口づけた。彼の魂にこびりついていた、あの日の無力感と自己嫌悪が、彼女の愛によって溶かされていく。彼は、愛されること、そして咲良と燈という家族と共に生きることを、全身で受け入れた。
目覚め、そしてバツの悪い朝
数時間後、悠人が目を覚ますと、そこは自分の執務室があるフロアの隣室にある、簡素な予備の部屋だった。頭に鈍い痛みが残っていたが、体は以前より軽い。昨夜の出来事が、ゆっくりと彼の脳裏に蘇る。咲良が自分を介抱し、そして……燈の言葉。そして、咲良が自分にキスを……
悠人は、激しい熱に浮かされていた時の夢かと思ったが、鮮明すぎる記憶に現実だと悟った。彼はゆっくりと体を起こした。恥ずかしさと、どうしようもない気まずさが彼の全身を包んだ。自分が、あの咲良に、あんな風に……
ノックの音がした。咲良が、トレイに熱いタオルと着替えを持って入ってきた。彼女の顔には、昨日までの憔悴はなかった。しかし、その瞳には、彼を真っ直ぐに見つめる、強い光があった。
悠人は、居心地が悪そうに視線を逸らした。
「あ、ありがとう……その、迷惑をかけた……」
咲良は、そんな悠人の様子をじっと見つめ、静かに微笑んだ。その微笑みは、彼がこれまでの人生で見たどんな笑顔よりも、温かく、そして彼を包み込むようだった。
「いいえ。悠人さんのおかげで、目が覚めました」
咲良の言葉は、彼が意識を失った間の彼女の心の変化を物語っていた。悠人は、顔を赤くし、どう反応していいか分からず、ただ視線を床に落とすことしかできなかった。彼女のまっすぐな視線から逃れるように、彼は着替えを受け取り、早々に部屋を出て行った。その足取りは、いつもの冷徹な投資家のものではなく、まるで恋を知った少年のような、どこかぎこちないものだった。
おみくじが繋ぐ真実
穏やかな日常が訪れたある日。
咲良は、何気なく戸棚の奥から古びた小箱を取り出した。その中には、大切にしまっていた色褪せた一枚の紙切れがあった。それは、幼い頃の記憶の断片のように、ざらりとした手触りのおみくじだった。同じ頃、悠人もまた、執務室の引き出しの奥で、無意識のうちにしまっていた一枚の紙を見つけていた。記憶にはないはずなのに、どこか見覚えのある、墨の匂いがかすかに残るおみくじだった。
二人は、それぞれ手にした紙を、まるで吸い寄せられるかのように見つめ合った。それは、確かに同じものだと分かる二枚のおみくじだった。そして、そこに記されていたのは、二人の人生を、まるで予言するかのように導いてきた言葉。
「隣にいるものが運命の人物でしょう」
その言葉を目にした瞬間、悠人の脳裏に、断片的な映像が鮮やかにフラッシュバックした。真夏の眩しい日差し、蝉の声、小さな神社の境内。そして、彼が差し出した一輪の野花を受け取り、屈んで優しく微笑む、幼い日の彼女の顔。その記憶の破片が繋がった時、彼の心に鮮やかに蘇ったのは、その数日後、好きだった年上の女の子が、男たちに乱暴に車に押し込まれていく、あの日の痛みだった。そして、その女の子が、今隣にいる愛しい咲良であるという、信じられない真実が、彼の心を激しく揺さぶった。彼は、長い間心の奥底に封じ込めていた無力感と後悔が、一瞬にして昇華されていくのを感じた。
一方の咲良もまた、悠人と同じように、20年間もの苦痛の海に沈んでいた記憶の底から、あの日の光景を呼び覚ました。幼い自分に花をくれた、純粋な眼差しの少年。そして、その後に訪れた絶望の淵。それでも心の奥底で繋ぎ止めていた、「大人になった時に私を助けてくれたら、結婚してあげる」という、無意識の「約束が果たされること」への微かな期待。それが、目の前の悠人との、忘れ去られていた約束だったと知った時、彼女の目からは、これまでの苦難と、そして今手にした幸福への涙がとめどなく溢れ落ちた。彼の、あの時の、小さな手が、再び自分を救い出してくれたのだと。
二人は、言葉にならない感情を抱きしめながら、互いの顔を見つめた。失われた記憶が繋がったことで、彼らの絆は、過去、現在、未来を繋ぐ揺るぎない運命の糸によって、より一層深く結びついたのだ。
悠人は、震える声で、その名を呼んだ。
「……咲良」
咲良もまた、涙と笑顔が混じり合った表情で、彼の目を見つめ、ゆっくりとその唇を開いた。
「……悠人くん、ただいま」
おみくじに記された運命の言葉、そして忘れ去られていた幼い日の約束。それら全てが、絶望の淵から彼らを救い出し、愛と絆に満ちた真の家族へと導く、奇跡の道標だった。二人は今、確かに「隣にいる」運命の相手と共に、未来へと歩み始めたのだ。
新たな始まり
それから二年後。悠人と咲良の築き上げた穏やかな日常は、確かな絆で結ばれていた。東京の高層マンションの一室で、三人の生活は続いていた。咲良は、悠人から教わった投資の知識を活かし、穏やかながらも知的な刺激に満ちた日々を送っていた。そして、燈は、もはやあの虚ろな少女の面影はどこにもない。二十二歳になった彼女は、まるで花が開くように、生き生きとした輝きを放っていた。
ある夕食時。食卓には、咲良が悠人のために習い始めた和食が並んでいた。燈が、いつもより少しはにかんだ様子で、箸を置いた。
「あのね、悠人さん、お母さん」
二人の視線が、燈に集まる。彼女は、少し頬を赤らめながら、はっきりと告げた。
「私、最近、気になる人ができたの」
悠人の手から、持っていた湯呑が微かに傾ぎそうになった。彼は一瞬、言葉を失い、食卓の上の小鉢に視線を落とす。心臓の奥に、針が刺さったような、チクリとした痛みが走った。それは、娘を送り出す父親のような、複雑な感情だった。彼女が自分ではない他の男性に惹かれることに、ほんの少しの寂しさと、それでも止められない確かな喜びが混じり合っていた。
隣に座っていた咲良は、そんな悠人の変化を敏感に察した。彼女は、静かに、そして優しく悠人の手の上に自分の手を重ねた。そして、彼の複雑な表情を見上げ、ふわりと微笑んだ。
「そう、燈。よかったわね」
咲良の声は、柔らかな響きで、悠人の心にじんわりと染み渡った。彼の視線が咲良に移ると、彼女は微笑んだまま、彼の目をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、燈の成長への喜びと、そして、隣にいる悠人への変わらぬ、深い愛情が満ちていた。
悠人は、咲良の温かい手に包まれながら、かすかに口元を緩めた。複雑な感情はまだ胸に残るが、彼の隣には、全ての過去を共有し、共に未来を歩む「運命の人物」がいる。そして、その愛の証である燈が、新しい一歩を踏み出そうとしている。
三人のささやかな食卓には、東京の夜景が穏やかに輝いていた。それは、過去の絶望を乗り越え、確かな愛と絆を育んだ、彼らの未来を祝福する光だった。
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