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目の前に置かれた契約書を、隅々まで読む。
「……この、外出時に必ず警護を同行、というのは?」
「そのままの通りだ、この家の敷地を出る場合、我が家か我が家が認めた人間を随行させる」
「監視なら不要です」
「警護だよ」
このジジイめ。
「女性もいます?」
「当家には女性騎士が10名ばかりいる」
家付きの騎士がいる?
芹那は少し驚いた。
私兵と違い、騎士と名の付くものはいずれも王家の承認が要るはずだ。
もしかしてこの家、思っているより要職にあるのでは。
「……その事実を安心材料ととらえてもらえるかな?」
一瞬黙った芹那の疑問を、当主は内心を言い当てる形で認めた。
「私が希望するときは、監……警護に女性をつける。
お互いに同意に至れば、これらの契約は即時破棄出来る。
このふたつを付け加えて下されば、サインします」
「いいだろう」
私が追加条件を言い出すと分かっていたかのようなスピードで、当主が同意し、すぐさまペンが用意された。
それを手に取り、はっとする。
名前、書けない。
正確には、読めるには読めるこちらの文字が書けない。
「どうした? まだなにか?」
「ううん、その……あのー、言いづらいんだけど。
名前、書けないわ」
驚いたようだが、すぐに二人とも、納得したようにうなずく。
「な? ほらな? すぐばれるじゃねえか、すぐ。空種だって」
「うるさいわね、読み書きできないのかもしれないじゃない!」
「貴族なのに? お前の国にはそういう人間がいるのか」
「識字率はほぼ100%よ!」
「それはまた恐るべき高さだな。
それなら母国語なら書けるってことか」
肯く芹那に、当主は思案し、
「ならばむしろ、真実の符丁となって良いかもしれん。
お嬢さん、母国語でお書きなさい」
他に手はない。
芹那は頷き、久しぶりだな、と思いながら、『鳴海芹那』の文字を記した。
「暗号か?」
「正式な文字です」
「……識字率100%だって? ほんとかよ」
「本当よ」
ドヤ顔をするが、別にそれは芹那の手柄ではない。
漢検だって3級までしか取らなかったし。
「なんて読むんだ」
「言わないわよ、だって本名だもん」
契約書がぽわりと光った気がしたが、目を凝らしてもただの紙だ。
気のせいかな、と思いつつ、契約は成立した。
「もう一つ聞いてもいいかな、お嬢さん」
「はい?」
「ほかの空種は、異世界にいた時の姿かたちのままこちらへ落ちてくるようだ。
だから、見た目ですぐに分かる。
しかし……」
部屋の中の視線が、芹那を上から下まで眺めるのが分かる。
「そうですね。
本当の私は、こんなに可愛くもないし、若くもありません。
それに、神様によれば、ミュリエルって子はちゃんとこっちに存在してたみたい。
他の人のことは知りませんが、私について言えば、ミュリエル嬢の体を突然乗っ取った、ということになりますね」
元来、芹那は、「空いた時間」というのが苦手だ。
ただぼーっとする、ということはほとんどない。
日本にいた頃も、テレビを見ながら刺繍をする、とか、本を読みながらYouTubeを流し見するとか、サブスク契約している映画を見ながらご飯を食べるとか、とにかく何かをしていなければ気が済まなかった。
「あー……暇」
『いいよなあ女は、暇だって言える暇があって。
俺はたまの休みなんかいつまでだって寝てたいわ、仕事で疲れてるからさあ』
記憶の底から急に、ぷかりと声が湧いた。
一瞬で心臓がぎゅっとなり、芹那はカウチの中でがばりと身を起こす。
「どうなさいました?」
芹那付きだという侍女が、驚いたように聞く。
「……ううん、何でもない」
お茶を用意している、つまり働いている彼女の横で、暇だと呟いた自分に嫌悪感を覚えた。
「お茶が入りました。本日の茶葉はオーバル産、フレーバーはポムの実でございます」
以前、芹那がお茶の解説を求めたのが伝わっているのか、いつもこうして産地を教えてくれるようになっている。
教育が行き届いている、というのはこういうことなんだろうな、と思う。
「うわ、いい香り。美味しいね」
「ありがたいお言葉でございます」
ただまあ、堅苦しいのよね。
客人だから仕方がないのだろうが、いつまでここにいるかも分からない身では、なんだか負担をかけているようで気になる。
歴史や言語、一般常識の時間を設けてくれてはいるが、芹那の性質上、外部の人間を入れるのはためらいがあるらしく、教師はほとんどがファシオか、執事のモーガンだ。
二人とも当然、本来の仕事があり、その隙間を縫う形で授業をしてくれるため、芹那の一日はほとんどが休憩時間で占められている。
何かしたい。
暇すぎる。
芹那はタブレットを取り出し、検索窓をタップした。
入力したのは、こうだ。
『暇つぶしの方法』