魂で結ばれているはずの私達だった
おおよそ四百年前。彼も私も戦士だった。彼の名はダイロン。私の名はリベカ。私たちはお互いの背中を預けるほど信頼していたし、なにより深い絆と愛で結ばれていた。
だが、時は国同士の覇権争いで、混沌としている時代だった。私たちはいつ死ぬか分からなかったから、この戦乱の世で幸せになることをあきらめていた。
もし、平和な時代に生まれ変わったら、お互いを見つけ、愛し合い、幸せな人生を送ろうと夢を語り合った。
そんなとき彼がどこからか、山の奥に住むある魔女の話を聞いてきた。
彼女は、愛し合う者同士が生まれ変わった時に、お互いにその魂が見え、めぐり逢い、再び愛し合える、そんな術をかけることが出来るというのだ。
私たちは戦火をどうにかくぐり抜け、その山奥に行った。そして幸いにも魔女に会うことができた。
魔女は快く私たちを迎えてくれた。そして彼女は私たちが生まれ変わった時に魂の絆が見える術を私と彼にかけてくれた。
術をかけた後、彼女は浮かれている私たちが落ち着くのを待ってから、次のように語った。
「よく聞きなさい。生まれ変わって十二歳になったら自然と相手の魂に気が付くはずだ。ただし魂が同じだからと言って、また愛し合うとは限らない。どうしても絆を切りたいと思った時には、『カイマ』という薬屋を探し出してそこに行くが良い。前世の記憶も無に帰すだろう」
彼は「魂さえわかれば愛し合うに決まっている。俺たちが絆を切るなんてありえないよ」と私を見つめながら微笑んだ。
勢いのある大国に攻められ我が国の城が焼け落ち、私たちが命を散らしたのはそれから間もなくだった。
私がリベカの魂を持って生まれ変わったのに気が付いたのは、あの魔女の言う通り、十二歳になった時だった。
いま私はルクサンド王国にあるアーメッド伯爵家の長女ルシアナとして生を受けている。
前世の私は薄藤色の髪を高い位置で括り、深い青色の瞳を持つ小柄な可愛らしい女性だった。その外見に似合わず身体能力は図抜けていたので、私が敵の前を走って引きつけ、ダイロンがその剛腕で私についてきた兵士たちをなぎ倒していた。
現在の私は、まったく以前の面影はない。琥珀色の髪に緑の瞳、十二歳にしてはわりと背丈もあり、目鼻立ちのはっきりしたともすれば高慢な印象を受けるような顔立ちだ。
前世を思い出したところで、ダイロンの生まれ変わりがどこにいるのかさえさっぱり分からない。どうして見つけたらいいのか、子供の私にはなすすべがなかった。
悶々とした日々を過ごして二年ほど経ったときに、ドットソン公爵家の子息で十六歳になるレックスとの縁談が持ち上がった。
それを聞いたときに私は、今世でもダイロンと幸せな家庭を築けないのかとひどく落胆した。しかし貴族家の娘にはそのような縁談から逃れることはできない。しかも相手は公爵家だ。
悲痛な思いで、レックスとの最初の顔合わせをした。
玄関の広間で公爵夫妻とレックスを迎えた時、少し長めのダークグレーの髪を耳にかけているレックスのみぞおち辺りがぼんやりと光っているのが見えた。何だろうと目を凝らしてみて気がついた。
これはダイロンの魂だわ!
まさか、こんな形で会えるなんて思わなかった。貴族令嬢の教育を受けている私は顔にこそ出さなかったが、心の中で狂喜乱舞した。これで前世で約束した通り二人で幸せを掴むことができる。
だが、彼は私を一瞥しただけで、すぐに目を逸らした。周りにお互いの両親がいるせいかとも思ったが、照れているということでもなさそうだ。なぜなら彼はとても堂々としていたからだ。
リベカの魂が私の中にあるということが見えないのか。魔女の術は彼にはかからなかったのか。
先程の喜びが戸惑いに変わる。もしそうならどうしたらいいのだろう。
私たちは応接間に入り、お互いに挨拶を交わし、天候の話やそれぞれの子供の自慢とも紹介ともつかない話をして、婚約の書類に双方の父親が署名をした。
その間、私は彼の一挙一動を秘かに観察した。残念ながら、私に興味を抱いている様子は皆無だった。
「こんなに美しいお嬢さんと、婚約できるのはとても嬉しいことです」
そういうレックスに私の両親はとても喜んでいたが、彼の薄い青色の瞳には喜びの気持ちは浮かんでいなかった。
庭の四阿にお茶が用意してあるから、二人で少し話しなさいと言われて、庭に向かった。歩いている間も彼は何も話さなかった。
四阿の椅子に座った私に、彼はぽつりと言った。
「お互いの家に利益があるからといって、こんな縁談を押し付けられるなんて君も大変だね。でも、僕は誠実に婚約者としての務めを果たすよ」
そこに、君が好きだとか、魂で惹かれ合っているなどという感情は一切感じられなかった。むしろこの縁談を喜んでいないような気がした。
「一つお聞きしたいのですが、私を見て、どこかで会ったことがあるというように思ったことはありませんか?」
「いや、君と会うのは初めてだ」
その時、四阿に一陣の風が吹き抜けて、彼の前髪が舞い上がり、右眉の上辺りに小指の半分ほどの長さの小さな傷が露になった。
「おっと、傷を見たかい?」
「ええ、どうかなさったのですか?」
「あれは、十歳の頃だったかな。自分の身丈に合わない馬に乗りたいと無理を言って乗ったんだが、馬が何かに驚いてね。僕は落ちてしまった。そのとき下に運悪く大きな石があってね。そこに頭をぶつけたんだ......。あはは、馬鹿だよね。傷のある男は嫌かい?」
「いいえ」
私は首を振った。『だって、ダイロンなんてあちらこちら傷だらけだったわ』と、もう少しで言いそうになった。
それからはこれといった話をすることもなくサロンに戻り、彼は公爵夫妻とともに帰っていった。
私は、その後すぐに自分の部屋に戻り、机に肘をついて考えた。
レックスは前世のことは全く覚えていないようだ。彼は私の中にあるうっすらと光る魂も見えていないに違いない。その原因はもしかすると十歳の時に頭を打ったせいなのか。
彼は、誠実に婚約者としての役目を果たすと言った。政略結婚だとしても、たいていは時が経てば愛が芽生えるかもしれないくらいは言うのではないかしら。私を受け入れるつもりはない? その根拠はどこにあるの? 喜びが大きかっただけに、失望もまた大きく、何も知らない方が良かったとさえ思った。
私は、貴族対象の女学校に通っている。十五で卒業したら、多くの女子生徒はそのまま家に入り、すぐに結婚したり、花嫁修業をするが、私は前世でしたくても出来なかった勉強が出来ることが楽しく、女学校の後は二年間の専科に通うつもりだ。
専科では外国語や諸外国の情勢やその歴史、経理や法律について学ぶことができる。願ってもないことだった。
学校が休みの日はレックスと出来るだけ一緒にいようと決心した。私たちは魂で結ばれているのだから、私がいつも傍にいれば思い出す可能性が高いだろうと思った。
ドットソン公爵邸にはよく遊びに行き、レックスよりも公爵夫人と仲が良くなった。
夫人はいつも私に社交や公爵家のあれこれを親切に教えてくれる。
レックスは花束を用意したり、お茶会のエスコートをしたりと婚約者の義務を果たそうとはしてくれるのだが、話もあまり弾まず、足元ばかりを見ていることが多かった。
時には「剣技の授業は楽しい?」と聞いても
「まあまあかな。僕はあまり体力のある方ではないからね」とそう言う。
ダイロンは屈強な体型をしていたし、力もあったが、レックスはどちらかというと細身ですらりとした体型だ。
私は、彼は本当に何も覚えていないのだと心の中でひどくがっかりした。それでも私にはあきらめるという選択肢はなかった。いつかお互いの瞳の中に溢れる愛があったあの日々を思い出してくれるに違いないとそう思っていた。
十六歳を過ぎて、始めて出席した夜会は美しい女性たちが大勢いて、私の魂を認識していない彼が目移りをするのではないかと心配になり、ずっと彼の傍を離れずにいた。
だが、夜会も中盤に差し掛かったころ、男友達と話があるからと「少しここで待ってて」と彼に言われた。
私は男三人でバルコニーの方へ行った彼のあとをそっと追って隣のバルコニーに入り、彼らから見えないように身を潜めた。
「レックス、ルシアナ嬢は綺麗で控えめ、成績も優秀。羨ましいな」そう一人の友人が言えば、「ホントだよな。俺の婚約者は結構わがままでさ。まあ、可愛いところもあるけど」ともう一人が応じている。
「お前たちの方が羨ましい。ルシアナは少し愛が重いというか、彼女といると気が休まらないんだ」
「それだけ愛されていると思えばいいんじゃないか?」
「うーん、実は、三年くらい前からかな、時折、ある女性の姿が思い浮かぶんだ。彼女こそ運命の人だと確信している」
「浮気はまずいぞ。訴えられたら提携事業も駄目になるだろう?」
「そうなんだが......」
それからは、大学校の話になったので、そっとその場を離れて元の場所に戻った。
愛が重いか......。ダイロンにそんなことを言われたことはなかった。いつも私を全力で受け止めてくれた。ダイロンが恋しい。
魂が見えると言うのに、嬉しいことよりも不安の方がどんどん大きくなる。
レックスは運命の人が思い浮かぶと言っていた。なんとなくそれはリベカの姿かもしれないと思った。
そんなことがあった後、陽射しも風も穏やかになって来た夏の終わりに、あるお茶会に二人で出かけた。
会場に入った途端に、レックスが目を見開いてそのまま立ち竦んだ。
どうしたのかと彼の視線をたどってみると、薄藤色の髪をハーフアップにした小柄な女性が目に入った。彼女はリベカの姿によく似ていた。
その時、私は知った。
彼にはリベカの魂は見えないが、心の奥底にあるリベカの姿を彼はずっと追い求めていたのだ。
強烈な嫉妬心が自分の心に芽生えた。以前の自分の姿に嫉妬するなんてと慌てて首を振り、これからどうしたら良いのだろうと途方に暮れた。
私達は、主催者に挨拶をしてから、指定されたテーブルに座った。周りの人たちから話しかけられてもレックスは生返事をして、ずっと彼女の方を見つめていた。
いま私がリベカの魂を持っていると話したところで、彼には私の魂が見えないのだから四百年前のことなど信じるはずもない。気を引きたいだけと思われるのが関の山だ。
私は、席を立ち出席者の人たちに「あの薄い藤色の髪の女性は初めて見るのだけれど」とにこやかに話しかけた。するとある人が「彼女はゴドリー男爵家の令嬢で、実は男爵の愛人の子らしい。先ごろ正式に娘として迎え入れたとか」そう教えてくれた。
席に戻ると、相変わらずレックスは何もしゃべらずに座ったまま動いてもいなかった。
そこに主催者の伯爵家の奥方が、男爵令嬢を伴ってやって来た。
「彼女はゴドリー男爵家の令嬢ニーナ様とおっしゃるの。最近、男爵家にいらしたばかりなのでよろしくお願いしますわ」
ゴドリー男爵家は商家の出身でお金持ちなので、この伯爵家ともいろいろつながりがあるのだろう。
レックスは、彼女を紹介されるなり立ち上がり、彼女の右手の甲に挨拶のキスをした。もちろん触れるキスではないが、男爵令嬢に公爵子息がすることではないので、周りの人たちが驚き、息をのむのが分かった。
それからは、公爵家を訪ねてもレックスは学校の行事があるとか、友人の家に行っているとかということが多くなった。私と会うのを避けているのだと感じた。会えないのだから、ニーナ嬢のことが気にかかっても私には何もできない。
私は、魂の絆を切るつもりはなかったのだが、それでも一応『カイマ』という薬屋を捜すことにした。
我が家に出入りする商人や業者に聞いたところ、王都から馬車で半日の所にあるハレイという港町にその薬屋があるということが分かった。
私も、専科の授業が大変になってきたこともあり、レックスと会わなくなっていつの間にか三か月の日々が過ぎた。『忙しくて申し訳ない』という手紙と共に花束が贈られてくるので、まだ私が婚約者だということを忘れてはいないらしい。
専科の授業には、時折、外交部門の主任であるジュリアス王弟殿下が、一か月に一回ほど講義に来ることになっている。諸外国の情勢や外交に求められるもの等を分かりやすく話してくださるのだ。
ある日、講義が終わった後、殿下に呼び止められた。
ジュリアス殿下は王家特有の金髪に青紫の瞳。国王陛下ほど整った顔立ちではないが、そこが野性的だと女生徒には人気が高い。その彼から「いつも講義を熱心に聞いているね」と言われ、少し舞い上がった。
「殿下の講義はとても楽しいです」
「君はアーメッド伯爵家のルシアナ嬢だよね?」
「はい、名前を覚えていただいて光栄です」
「君は語学も堪能だ。他の科の成績も良いと聞いている。この学校を卒業したら外交部に来る気はないか?」
「はい、行きたいのは山々なのですが、たぶん結婚すると思います」
「婚約者は?」
「ドットソン公爵子息のレックス様です」
「そうか。彼か......」
殿下の顔が一瞬曇った。
実は、私もレックスとニーナ嬢の噂は聞いていたけれど、私は彼に対する淡い期待を捨てようとは思わなかった。
それから一か月ほど経ったときだ。父から「レックスとの婚約を解消することになるかもしれない」と言われた。
レックスがある女性にひどく執心して、公爵夫妻が何を言っても聞き入れないという。これ以上は我が家に迷惑を掛けられない。そういうことらしい。
「事業の方は?」
「利益も出て来ているので、そのまま続行する。ただお前の気持ちを考えると私も辛いよ」
「そうですか......」
淡い期待も打ち砕かれてひどく落胆した。それでも私はまだあの薬屋に行こうとは思わなかった。
私が『カイマ』に行く決心をしたのは、久しぶりに会ったレックスにこう言われたからだ。
「ルシアナ、ニーナが君に虐められたと言ったが何があったんだ?」
「虐める?」
「嫉妬したのか?」
そこで女性ばかりのお茶会に出席した時のことを思い出した。
その日、ニーナ嬢はテーブルに座って談笑している私のところにその薄藤色の髪を揺らし誇らしげに私の下に来た。
「ルシアナ様、ごめんなさい。わたしレックス様を取るつもりなんてなかったの。でも彼がわたしのことを『運命の人』だというの。わたしも彼のことを好きになってしまって。だから、わたし達は結婚します。ルシアナ様は婚約解消されるんです。本当にごめんなさい」
お茶会の出席者の目が、一斉に私とニーナ嬢に注がれる。
私は椅子から立ち上がり、そんな話は初めて聞いたというように首を捻った。
「あなたのおっしゃっていることが良く分からないわ。レックスからは何も聞いていないの」
ニーナ嬢は私の言うことを聞き流して、お茶会の参加者である貴族令嬢たちをぐるりと見渡した。
「わたし、いずれ公爵夫人になるのね。ここに居る人たちよりも偉くなるんだわ」
その姿はリベカに似ていると思っていた私の目を覚まさせた。彼女は全くリベカに似ていない。
私の傍らに座っていた、レジーナ侯爵令嬢が立ち上がった。彼女の怒りが伝わって来たので、私は彼女に(任せて欲しい)と目配せをした。
私はなるべく優しい口調を心掛けながら、諭すようにニーナ嬢に話しかけた。
「ニーナ様。将来、公爵夫人になるというのなら、時と場所を考えて発言なさってくださいませ。ドットソン公爵夫人はとても博識な方なので、彼女から良く学ばれることをお勧めしますわ」
「えらそうに。そんなんだから婚約解消されるのよ」
彼女はそう言うと身をひるがえして、去って行った。
ああそうか。あれが虐めだと思われたのだ。
私はレックスに言った。
「虐めなど、そんなことをするはずもありません。彼女があまりにも非常識な発言をして、周りの空気が険悪になりましたの。それでやんわりと彼女に助言をしたのです。分かってもらえませんでしたが......」
「ニーナは自分はただお茶会を楽しんでいただけなのに、君に急に酷いことを言われたと言っていた。彼女はとても傷ついて、君が怖いと言って震えていたよ。ルシアナ、嫉妬など恥ずかしいことだと思わないのか? いい加減にしてくれ」
ニーナ嬢は外面も内面もリベカに似ていない。彼はニーナ嬢に出会ってからは、リベカの姿を追い求めてはいなかった。ニーナ嬢が持つ貴族令嬢にはない奔放さに惹きつけられただけだったのだ。
彼は私の中にある魂に気が付くことはないだろうと確信に近い気持ちを抱いた。
「三年間、婚約者として過ごしてきた私よりも、四か月前に会った彼女を信じるのなら、婚約している意味はありません。あなたも婚約解消を望んでいるのでしょう?」
彼は目を伏せて答えなかった。それが答えだ。
そしてその後すぐに婚約解消の手続きがなされた。
もう悲しいという感情はなかった。むしろ三年間の不安や失望から解放されたという気持ちの方が強かった。
私は父に慰謝料の一部をくれないかと頼んだ。
「ハレイの港町に行って、こことは違う空気に触れて、心機一転したいの」
父はしぶしぶ許可を出してくれた。私は薬代と旅費を持って、直ぐに旅立った。
薬屋『カイマ』はハレイの下町の入り組んだ路地の一角にあったが、評判の良い薬屋らしく、道行く人に聞けばすぐに場所がわかった。
店に入ると、エプロンをつけて黒髪を後ろにひとまとめにした落ち着いた雰囲気の中年の女性が出て来た。
「まあ、あなたのような綺麗な若い貴族のお嬢さんがこんなところまで来るのは何か相当な訳があるのかしら? 私が店長のカヤよ。何でも話してね」
私はカヤという人が四百年前の魔女とどのような繋がりがあるのかなどには興味はなかった。自分たちが生まれ変わったのだ。世の中は理屈では割り切れないものが存在する。
私は彼女に「今すぐに魂の絆を切りたいのです」と申し出た。
彼女は小首を傾げ、しばらく私を見つめてから落ち着いた声で私に問いかけた。
「後悔はしないわね?」
「はい、一時の衝動ではありません。熟考した結果です。過去に囚われるのはもうやめにしたいのです」
彼女は大きく頷くと「ちょっと待っててね。その間に気が変わったら教えて」そう言って店の奥に入って行った。
少しして彼女は濃い緑の液体の入った小さなカップを持ってきて、カウンターの上にそっとそれを置いた。
「これをお飲みなさい。これからのあなたの人生が素晴らしいものでありますように」
「ありがとうございます」
それはとても苦い薬だったが、私は躊躇することもなく一気に飲み干した。
飲んだ後も、ダイロンのことやリベカとして過ごした日々は忘れていない。たしか記憶も無くなるのではなかったかしら。でも不思議なことに、彼の中の魂はもう決して光ることはないと感じられた。
その後は、店の外で待っている付き添いのメイドと共に、街を散策した。港町だけあって、外国の人も多いし、いろいろな言語が飛び交っている。王都よりも騒がしいが活気があるので気持ちが高揚する。
食事も美味しい。さすがに生の魚は食べられなかったが、ムニエルやクリーム煮などを温野菜と共に堪能した。
私は今まで何をやって来たのだろうと思った。生まれ変わりの魂に囚われて、広い世界を見るのを忘れていた。せっかく生まれ変わったのにもっとこの世界で出来ることがあったはずだ。
年の離れた兄が領地に新妻と赴いているし、子供もすぐにできるだろう。有難いことに両親も兄も私が無理して結婚を決めることはないと言ってくれる。
宿にある一番眺めの良い場所から、果てしなく広がる海とそこに浮かぶ様々な船を見て、卒業したらジュリアス殿下の部署で働こうと思った。誘ってくださるのだから、採用してくれるだろう。
今からでも遅くはない。自分の両足でしっかり立とう。
それから半年後、専科を卒業した私は念願が叶い、ジュリアス殿下の部署で働いている。レックスの胸にあった魂はもう見えない。
レックスの結婚は公爵夫妻に難色を示されて、婚約も正式には決まっていないようだ。
もしかすると家督は弟に譲るのではないかとの噂も流れている。
『運命の人』を取るのか、公爵位を取るのかと、最近の社交界でのもっぱらの関心事になっている。
そんなある日、ジュリアス殿下と仕事帰りに遅い昼食をレストランで摂ることになった。レストランの二階にあるガラス張りのテラスには私たち二人だけだ。外を見ると晩秋の風が道の木々を揺らし、街行く人々が足早に通っていく。
一通り昼食のコースを楽しんだ後に、珈琲がテーブルに並べられた。殿下はそれを一口飲み、柔和な表情を浮かべた。
「ルシアナ。私の妻になってくれないか?」
その柔らかい瞳に嘘は感じられないのに、あまりにもさりげなくて思わず聞き返してしまった。
「え? 妻ですか?」
「こんなおじさんは嫌か?」
「殿下とは十歳しか違いませんし、そのように思ったこともありません」
「それは嬉しいな」
そこで私は今まで聞けなかったことを思い切って尋ねてみた。
「あの、殿下はどうして結婚をなさらなかったのですか?」
「国王の兄の所に、子供ができるまで待とうと思った。争いの種はない方が良いと思ってね。幸いにも兄上には、王子が二人、王女も一人生まれている。自分もそろそろ落ち着いても良いかと思った時に君に会った」
このころ私は、殿下に対する尊敬の念がいずれ恋に変わるのではないか思っていたので、結婚の申し出はとても嬉しいものだった。だが、きちんとあのことを話さなければ前に進むことは出来ない。
「殿下。私の長い話を聞いていただけますか。それでも妻に迎えたいと思ってくださるのなら喜んで一生お傍にいたいと思います」
「わかった。聞こう......」
「荒唐無稽な話ではあるのですが......」
前世の話、魔女の話、レックスの中にある魂に気づいたこと、レックスが前世の自分に似た人を運命の人だと言ったときの気持ち、絆を断ち切るためにハレイに行った話。
ゆっくりとすべて包み隠さずに話した。それは十二歳からの私の心をたどる時間でもあった。
その話の後、殿下は私に唐突に尋ねた。
「レックスのことなんだが、彼の好きだったところを挙げられるか?」
脈絡のない話のように思われて、私は何と返事をしたらよいのか分からずに狼狽えた。
「私は君の好きなところは十いや二十、もっとかな。すぐに挙げられるよ。例えば、瞳を輝かせながら私の講義を聞く君、ミスをすると悔しそうに唇を噛む君、同僚たちと朗らかに笑う君、一心不乱に書類と格闘している君、道端にある花を踏まないように歩く君、それと」
「で、殿下、もうその辺で」
私は恥ずかしくなり、殿下の話を遮ってしまった。けれど、彼の質問の意図するところが漠然と分かってきた。
「そうですね......」
考えてみたものの、ダイロンの事はいくつでも挙げられるのにレックスの好きだったところが思い浮かばない。実は殿下の事も好きなところはたくさんある。
私は自分の中にある魂に気づいてほしいとただ願うばかりで、レックス自身を知ろうとはしなかった? 最初から彼の視界に私が入っていなかったこともあるけれど。
急に押し黙ってしまった私に殿下の優しい声が注がれる。
「いいかい。生まれ変わりと言っても、時代も違う。生まれた場所も育った環境も違う。まして外見が違うんだ。以前とまったく同じ人間にはならない。お互いに魂を見つけたところで惹かれ合う確実性はどのくらいあるのだろう。私にはとても難しいことのように思える。仮に今度こそ幸せになろうと結ばれたところで、以前の人物と比べてしまい上手く行かなくなるってこともあるんじゃないのか? もしかすると君たちはその魔女に試されていたのかもしれない」
その言葉がストンと心に落ちた。
「ああ、そうなんだわ......魂を見つけるだけではなく愛し合うためには乗り越えなくてはならないことがある。それが出来なくて、前世の恋人の魂を持っている人をもう愛することがないと思った時には、前世の恋人の魂も見えなくなる。あの薬は私の覚悟を決定づけるためのただの苦いお茶だった......」
なぜか笑いが込み上げてきて「あはは」と声を出してしまった。
笑ったつもりだったのに、目から涙があふれた。あわててテーブルナプキンで顔を覆った私の肩を殿下がそっと抱いてくれた。
ダイロンの魂をあきらめた時も薬を飲んだ時も泣くことはなかったのに、なぜこんなにも涙が出るのだろう。
私は、ダイロンやレックスの腕の中ではなくジュリアス殿下の腕の中で泣いていることが嬉しかった。ここから本当の意味で生まれ変わるのだと。
今宵は、年に一度開かれる王室主催の新年の舞踏会だ。
私は金糸で薔薇が所々に刺繍されている青紫のドレスを纏っている。ジュリアス殿下は王室のダークグレーの正装を身につけ、琥珀色のタイをペリドットのピンで留めている。
お互いに相手の色を纏っているのは、今日の舞踏会で婚約の披露をすることになっているからだ。
国王陛下が私たちの婚約を招待客に告げた後、私たちは二曲続けて踊った。その時に、目を見開いて私を凝視しているレックスに気が付いた。
何事もなければ良いがと思いながら、ダンスの後に知人らと談笑していた。
急に二の腕を取られて慌てて振り返るとレックスだった。そのまま人気のない一角に連れていかれた。
そこで彼は私の両肩を掴み、困惑と驚きの入り混じった表情を浮かべた。婚約者時代にだって、こんなに近づいたことはない。
「君が、君がリベカだったんだ」
私は、首を横に振り、何のことか分からないと言ったのだが、私のみぞおち辺りがぼんやりと光っている。それはリベカの魂に違いないとレックスは必死の形相でそう言う。今頃になって見えるようになるなんて。
それでも私は再度首を横に振った。
「レックス・ドットソン様、本当に私には何をおっしゃっているのか分からないのです」
「もしかして君はあの薬屋に行ったのか? それで前世のことを忘れてしまったんだ。僕の中にある魂が見えなくなったんだ」
「なぜ私がそんなところに行かなくてはならないのですか?」
「僕が『運命の人』を間違えたからだ」
私は大きなため息を吐いた。
「『運命の人』を間違えるはずはありませんよ。ニーナ様は今世ではあなたの大切な方です。それで良いではありませんか」
「やはり、そうなのか......。君は十二歳からそのことを知っていたんだな。ルシアナ、まだ間に合う、やり直そう。前世で約束した通り二人で幸せになろう」
「放してください。あなたはダイロンではなくレックスです。私もリベカではなくルシアナです。レックス、あなたは私の愛が重いと思っていたでしょう? それはあなたに対する愛ではなくダイロンに対してのものだったの。でも私は間違っていた。過去はすでになく、あるのは今の私達だった。そして私はあなた自身を愛することは出来なかった。私はいま新しい愛を見つけたわ。それを守っていきたいと思っているの。だからあなたも」
そこまで話したところで、濃い藤色のドレスに身を包んだニーナ嬢が息を切らしながら駆け寄って来た。
「レックス、どこに行ったかと思えばこんなところにいたのね。ルシアナ様、まだレックスに未練があるんですか?」
ニーナ嬢は私を睨みながら、レックスの手を強引に私の肩から剥がした。
「ニーナ、違う。僕が彼女と話したかったんだ」
「知ってるでしょ? ルシアナ様は意地悪なの! 私は公爵夫人になるから貴族夫人の中で一番偉くなるのよと皆の前で言ったら、公爵夫人になるなら勉強しろって。そして婚約を解消されたこの人は、当てつけのように公爵より上の地位の人と婚約したのよ」
「ああニーナ、なぜ僕は君の言うことを信じてしまったのだろう」とレックスが頭を抱えた。
そのとき遅れて私の傍らに来たジュリアス殿下に耳元で「捜したよ」と言われ、そっと腰を引かれた。
「レックスの『運命の人』とやら、ルシアナを蔑むような発言は控えてくれ。私が彼女の為人に魅かれたんだ。それから、レックス。君の『運命の人』共々、これ以上私の大切な婚約者に関わるようなら私にも考えがある」
ジュリアス殿下は私の困惑する姿を見たのだろう。彼のレックスに向ける視線がとても厳しい。
口を引き結んで両手を握りしめたレックスの腕にニーナ嬢がその腕を絡めた。
「失礼な人たち! 行きましょうよ」
ニーナ嬢に引っ張られて、ふらつきながらこちらを見るレックスに、私は思わず声をかけた。
「レックス。魂の絆を切るといわれる薬は薬ではなく、ただの苦いお茶だったの。なぜなら記憶はまだ残っているから。でも私はあなたの中にある魂がもう見えないし、これからも見えることはないと思う」
「え?」
「さようなら、レックス」
殿下が言うには、ドットソン公爵はレックスを後嗣から外したそうだ。
いずれ家督は弟に譲られる。
「彼はこれからが大変だ」
レックスが幸せであってくれればいいと望んでいるけれど、あの二人の愛の形は変わっていくような気がする。
「彼を救うことができなかった私は、彼にとっては悪女だったの?」
「前世の微かな記憶も魂も関係ない。その時どきに一番大切にしなければならないものを判断できなかったのだ。それは本人の資質の問題で君のせいではない」
「そうね......」
「さあ、もう一曲踊ろう」
私たちは手を取り合い、ダンスの輪の中に向かって歩み出した。
終
いつも応援してくださってありがとうございます。楽しんでいただければ幸いです。
誤字間違いなどのご指摘もありがとうございます
※久しぶりに読み返したところ、次の作品の「貴族の男に……」のアーサックという名前をこちらで使っていました。こちらは姓であちらは名なのですが、気になるので、「アーサック伯爵家」を「アーメッド伯爵家」に変更しました。