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わが名は夏侯珠、字はまだない

作者: 杜野秋人

 張飛は我が目を疑った。


 戦場に、場違いなものを見た気がしたのだ。



 彼は手練れ十騎を連れて偵察に出て、やはり偵察に来たと思われる敵の一部隊と遭遇し交戦状態になったのだが、その敵の中にそれは、いた。


 それ、というよりはその人物、と言った方が正しかろう。鎧兜に身を固め、騎乗してはいたものの、どう見てもまだ孺子(こども)のようにしか見えなかった。

 それも、とても戦場に出られるような体躯(たいく)ではなかった。


 何故、そんなものが戦場にいるのだ。

 それほど曹操の軍は兵士が不足しているのか?


 いや、そんなはずはあるまい。

 では、何故。



 張飛は敵である曹操の陣営にすら「万人の敵」と賞賛され恐れられた、劉備軍中随一の猛将である。たとえ味方が寡兵であっても敵に容易く遅れを取るような真似はせぬ。だがこの時、彼我の兵力差ははさほど無く、張飛にとっては一息に蹴散らしてしまえる程度の相手でしかなかった。

 にもかかわらず、敵は退かなかった。相手が張飛だと分かっても怯む事なく、むしろ必死の形相で挑んでくる。

 やがて、どうやら彼等がその騎乗の孺子を守ろうとしているのだと気付いた張飛は、それを生け捕りにしようと考えた。名のある将の子息だと思ったのである。



 半刻にも満たぬ短い戦いの後、首尾よく捕らえた孺子武者の兜を奪ってみて、張飛はさらに驚いた。


 孺子(おとこのこ)ではなく嫚子(おんなのこ)だったのである。



「殺せ」


 縛られて張飛の前に引き出された娘は、一言だけそう言い放った。

 顔を上げて、真っ直ぐに張飛を睨み付ける。



 まだ若いが美しい娘であった。歳の頃は十三、四であろうか。両目に凛とした強い光をたたえ、生殺与奪を敵に握られたこの期に及んでもいささかも怖れる風もない。


「殺さねぇ」


 張飛は穏やかに断った。


「殺せ。敵に囚われておめおめ生きてなどおれぬ。この首を()ねて手柄といたせ」


「どこの誰だか分からねぇと手柄にもならねぇな。それに小娘一匹斬ったとあっちゃ、この張益徳様の名折れにならぁ」


 張飛だと名乗られて、少女はかすかに顔を強張らせた。だが気丈にも言い返す。


「わが姓名は夏侯(しゅ)という。(あざな)はまだない」


「夏侯……ってぇと、惇の娘か?それとも淵か?」


「元譲族父(おじ)上や妙才族父(おじ)上を呼び捨てにするとは何事か、無礼者!」


 年端も行かぬ小娘に一喝されて、張飛ともあろう者が一瞬たじろいだ。それを自覚した次の瞬間、思わず彼は声を上げて笑っていた。


「何がおかしい!?笑う前に非礼を詫びぬか!」


 頬を紅潮させて猛烈に怒り出す娘を前にひとしきり笑った後、張飛は兵に命じて縄を解いてやった。


「……何のつもりだ?」


 自由になった腕をさすりながらいぶかしむ彼女を立ち上がらせると、張飛は軽い口調で言った。


「お前を連れて帰る」


「な……!?」


「お前の供回りは全員討ち取っちまったからよ、今この場で放しても無事に帰れる保証はねぇだろ。一旦連れて帰って、親元に使者を出して、迎えを寄越すように言ってやるよ」


 意外な提案に、今度は夏侯珠が驚く番だった。


「か、帰してくれるのか!?」


 もう生命はないものと諦めていた心に、にわかに希望の灯がともる。だが夏侯珠はそれを慌てて打ち消すように首を振る。


「い、いや、駄目だ駄目だ!敵将に情けをかけられたとあっては夏侯家の恥だ!やっぱり殺せ!今ここで殺せ!」


「んだよ、生かして帰してやるって言ってんのに分からねぇ奴だな。親に心配かけんじゃねぇよ」

「お前にそんな心配される筋合いなどない!」

「筋合いもへったくれもねぇだろ!帰してやるっつったら帰してやる!文句言うんじゃねぇよ!」


「ええい、うるさい!つべこべ言うな!」

「つべこべ言ってんのはどっちだよ!?」


 ふたりの口論はだんだんと子供同士の口喧嘩の様相を呈してきていた。夏侯珠は十四歳だから歳相応だが、片や張飛は三十代半ばである。周囲の部下達も呆れるやら苦笑するやらであったが、結局張飛は暴れる夏侯珠を無理矢理担ぎ上げて馬に乗せ、抱きかかえるようにして連れ帰ったのであった。




  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「益徳、いるか?」


 朗らかな声がして、やや乱暴に開かれた扉の方に張飛が目をやると、夏侯珠が立っていた。


「庭に綺麗な鳥が飛んで来ているのだ。一緒に見よう」


 夏侯珠は宝物でも見つけたように目を輝かせていて、今にも庭まで張飛を引っ張っていきそうな勢いだ。


「……あのな。俺はそんなに暇じゃねぇんだよ。今日中に決済しなきゃならん書類がこんなに⸺」

「そんなの、いつもみたいに部下にやらせればいいだろう」


 言いながら、夏侯珠はすでに張飛の袖を掴んでいる。



 結局、張飛が手配した夏侯淵からの迎えの者たちを、夏侯珠は追い返してしまったのだ。自分は敵の手に落ちたのだから死んだものと諦めて欲しいと、そう言って。

 そうして今、彼女は張飛の元で養われている。



 張飛の元での生活に慣れてくるにつれ、次第に彼女は生来の好奇心旺盛でお転婆な性格をあらわにし始めた。

 その被害を被ったのは張飛だけではない。彼女は関羽の書斎に忍び込んで蔵書を読み漁った挙句に春秋左氏伝の講義を要求したり、(かん)(よう)にまとわりついて琢郡時代の昔話をねだったり、趙雲や(ちん)(とう)を追い回して撃剣や槍術の指南を強要したり、()(じく)を街に連れ出して買い物の代金を立て替えさせたりした。そのたびに張飛は皆に詫びて回るはめになったのである。


 その後、劉備の勢力は曹操との争いに敗れて華北の地を追われ、安住の地を求めるかのように南下した。張飛と夏侯珠ももちろんそれに従った。

 そして今、荊州新野にて刺史である劉表の世話になりながら、かれらは一時(いっとき)の安らぎを得ている。



「……ああ、あの鳥はこの辺りで時々見かけるやつだな」


「そうなのか!?南には珍しい鳥がいるのだな」


「確かに、北じゃあ見かけねぇ鳥だな」


 言いながら、無意識に張飛は夏侯珠の頭を撫でている。

 撫でられた彼女が張飛の顔を見上げて、弾けるような笑顔になった。





(了)

 張飛と、劉禅の皇后になった張飛の娘たちの母・夏侯氏の物語でした。

 ちなみに、夏侯「(しゅ)」の名は正史にはない創作です。



 正史『三國志』魏書夏侯淵伝に引く『魏略』夏侯霸伝に、建安5(200)年に本籍地でたきぎを取りに出かけた夏侯()族妹(いとこ)を張飛が捕まえて、良家の娘と知って妻にした、とあります。夏侯霸の族妹としか出ておらず、詳しい血縁関係は不明です。


 建安5年と言えば、曹操は袁紹と官渡で対峙するに先立って徐州の劉備を攻め、劉備が敗走して袁紹を頼って青州に逃れた年です。この時劉備は、妻子はおろか関羽までも曹操に捕らえられるほどの大敗を喫しています。

 曹氏や夏侯氏の本籍地である豫州沛国や譙郡と、当時劉備が根拠地とした徐州下邳郡とは州境を挟んで隣接しており、きっと彼女は落ち延びてゆく劉備の軍と遭遇し、張飛に捕らわれたのだと思われます。

 張飛は名士や高貴な家柄の人物に対して弱いところがありました。それはきっと身分の低い家系に生まれたコンプレックスだったのでしょう。敵とはいえ前漢以来の名家である夏侯氏の娘という存在は、張飛にとって自分のステータスを上げる恰好の道具であったのではないでしょうか。


 とはいえ、大酒飲みの暴れん坊で通っている張飛のこと、単なるおしとやかで儚げな深窓の令嬢では釣り合いません。むしろ張飛以上に元気で利かん坊な小娘の方がお似合いだろう……と、そういうところから造形したのが本作の夏侯珠です。

 ついでに、そんな娘がわざわざ自身で薪を取りに出たってのもアレなんで、それはあくまでも名目として、近隣の敵勢力である劉備の陣営に偵察に出てきたことにしました(笑)。


 なお、彼女の生んだ娘がふたりとも劉禅の後宮に入り、寵を得て皇后となっているところから、彼女自身が素晴らしい美人で、娘たちは母似であったのだろうと考えています。



 その後劉備の陣営は、官渡の戦いに際して汝南のあたりで曹操軍の後方攪乱に駆り出され、またもや曹操軍に蹴散らされて荊州に落ちていきます。後半はその後新野に落ち着いた頃のシーンで、張飛と夏侯珠が出会ってから数年が過ぎています。




 この作品について、ご感想やご指摘などございましたら、ご教授下されば幸いです。

 お読み頂きありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 張飛と夏侯珠、斬るか斬られるかという緊迫した出会いでしたね。 その後、張飛ですら手を焼くおてんば妻に成長を遂げたというのがなんとも微笑ましいです。 [一言] 一般的に知られる豪快な張飛のキ…
[良い点] タイトルが秀逸ですね。『吾輩は猫である』の冒頭を連想させるタイトルながら、女子の字は婚約者を定めた時に付けることから、「字はまだない」とすることで、ヒロイン夏候珠の若さやあどけなさ、まだ誰…
[良い点] まぁ三国志なんて懐かしい。張飛とお嫁さんの出会い話ですね。なるほど、このような女性なら、納得できます。張飛さん惚れちゃいますよね。 私も昔は三国志は読み漁ったので。劉備陣営に絡みにいくくだ…
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