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「あ? なんだ、ユリアンナか、大きくなったな」
「いつまでも子供みたいに言わないでくださいませっ!
家出なさったファシオ様がお戻りと聞いて、すぐにでも駆け付けたかったのですが……。
お父様がっ!
邪魔だてをっ!」
子爵も苦労する、とつぶやいたファシオの声は、幸いにも彼女に聞こえなかったようだ。
「さあファシオ様、お出かけの間のお話を聞かせてくださいませっ!」
そこまで聞いて、芹那は確信する。
うん、わざと無視されてる。
ファシオはといえば、気づいているのかいないのか、特に表情は変えないまま、
「今は取り込んでいる。
後日、正式に使者を立てて訪ねてくるがいい」
「まあ、私よりも優先するご用事など、ありえませんわ!」
「ほう、なぜ?」
「だって、私たち、婚約者同士ではありませんか!
何を排してでもお時間をいただきませんとっ!」
そうだったのか、と考えている芹那の前で、さっきまで淡々としていたファシオの顔が、険しくなった。
「それは本当か?」
「えっ……」
「俺は聞いていないな。父上のほうから正式にそのような話を?」
「え、えっと」
「家同士の話だ、婚約自体は構わんが、俺に一言もなく決めるとは、さすがに抗議せねば」
「……」
そして首を傾げる。
「しかし、俺とユリアンナの結婚に、なんの利があるんだ?
領地も離れている、産業も事業も違う、政治的にも同じ派閥、そもそも親戚筋なのだから結びつきも最初からある、それぞれに後継ぎもいる。
得があるとは思えないが……まあ父上には何か深い考えがあるのだろうな」
ファシオが話している間、ユリアンナとやらは顔を青くしたり赤くしたりしていたが、最終的にはすすっと3歩ばかり離れ、
「思い出しました、私も急ぎの用があったのでした。
ファシオ様も、大事なご用事をお済ませになってくださいな。
では、失礼っ!」
そう言うと、下げた顔の位置でぎりっと芹那を睨み、そそくさと去っていった。
「楽しいご親戚ですね」
「嫌味を言うなよ。
子爵が甘やかして育てたツケが回ってきているんだ。
我儘も淑女がやれば醜く映るというもの。
子はいつまでも小さい子ではないということだ」
どうやら非情とも思える結婚への疑問は、分かっていてのものだったらしい。
「婚約などありえない。可愛らしい嘘だといえる域を超えているが、今回だけは許そう。
彼女には、噂がどれだけ恐ろしいか、いずれ知ってもらわなければな」
何をする気だろう。
怖い。
「時間を取らせてすまない、さあ、部屋へ行こうか」
「うん……ううん、ねえ、ちょっと庭に出られないかな?」
「一緒に?」
「それはどっちでも。
なんかお嬢さんの襲来で、気持ちが切り替わったわ。
閉じこもるより、外に出たいかも」
いいだろう、と言いながら、ファシオは私の手を取った。
それにしても、貴族っていうのはいちいちこうやってエスコートするのか。
常にだれかを気にかけているなんて、面倒くさいけど、ちょっと素敵かも。
芹那はファシオに導かれ、家の裏から庭園に出た。
イングリッシュガーデンとでもいうのか、立派な生垣というよりもたくさんの花が絶妙に配置され、その中央には広々とした芝生があった。
大きな木も適度にあり、その足元に据えられたガゼボに落ち着く。
すると、いつの間にかささっとお茶が供された。
澄んだ紅茶からは花の香りがして、芹那は一口飲んで、美味しさに目を丸くする。
「これはなんの香りですか?」
近くにいたメイドに聞くと、彼女はびっくりした顔をした。
「ごめん、話しかけちゃいけなかった?」
「いけないってことはないさ、ただあまりいないだけだ。
答えてさしあげなさい」
「は、はい、ジャスミンで香りづけされた、東方のお茶でございます」
「ああー、なるほど、さんぴん茶っぽいと思った」
「さん……ぴん?」
「うん、さんぴん茶。ほかにもあるの、フレーバーティーって?」
「はははい、色々と取り揃えてございますが、この季節はフルーツの香りがついたものがおすすめでございます」
「そっか、夏の終わりだもんね。ありがとう、美味しいです」
「お口に合ってよろしゅうございました」
メイドが離れた位置に下がると、芹那は肌身離さず持っていたバッグをごそごそと探る。
「はぁ、なんか欲しいけど、具体的に何をお取り寄せしたらいいのか分かんないわ。
美味しいチーズケーキこいっ」
指に触れたものを取り出す。
小さなココット型に入った、見た目はチーズケーキらしいものが出てきた。
同じものをもう一つと、スプーンも2つ取り出し、片方をファシオに渡す。
「お前……躊躇なく食うなよ」
「私はねえ、他に食べるものも薬もなくて、その時に、こっから出るものは全部信じることに決めたのっ、だからいいの!」
甘さが控えめの、これは、チーズケーキだ。
「うま」
「ねー、美味しいね、悪くないじゃん」
綺麗な服を着て、食事の心配がなく、夜はゆっくり眠れて、昼は広い庭でお茶。
芹那は、異世界に来て以降、初めてくつろいだ気持ちになっていた。
心の隅に、伯爵に対する苛立ちや、未来に対する不安はまだそこはかとなくあるが、少なくとも今は危険がない。
「ねえ、空種ってそんなヤバいの?」
「そうだな……あれも、ある種の特権階級だ。
我々貴族とは別の価値基準ながら、王家のお墨付きのある身分となっている。
その知識、存在は有用で、替えが効かない。
お前が空種とばれれば、確実に取り込もうと動くだろうし、俺たちはそれを阻止できない」
「身分なんて向こうじゃそんな大したもんじゃないのに……」
「なんにせよ、政権争いに巻き込まれれば、ただでは済まないな。
街に出てお前の望む自由とやらを味わっても、正直すぐに見破られて、自由もくそもなくなるだろう」
「ふうん」
芹那は、この世界に染まった向こうの世界の人間について考える。
有用ということは、それなりに知識や技術のある人間たちだろう。
なんだか、あまり近づきたくない気がしてきた。
「……ファシオ、ありがとね。色々思惑はあるだろうけど、私に一番いいと考えてくれたのかもって気がしてきた」
ファシオは、芹那を見た。
そして、ふ、と笑う。
「呑気なのか聡いのか分からんな、お前は。まあ、怒りっぽさがなくなって、良かったよ」
「褒めてないわよね?」
怒って見せつつも、ファシオのその自然な笑顔に、少しだけどきりとした。
「ぼっちゃま、旦那様がお呼びでございます」
「ああ、今行く」
食べ終わった食器類をかばんに放り込み、芹那は立ち上がった。
ぼっちゃんだって。
にやにやしながら彼の後について屋敷に入り、それから、そうだこの人はお坊ちゃんだ、と改めて認識する。
ひきかえて自分は、追放された元令嬢。
終わってるわ。
それ以上考えることをやめ、芹那は執務室のドアをノックした。