降霊術しよ6
――あれは事故でした。
私がそう答えると、大きな身体の、いいえ私がことさら小さい身体であることもは重々承知しておりますけれども、私が知りうるどの生物よりも巨大な影が私の噺に耳を傾けておいででした。
――すべて偶然が重なったと言いましょうか。
少女は私を愛しておりました。生前、可愛いという言葉の意味合いを真に理解することはできませんでしたが、目が合うとそう発していたことをよく覚えております。それ以外の単語を聞いたことすらないのです。ヒトには二種類の名前がございます。小田綾香を例にだしますと小田という部分が氏で、綾香が名になります。私の氏は「可愛い」だと思えるほどに、私は「可愛い大福」と呼ばれておりました。私はこの少女にとって愛らしく保護されるべき存在なのだと、定期的に与えられる食事の量と可愛いという言葉の数で理解できたのです。もちろん、当時の私の頭は小動物という枠組みにおりましたので、少女は私に何かあったなどと語ったこともありません。私にも見せたくない心の闇だったのでしょう。
私が少女の指に噛みついたのは慣れていない石鹸のにおいに驚いてしまったからであり、私が床に落下したのは少女が噛まれたことに驚いてしまったからです。床までの距離はそうありませんでしたが、不運とは重なるものです。少女は部屋に風を遠そうとわずかに戸を開けたままにしておりました。隙間から部屋を抜けると広い廊下がございまして、私は駆け出しました。広い世界が目の前にあると駆け出したくなるものでございます。勢いよくまっすぐに走りました。滑車で鍛えた健脚は止まることができないのです。しかしながら、私の目は廊下の先の階段に気付きませんでした。ムササビのように膜を広げて滑空できたらよかったのですが、私は階段の段に何度も身体を打ちつけ、いくつも骨を折りました。少女が私を拾い上げたときには、すでに魂が肉体を離れておりました。
魂となったことですべての不自由な壁は取り払われ、周りのすべての景色もヒトの感情もみえてきました。時間の経過すらも自在となりました。私の母親は私の他に同時に七匹の子供を生んでいたことや、その後も三度子を成したことを知りました。血の繋がった兄弟の健在を知って、私の生は短いものだと気付きました。
真っ青になった少女は動かなくなった私をそっとおがくずの中へと戻しました。血は出ていませんので、少女は静かに母親の帰りを待って、帰ったら死んでいたのだと告げました。少女は母親に疑われることもなく、仕方ないと慰められていました。少女は私を失った悲しみと真実を口にすることができない弱さを延々と考え、部屋に戻ると何度も頭を掻いておりました。私は身を清めるために身体に触れましたが、ヒトはそうとは限りません。その日の罪悪感が少女を変えてしまったのです。
少女の学舎へ赴くと、少女と同じくらいの背格好の子供が溢れておりました。皆の性格や生い立ちを見るのも愉しいものでしたが、少女の感情が昨夜より冷たい色に変わってみえました。顔こそ変わりませんが、苛立ちが頭を支配していたのです。私は群れの生活をしていませんが、どうやらヒトの群れとは想像以上に厄介なものであるようでした。一部屋に上位と下位とその中間の身分がありました。境界は曖昧なものでしたが、少女は中間におりました。大部分がその中間に身を置きます。下ではないのだから、不幸とは言えません。自分の位置に納得する者もおりますが、少女はそうではありません。ヒトを否定しないように、全員に優しく接することで、自分の立ち位置を上へと押し上げたがっていたのです。場を乱さない「いいひと」として、誰にも嫌われぬようにふるまいました。好奇心のヒトに優しかったのはそのためです。けれど、地道な努力の積み重ねをしなくても、たとえ部屋に一人で取り残されたとしても、好奇心のヒトは何も気にしてはおりません。必死に取り繕って生きている少女にとっては眩しく、また疎ましく思えたのです。特別な空気を持てるのは特別な存在と周囲に認められている証左ではありませんか。少女の友人となった好奇心のヒトが固執しないその「特別」が、少女には喉から手が出るほどほしいものでした。その他大勢のなかの一人より、話題をさらうたった一人になりたいのです。
少女は友人に私の死を伝えました。母親にしたように、気付いたら死んでいたということになっています。悲しみは本物ですが、また同じ嘘を重ねたのです。友人が母親と同じように言った「仕方ない」という一言が少女の心をざわつかせました。いつもの少女なら受け流せたのかもしれません。年相応とは思えない大人びた態度が自分を下にみて、対等ではないと言われているように思えたのです。頭をもたげたままの苛立ちが激情に変わったとき、ヒトは思わぬ行動をとります。隣の席の子の言葉を聞いて、話に乗ることに決めたのです。大袈裟に教室を飛び出すことでようやく話題の中心になれたように少女は感じておりました。しかし、夢はすぐに覚めてしまいます。心配して、友人が後をついてきたのです。また自分の役を取られるという不安が少女を襲います。選ばれし者になる台本がそのときから狂いだしていたのかもしれません。
隣の教室にも同じくらい子供がいて、そのなかで黒い服を着たヒトを呼び出しました。黒いヒトは他のヒトの目を気にする、下位のほうのヒトでした。それでも、学年の垣根を超えて噂になるヒトです。少女にとっては好ましいものではありません。少女は黒いヒトに私の降霊術をしてほしいと頼みました。ちょうどよく好ましくない二人が目の前にいる。無理難題を言い、できないと責めたて、からかってやろうと考えました。黒いヒトの服よりも黒く澱んだ心の内は私にしか見えておりませんので、二人は深い哀しみのなかにある少女を思って降霊術を行うことにしたのです。少女は私に会いたかったのではなく、憂さ晴らしに恥をかかせたかったのです。三分間の呪文の最中、少女は私の名を喚んではおりません。本当に私が降りてきてしまったら台無しでございましょう。真実は紙袋のなかに大事にしまっていたいのです。
嘘をつくのが得意であるとヒトは考えがちです。嘘をつくたびに嘘はいくらか上手くなりますが、嘘が大きくなると綻ぶ箇所がいくつも生まれ、取り返しのつかないことになります。少女は優しい小田綾香の皮を被って、多くの嘘を重ねました。けれど、不思議な偶然も重なりました。降霊術が成功を果たしたのもその一つにございます。まるで少女に罪を重ねてほしくないかのようでした。私の名を騙った男は役者に憧れる情に厚い善人でございます。役者も嘘つきの類いとするならば、才能は察せられるところやもしれません。子供の頃に曖昧だったはずの上位と下位の境界は年を取るごとに明確なものとなって、大きな隔たりを作ります。私を囲んだ壁のように力で破壊できればよいのですが、この隔たりは破壊しようにも見えないのです。見えない壁を突き破るのは至難の技です。主役になりたかった男の登場に少女は自分の未来を見ました。演技に熱が入る男を見て、ようやく目が覚めたのです。
冷静さを取り戻した少女は男と話を合わせました。けれども、少女は私のことを一番に知る者です。また私も死ぬまでヒトとはこの少女のことを指すものと思っておりました。死ぬ間際までそばにいたのですから、互いに自負できるところであります。それゆえ、男が知った口を聞くのは大層腹の立つものでございました。少女はそんな悔しさに目を潤ませながら、噺を続けていたのです。
――これが私の記憶している少女の子細にございます。
ことの顛末に少女の言葉を借りるとしたら「天然のお人好しに養殖モノは敵わない」と言ったところでしょう。ヒトを騙して恥をかかせるつもりでいたのに、少女までもが恥ずかしい芝居を打つ羽目になろうとは。偶然というものは恐ろしいものにございます。しかしながら、こんなにも悪辣なことを考えていたというのに、少女のそばには愚かしくも真に優しいヒトが集うものでございますね。これこそが特別な才であると私は考えます。また贔屓目に見ましても、少女が一番の名演であったことは違いありません。
あの少女が死しても、私を覚えていたというのは存外嬉しいものでございます。墓場まで罪を背負うというのは並大抵のことではありません。直接会って謝りたいなどと。ご冗談を。貴方様もお分かりでしょう。私はもう次の滑車を回しております。
――それでは、私も先を急ぎますので。(了)