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その後、神崎がしたことは数少ない。
まず、サイバー課を訪ね、懇意の職員に頼みごとをした。
それから、足のつかない方法で、いくつかの動画をSNSに流した。
それだけだ。
異世界に行く前の神崎ならば、絶対にとらなかった方法だ。
だが、普通のやり方ではいつ解決するか分からない。
むこうとこちらでは、時間の流れが違う。
神崎は急いでいた。
急いで、芹那の心を救いたかった。
そのためには、正規の方法を取らないという選択は、難しい決断ではない。
それほど、神崎は芹那に感謝している。
きっと神崎だけではない。
あの世界からこちらに帰ってこられたすべての人間が、彼女に心からの感謝をささげるだろう。
人生を取り戻したのだから。
親を、子を、配偶者を、いやペットでも仕事でもなんでもいい、失ったと思っていたものを再び手に出来たのは、芹那がいたからだ。
だから、彼女の願いは、神崎の願いでもある。
「いや、一人だけいるか」
感謝していないのは、祖父江高市くらいだろうか。
神崎は薄く笑う。
密かに調べたが、彼は東京ではなく、地方都市で起業していたようだ。
会社の登記は残っていたが、すでに事務所は空で、従業員もいない状態だ。
彼自身は、行方が知れない。
最後に姿が確認された時、債券業者らしきこわもての男たちに、バンに連れ込まれていたという情報がある。
おそらく、生きてはいる。
生きて、どこで何をされているやら、だ。
なんにしろ、神崎の行動は、予想以上の騒ぎを生んだ。
『あのさあ、もし浮気してたとしてだよ?
それがお前になんの関係があんの?
お前が、俺のすることに口出しできる権利とかあんの?』
『妻にはあると思うけど』
『つぅまぁぁぁぁ? よく自分で言えるよねー、お前は妻なんて上等なもんじゃなくて、我が家のニートじゃん!』
『あのさ、働かないで家にいろって言ったの、孝文でしょ』
『すぐ人のせいにする! お前はいっつもそう!
あのさ、俺が機嫌悪いとか言うけど、そうさせてるのはお前だから。
つまり、お前が悪いの。
自分の悪いところを俺のせいにするとかさあ、ほんと、人間がどうかしてるわ!』
『んまぁ、芹那さん、こんな不味いものをあの子に食べさせているの?
信じられないわね、仕方ないわ、私が教えてあげます』
『いえ、これはうちの味で』
『はーっ、何を考えているの、あなたの家の味をなぜこの家で出すの!
ここは鳴海家よ? あなたはその家に嫁いできたの。
何から何まで、うちのやり方でやるのが当たり前でしょう!
これだから、ちょっと小金のあるような家の子は……。
ああでも、実家にお電話したら、どうぞ躾けてやってください、ってお願いされたのよ。
ほーんと、無責任な親を持って、可哀想ねえ芹那さん。
でも大丈夫よ、あなたは私の言うことをきいていればいいの。
それでうまくいくのよ。
さあ、分かったら、その鍋の中身を捨てて、新しく作り直しなさい』
『だから言ったでしょう、お母さんたちの言うことをきかないからそうなるの。
勝手に大学に行くとか、勝手に結婚するとか、全部あなたの自業自得よ。
結婚したら夫が変わった?
知ったことではないわ、芹那、あなたはもううちから出たの、うちの子じゃないのよ?
離婚なんて許しません。
さあ、お兄ちゃんが帰ってくる前に出て行きなさい。
あの子、あなたの顔を見ると不機嫌になるのよ。さあ。さあ!』
世界中に流れた音声は、当初の書き込みがすぐに削除されたにも関わらず、その後も拡散し続けた。
有名インフルエンサーがまとめた上、孝文のアカウントが特定され、多数の書き込みがされた。
孝文はすぐに退会したが、時すでに遅く、過去のつぶやきから卒業校や住居エリアが流出する。
会社にも行けず、母親と二人で自宅にこもっているようだ。
この期に及んで母親とか、とあきれるが、彼女もまた、近所からひそひそと陰口をたたかれ、そればかりか直接暴言を吐かれることもあったようで、さすがに不安だったのだろう。
息子の元に身を寄せるのも仕方がないかもしれない。
二人まとめて同じ場所にいるのだから、動画投稿勢が近所を撮影しながらウロウロし始めるのは必至だ。
住民たちは苦情を入れるようになり、かといって実家は処分済みのためすぐに引っ越せる場所もなく、彼らは縮こまって生活しているようだ。
しかし、そんな生活も長くは続かないだろう。
なぜなら、芹那の失踪に捜査の手が入り始めたから。
ようやく、これがただの失踪ではないと認識され、本格的に警察が動き始めた。
隣の一課も、動くかもしれない。
誰もが、芹那の結末を予想していた。
そうして。
一週間後、芹那の遺体が発見された。
「どもっす」
喫茶店で向かい合ったのは、神崎が鳴海家を訪ねた際に同行した所轄の刑事だ。
今更ながら、彼の名前は、多崎というそうだ。
「すいません、警視庁の方をわざわざ呼び出して」
「構わないよ。でも忙しいんじゃないのかい?」
「ええまあ、はい、でもほとんど解明されたので」
芹那の遺体があったのは、鳴海家の実家の裏の山だった。
埋められていた。
「探さないでください、っていうメッセの、前日に殺していたそうです。
また浮気を責められて、その日はなんだかしつこくて、突き飛ばしてしまったと」
「つまり、芹那さんのスマホを使って誰かが偽装のメッセージを出した」
「はい。最初、孝文の母親だと思ったんですが、違いました」
「浮気相手でもなかったんだよね」
孝文は会社にいたし、母親はスマホの操作が出来ない。
そう誤魔化しているだけかもしれないが、必死に否定する様子から、どうも本当に知らなかったようだ。
候補にあがったのは、孝文の浮気相手だが、これもアリバイがある。
「あれこれ孝文近辺じゃないんじゃ、って雰囲気になったんですけど。
警視庁のサイバー課から、なぜか、孝文の過去のスマホ上のやりとりが報告されて。
今の浮気相手よりずっと前から、別の女がいたんですよ。
このところ、証拠を残さないためか、出会い系アプリを通してやりとりするっていう驚くような手段で連絡し合ってました。
調べてみたら、ビンゴで。
この古い愛人のほうが、芹那さんの遺体を運び、埋めていました。
よくやりましたよ、女一人で」
ずっと緊張状態にあったせいか、つつけばすぐにゲロったらしい。
結局、殺したのは孝文で、彼女は遺体の処理とアリバイ作りを一手に引き受けたのだ。
孝文があれほど余裕だったのは、新しいほうの女ばかりに注目がいき、隠しに隠していた共犯者の存在がばれなければ、アリバイが崩れないという自信があったからなのだ。
「犯人はどんな様子?」
「殺意はめちゃくちゃ否認してますけど、すぐ落ちますよ、あれは。
だって偽装工作に、事前に準備が必要な愛人隠しとか、毛布とロープ購入とかあるし。
それに、ネット上で叩かれ、近所から悪口を言われ、友達や同僚から非難されて、会社もクビ。
今まで外面が良かったみたいですからね、そのギャップで、めちゃくちゃ言われてます。
昔の発言とか、卒アルとか、流出しまくってますね。
本人は人望があると思ってたみたいで、そういう仕打ちに落ち込んでます。
よくまあ落ち込めますよね。
もしかして、本当に自分は悪くないとでも思ってるんじゃないかな。
でもまあ、完落ちまですぐ、起訴もスムーズだと思います」
「母親の方は?」
多崎は、アイスコーヒーをずずっと吸い込むと、
「あー、抜け殻ですね。
本当に何も知らなかったみたいで、すぐに釈放されています。
自分のマンションにいるようですが、そちらにも嫌がらせがあるようで、参ってますね。
特に、近所の若い奥さん連中にも、こう、忠告というか小言をうるさく言っていたみたいで、反撃くらってますね」
ありゃあボケるんじゃないかな、と彼は呟く。
生きがいだった息子が逮捕されたというのは、彼女にとって全てを失うのに等しいのだろう。
抜け殻というのも頷ける。
「芹那さんの実家の方も、大変みたいですね」
音声が出たのは、母親のみだ。
冷ややかな関係であることが明るみになったが、なぜか、家族そろって周囲から責められているらしい。
それほど、彼らの芹那に対する態度は、昔からあからさまだったのだ。
彼女一人を差別し、冷遇し、挙句の果てに、助けを求める手を振り払って、直後に死んでしまった。
実行したのは夫だが、間接的に彼女の死に加担したも同然、という見方がほとんどだった。
「で」
「え?」
「神崎課長、彼女とどういう関係なんですか?」
「関係なんてないよ」
「そんな訳ないじゃないですか、仕事でもないのに所轄に首突っ込んで聞き込みしておいて。
てかあの音声、まじで出所が分かんないんですよ。
当然、芹那さん自身が録音記録しておいたものでしょうけど、媒体が見つからない。
スマホにも入ってなかった。
なんですかね、死んだ後に出たんだから、本人ではありえないから、きっと近い誰かなんですけど。
でも、そんな人、浮かんでこないんですよ」
「俺は、生きてる彼女に会ったことなんかないし、ただ事件として気になっただけだから」
多崎は、非常に疑わしい顔をしたが、実際に神崎と芹那に接点はないのだから、首をかしげつつも、そうっすかぁ、と言った。
「はー、なんか可哀想な女性でしたね。結局死んじゃって」
ごく一般的な彼の感想に、神崎は、そっと、肯いた。
けれど、心の中に浮かんでいるのは、彼女とその隣にいる大柄な男だ。
彼がいれば大丈夫だろう。
ファシオの心根が、善ばかりではないと知っているが、人間生きていればきれいごとだけで生きていくほうが損をする。
彼のバランス感覚と思い切りの良さが、きっと、芹那を幸福に導く。
神崎は、そう、信じる。
これが最後。
残りの魔力を使って、神崎は、右目に触れた。
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『いやでも、あれは俺の嫁ですよ。だから』
『夫婦間に上下関係はないんです。そもそも、婚姻を結んでいるのに不貞を行うのは、民法では訴訟の対象になります』
『え。いやそういうのは、ちゃんとした夫婦の場合でしょう』
『あなたと芹那さんは、届を出してきちんと認められた、ちゃんとした夫婦です』
『いやでも、母さんが、嫁はうちに入ったんだからうちのものだって』
『あなたとお母様の戸籍は別です。彼女はお母様の家に入ったのではなく、あなたと平等に結婚しあなたの家族になったんです』
『ええ……平等……?』
『なんにしろ、起訴は免れません。裁判では、潔く罪を認めたほうが、刑が軽くなる可能性があります、だから……』
『裁判!? いやだ、なんで俺が!
弁護士さん、なんとかしてください、それが仕事でしょう!?
絶対いやだ、刑務所なんて入らないぞ!
助けてくださいよ!
ここから出してください!
あ、母さんを呼んでください、母さんなら、俺を出してくれるはずですから!』
くす、と芹那は笑った。
映像はどうやら、若い刑事の視点らしく、ぐるりと視界が動く。
呆れたのだろう。
神崎から、もう魔力は感じられない。
これが最後の映像だ。
でも、もう十分だった。
芹那は殺され、そして犯人はきちんと捕まり、法の裁きを受ける。
彼には、過酷な未来が待っているだろう。
プライドが高く、誰かがなんとかしてくれるのが当然だった人生で、初めて自分自身の責任をとらなければならない。
耐えきれるかどうか、それが更生を決めるだろう。
「絶対無理だけどね」
社会復帰が出来るなんて思えない。
芹那は、何もかもを失った夫を、憐れみ、同時に、こう言いたくなる。
「ざまーみろ」
「芹那」
動画を閉じ、タブレットをしまった芹那に、ファシオが声をかけてきた。
「行こうか」
「うん」
芹那は立ち上がり、気合を入れた。
向かう先は、応接室だ。
そこには、ヴァンドール伯爵以下、家族と客人が全員揃っている。
今夜は、勝負の夜なのだった。