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「糸ではなく布そのものを染めております。
仕立て上がりから逆算して染付の位置を決めておりまして、布そのものが一枚のカンバスなのでございます」
着物と同じ染色方法は、布でもにじまないインクや、そもそものデザイナーの確保、職人の育成と、困難を極めた。
それでも、時間とイニシャルコストをかけただけの価値はある。
どこにもない技術は評判を呼び、まっさきに王妃陛下に献上したこともあり、いまや公式の行事にもちらほらと見かけるほどに流行し始めている。
とりあえずはまだ高価な値付けをし、高位貴族かセレブ商人しか買えない価格だが、数年をかけて徐々に庶民にまで浸透させたい。
販売間口を広げることが、長く商売を続けるコツだ。
芹那は、公爵夫人に熱心に説明している店員に、心の中で合格点を告げ、バックヤードに引っ込んだ。
実売はすでに手を離れ、支店も含めて、各店舗に責任者を置いている。
芹那の役割は、新しいアイディアや問題点の解決、そして──。
「お待たせいたしました、お義母様」
「2分の遅刻です」
「も、申し訳ありません」
義母であるメリッサは、いつもの通り、背筋を伸ばして座っている。
目の前には、いくつもの茶葉とティーカップだ。
これから、産地ごとのお茶の特性と味を教えてもらう。
貴族としての嗜みらしい。
このほかに、もちろん国の勢力図、国内の力関係、冠婚葬祭の決まり事、マナーや暗黙の了解、メリッサから伝えられることはいくらでもある。
学生時代を超え、ようやく学びから解放されたはずの芹那は、ふたたびあの頃のように予習復習の毎日だ。
「あら、綺麗なノートね」
「分かりやすいノート作りは、受験生の必須テクですからね」
「それ、ちゃんと残しておいてちょうだい」
「いいですけど」
「あなたの子供に、私自身が教えられるとは限りませんからね」
結婚から三年、いまだに子供のいない芹那は、ちょっとばつが悪くなる。
淡々としてはいたが、嫌味だろうか?
ちらりとメリッサの顔をうかがうと、彼女はそれにきづいて苦笑した。
「分かっているわ、家族計画なのでしょう?」
「あ、はい。そう、です。
まずはひと財産稼いでからですね……」
「もう聞いたわ」
ファシオは、ラバーの木の植樹に立ち会っていて不在だ。
界渡り達を返してしまった芹那は、効果のありそうないくつかの産業を、この世界のために広めることにした。
主に第一次産業に関わる知識に絞ったのは、貴族ではなく庶民たちに技術を与えるためだった。
それと、ラバーは例外的にファシオに任せた。
初めてこの世界の森を歩いた日、ボロボロになってしまった靴底に絶望したことを、ずっと忘れられなかったからだ。
あれからずいぶん経った。
投げ出していた人生は、すでに取り戻し、芹那の中にある。
とはいえ、家を重んじる貴族社会で、何年も子供を産まないのは外聞が悪い。
何も言わないが、義父のジャックも気になっているに違いない。
にもかかわらず、ヴァンドール家の面々は、誰も正面切って子供を要求しない。
もちろん、ファシオが抑えてくれているのだろうが、それにしてもだ。
「家族計画とやらに私が口出ししないのが不思議ですか?」
内心をまたも見透かされたように、お茶を含んだ瞬間に問われて飛び上がる。
かろうじてこぼさなかったが、狙ったかのようなタイミングは、絶対にいじわるだ。
義母は、くすりと笑った。
「いいわ、なにがなんでも口からものをこぼしては駄目。
なかなかの自制力がついたじゃないの」
「お褒めにあずかり……」
低く答え、ほんの一滴、ソーサーについてしまった紅茶を魔法で消し去る。
「あなたが思っているより、私はあなたを評価しています」
メリッサの静かな声に、芹那は黙って紅茶を飲む。
「異世界で育ったあなたに、この世界の感覚を全て理解してもらおうとは思っていません。
それに……我が家をしばっていた誓約を消し去ったことに感謝もしています」
義兄であるジェルマン家のことだろう。
「もしあなたが家という観念を持っていたら、我々はいまだにアレにはりつかれていたでしょう。
家ではない、ファシオを守るという目的で動いていたあなただから、あそこまでもっていけたと思っています」
メリッサは、普段厳しく細められている目元を、ほんの少し和らげた。
「息子をよろしく頼みます。
あの子は少し……貴族社会をうとましく思っているような子でしたから。
将来、兄であるアベルを支えるにあたり、その気持ちを抑えつけながら生きていくのだろうと思っていました」
「ファシオ様も、あれでおうち大好きですからね」
「ええ。
もちろん、あれはこの家を捨てることはしないでしょう。
けれど、この家が全てではなく、隣にあなたとの生活が広がっている。
それはあの子の人生を良いものにするでしょう」
彼女は、息子を想うような目つきからゆるやかに戻り、次の紅茶を淹れた。
「これはさきほどの茶葉に、三種類のハーブをブレンドしました。
何が入っているか、当ててごらんなさい」
「ちょうだいいたします」
飲み頃の温度に調整された一口を含み、その味を確かめる。
「……分かりません」
「そうでしょうね、その様子では」
芹那は、やけにしょっぱい味が混じる紅茶を、ひたすら飲み続けた。
「おかえりファシオ!」
やや酒臭いファシオを迎え、芹那はその手を引いて居間に引き込んだ。
ちなみにまだ、ヴァンドール家に住み込んでいる。
部屋は無駄に余っているし、拠点を構えるのはまだ色々落ち着いてからでいい、と思ったからだ。
合理的なその理由に、義父は大笑いして許可をくれた。
「どうだった?」
「ああ、やはりデモンストレーションが利いたようだ、目星をつけていた連中はみな出資すると」
ラバーを流通させるにあたって、芹那は株式会社のような方式を提案した。
服飾事業といい、そもそも聖女を囲い込んでいることといい、あまりヴァンドール家に利益が集中するのは好ましくない。
今日は、商人や貴族を集め、ゴム底の靴と、ばねと併用した密閉容器の試作品をお披露目したのだ。
「良かったー、あとは量産体制ね」
ファシオの気配を感じたのか、寝ていたはずのサクラがひょいと現れた。
「お土産は?」
「遊びじゃないっての」
「ひどいのだわ!」
ノックがあり、水の入ったグラスを持って、執事のモーガンが入ってくる。
「あ、ねえモーガン、これあげるわ」
「はて、なんでしょう」
「髪ゴムだよ、ねえちょっと座って」
実は長髪でイケオジのモーガンを無理矢理座らせ、その髪をひとつに結わえる。
「ほう、伸び縮みするのですね、落ちてしまうこともなく、髪が傷むこともなさそうです。
市井のご婦人方が重宝するでしょう」
「もっと短く細くして、結い上げる時にも使えるから、貴族でも欲しがると思うの。
ってかなにより私が欲しかったの」
芹那は、ポニーテールにした根元をモーガンに見せる。
「いただいてよろしいのですか?」
「うん、ねえ、私を捨ててこなくて良かったでしょう?」
出会った初日に言われたことをあてこすってニヤニヤしたが、彼はさすがそつなく、
「苦言にやすやす従わぬように坊ちゃんをお育てして良かったと思っておりますよ」
と答えた。
「さて、その坊ちゃんが不機嫌極まりない顔をなさっていますので、退散しましょう」
「え?」
モーガンと入れ替わるように、義父母である伯爵夫妻が入ってくる。
「ああモーガン、全員にお茶を頼むよ」
「かしこまりました」
「私も飲むのだわ!」
「なんだい、その髪についているのは」
「お嬢様からのいただきものでございますよ」
モーガンに呼ばれたメイドの後ろから、義兄のアベルも顔を見せる。
「ただいま戻りました。ちょうどいい、僕にもお茶をくれない?」
メイドがあたふたと茶器を増やしている中、伯爵夫妻はモーガンを座らせ、髪ゴムを検分している。
アベルは、疲れた顔に満足そうな表情を浮かべながら、一方的に出張の成果を報告し始めた。
ファシオが呆れて、仕方なさそうにそれを聞いている。
芹那はその全ての喧騒の中、メイドのいれたお茶を飲む。
彼女が窺うように見てきたので、得意げな顔で産地を当てて見せた。
満足そうに嬉しそうに肯く彼女を下がらせ、芹那は賑やかな室内に身を沈めていく。
ここに幸福がある。
まぎれもなく芹那が掴んだものだ。
不満だらけの人生を覆して得た時間は、誰のせいにもできないから、だから芹那はきっとこれからもずっと、神様には祈らない。
「でもありがとね、女神様」
チャンスをくれた女神にお礼を言うと、応えるようにどこかから光が飛んできた。
それは芹那とファシオの胸に飛び込んでくる。
彼は気づいていないようだが、芹那は、あっと気づく。
これは契約だ。
この家に初めて来た日、伯爵との間に交わされた、この家にとどめ置くための誓約。
それが今、破棄された。
お互いに同意に至れば破棄すると約束したはずだ。
芹那はそっとジャックを見る。
彼も気づいていないようだが。
穏やかに笑いながら、モーガンに貸してもらったゴムで夫人の髪を結んでいる。
契約ではなく、本当にこの家に受け入れられたのだろう。
芹那は幸福に包まれ、ファシオに身を寄せる。
ここで生きてく。
神様に祈らない聖女は、末永くここで、ずっと。
<End>
ちょーっと長くかかりましたが、完結いたしました。
お読みいただいてありがとうございます。
次回より、投稿中の「あの日あなたは私に愛を捧げた」のほう、続きを更新していきます。
読みかけの方も、初めての方もぜひ。